ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

浦和おどり

2012年09月13日 11時49分46秒 | 祭・催し
浦和おどり

♪ハァ 花のつぼみに 心もなごむ
 春は荒川 田島ヶ原に
 咲いてやさしい さくら草

「浦和おどり」を都はるみが歌っていること(大川栄策も)を知ってから、浦和踊りにいっそう興味がわいてきた。

このような踊りは生まれてやったこともないのに、よく通っている岸町公民館で、在留外国人の日本語学習の手伝いをするボランティア・グループ「くすのき」が、浦和踊りに先駆けて、お師匠さんを呼んで生徒におどりを教えると言うので、勇を鼓して参加してみた。

習い始めてはみたものの、いっこうに上達しない24式太極拳と違って、動きははるかに少ないし、それを何度も繰り返すだけ。生まれつき運動神経にはからきし自信がなくても、練習すればなんとかやれるのではないかとの感触を得た。

梅雨が明けたばかりの10年7月18日、旧中山道の旧浦和市の目抜き通りで第34回が開かれるというので真っ昼間から見物に出かけた。日差しは早くも真夏並みだが、風があるのが救いだった。

皮切りは、小学校の金管バンドによる音楽パレード。浦和にはこんなに小学校が多いのかと思うほど、次々に行進してくる。神田小学校と東京並みの校名や、なんと読むのかなと首をひねる道祖土(さいど)小学校と眺めているだけで楽しい。

バトンを持ったリーダーはたいてい女子。高校生並みの背の高さだ。バンドのメンバーもなぜか女子が多い。みんなおそろいの帽子、制服でカッコいい。どのドラムにも「YAMAHA」の文字があるので、まるで「YAMAHA」の宣伝パレードのよう。

バンドの前進に合わせて、歩道の動きもあわただしい。お母さんたちがわが子の晴れ姿を撮ろうと、小型のビデオカメラを頭上にかざして移動しているからだ。

音楽の授業もピアノじゃなくオルガン。小沢昭一の歌にあるとおり「ハーモニカが欲しかったんだよ」の時代に育った目からみれば、「日本もお金持ちになったもんだ」という感慨が湧いてくる。

おどりは午後4時から始まった。車椅子や、児童福祉施設のグループもある。一緒に踊りの基礎を習った外国人の学生たちも「国際交流市民の会連」の中でお師匠さんとともに上手に踊っていた。

「見沼通船舟歌保存会」の連もある。「コミカルダンスの仲間達連」の楽しい踊りもあった。驚いたのは、私も通っているシニアユニバーシティの北浦和と東浦和校の校友会連が背中に「祭」のそろいの法被を着て大挙参加していたことだ。

「流」や「会」が下に付く踊りのプロの連は、衣装はもちろん、手さばき、足さばきもさすがに見事である。一回だけ習っただけなのに早くも評論家気取りだ。

最後は、常連の伊勢丹の山車とコルソ連。コルソ連の山車に載せた怪獣は、白い煙を吐いて観客を喜ばせた。主催の「さいたま観光コンベンションビューロー」によると、踊ったのはざっと2500人。清水勇人市長も、席を立って通り際で手拍子をとる姿も見られた。

夜8時近くまで、踊りも浦和見沼太鼓の音も撥さばきも十分堪能させてもらった。来年は、見物だけでなく踊ってみようかなという気にさせる地元の祭りだった。




関東一の提燈祭り 久喜市

2012年07月20日 15時24分28秒 | 祭・催し



「関東一」の触れ込みに魅かれて、12年7月18日に、「天王様」と呼ばれる久喜市の提燈祭りを、昼と夜の二度も見物に出かけた。

「天王様」とは、旧久喜町の鎮守「八雲神社」の祭礼のことである。

昼間の山車は、日本の神話などをテーマにした人物を飾り付けた「人形山車」。それが夜には四面に約五百個の提燈をつけた「提燈山車」に“大変身”する。

人形から提灯への早変わりは、富山県高岡市の「伏木曳山祭」でも行われているそうだが、例は少ないという。

十段の飾り付けをした、高さ約7.5m、重さ約4tの「提燈山車」8基が、それぞれの町内を引き回した後、JR久喜駅の西口広場に集う姿が「関東一」なのだという。

「人形山車」の人形は、「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」「日本武尊(やまとたけるのみこと)」「神武天皇」「神功(じんぐう)皇后」「武内宿禰(たけのうちのすくね)」と日本神話の主人公に、なぜか織田信長が混じっているのが面白い。

山車の中では、女性や子どもたちもお囃子をたたいている。

昼間は、「久喜まちの駅」前の「八雲神社御仮屋」に集結して、町内を巡行する。この後、人形を取りはずし、2時間ほどかけて山車の四面に400個以上の提燈を飾りつけた、提燈山車に早変わりする。

夜8時半ごろから駅前広場に集結する前には、広場の周囲や広場を取り囲む歩行者デッキには黒山の人だかり。おまわりさんも整理に声を枯らしている。

提燈山車が8基終結するとなかなか壮観。ぐるぐると回転したり、山車同士がぶつかり合うと、歓声が上がる。

それぞれの提燈には、「本一」「本二」「本三」などと山車が所属する町の名前が書いてあるだけで、コマーシャル色がないのに感心する。

起源は、1783(天明3)年、浅間山の大噴火で、桑を始めとする夏作物が全滅、生活苦や社会不安を取り除くため、豊作を祈願したのが始まりと伝えられる。

後で聞いて驚いたのは、この提燈の明かりは電気ではなく、ろうそくだという。走ったり、回転したりするのに、提燈に引火して火が出ないのが不思議なくらいだ。

何か特別な工夫でもあるのだろうかと、聞いてみたら、ろうそくの受けがネジ式になっていて、揺すっても倒れないようになっているのだという。

久喜市は、栗橋や菖蒲、鷲宮と合併したので、人口は15万人になった。18日は13万人の人出があったという。
 


日光御成道まつり 川口市

2012年02月09日 17時00分16秒 | 祭・催し



川口市と鳩ヶ谷市の合併一周年を記念する「川口宿 鳩ヶ谷宿 日光御成道(おなりみち)まつり」が、12年11月11日(日)に開かれた。

人口58万になった両市が、徳川家康を祭る日光東照宮参拝往復の御成道の宿場だったことから企画されたもので、300年ぶりに八代将軍吉宗による社参(神社参拝)行列などを再現した。

市民など総勢1800人が当時の衣装などで、川口側1.5、鳩ヶ谷側1.1kmを練り歩き、約18万人の見物客が川口駅から地蔵院までの本町大通りと県道122、105号線の両側を埋め尽くした。

吉宗には、テレビドラマ「暴れん坊将軍」で吉宗を演じた松平健(58)、岩槻藩主の姫役にはアイドルグループ「HKT48」の指原莉乃さん(19)が起用され、人気を盛り上げた。

川口元郷駅から鳩ヶ谷駅までの移動には埼玉高速鉄道を利用した。

社参行列に先立ち、小、中、高などのマーチングバンド、獅子舞、囃子神楽、木やりの郷土芸能が披露され、三代将軍家光時代の岩槻藩初代藩主・安部正次の参勤交代の大名行列も再現された。

大名行列にはおそろいの衣装の腰元衆も多数参加、踊りを披露した。

大名行列に続いて、平安時代末期から昭和初期に活躍した両市にゆかりの著名人の歴史行列も繰り広げられた。最後が日光社参行列で、健さんは人力車に乗って現れた。

沿道で見ていて最も興味を魅かれたのは、「川口歴史行列絵巻」だった。

先頭は源義経。「え!なぜ? 」。ガイドブックによれば、「義経記」に1180年、源氏再興にかける頼朝に合流しようと、奥州から鎌倉に向かう義経が小川口(川口市)で、兵をあらためたとの記述がある由。

鳩谷兵衛尉重元(はとや・ひょうえのじょう・しげもと)は、鎌倉時代に鳩ヶ谷を治めた武士。

中田安斎入道安行(なかだ・あんざいにゅうどう・やすゆき)は室町中期の豪族で、安行の「金剛寺」を開創した。いずれも鳩ヶ谷、安行の地名の由来だ。

安行に近い赤山陣屋に居館を構え、関八州を治めた関東郡代・伊奈半十郎忠治(いなはんじゅうろうただはる)らの伊奈家の面々も初代忠次から改易(領地を没収)された12代まで顔をそろえた。

見沼代用水を開削した井沢弥惣兵衛為永(いざわ・やそべい・ためなが)、「安行植木の開祖」吉田権之丞(よしだ・ごんのじょう)、江戸後期に川口の鋳物師増田安次郎とともに当時製作不可能とされた18ポンド・カノン砲を造った砲術奉行の高島秋帆(しゅうはん)・・・。

女性では、幕府最後の御年寄・滝山(錫杖寺が墓所)なども姿を見せ、老人には極めて愉快だ.った。











南越谷阿波踊り 越谷市

2011年08月30日 13時48分26秒 | 祭・催し



最近、日本の祭りに興味を持っている。日本の祭りの踊りの中で一番好きなのは、「阿波踊り」である。

さいたま市近くの南越谷で「南越谷(なんこし)阿波踊り」をやっていることを知ってはいた。10年に初めて出かけてみて、その盛況ぶりに驚いた。

「日本三大阿波踊り」の一つだという。三大というより「三番目の規模の」といったほうが正確だろう。11年の第27回目にも出かけた。雨もよいの空模様ながら、多くの人が詰めかけている。二日間で徳島や先輩の高円寺からの招待連を含む70連、5千人が踊り、60万人が見物に来るという触れ込みだった。

病み付きになって第30回にも出かけたら、参加蓮は78、踊り手は約6千人になっていた。人出はこれまで最高の70万人に上ったという。

午後5時過ぎスタートのここの踊りを見ていると、子供も多く参加していて、この地に根ざしてきたのではないかという感じがした。

親に連れられた3歳前後の子が、祭り衣装を着て、泣きべそをかきながらついていく姿も見た。その耳には一生、阿波踊りのリズムが残るだろう。5-12歳の「こどもにわか連」もある。

白シャツ姿の「阿波踊り振興会」のスタッフも多数出て、整理や清掃に励んでいて頼もしい。暑い最中なので、各種のウチワが次々手渡されるのもありがたい。

「ヤットサー ヤット ヤット」「エライヤッチャ エライヤッチャ」のリズムは、日本人にはピッタリで、誰でも踊りたくなるような魅力がある。よく観察していると、見物人の中に無意識に手や腰を動かしている人もいる。

「まさに踊らにゃソンソン」なのである。全国で30か所以上で阿波踊りがあるというのもうなずける。

徳島につぐ規模の東京・高円寺の阿波踊りにも出かけた。11年で第55回目。南越谷より二回り先輩だ。東日本大震災で自粛して、夜ではなく昼間開催(午後3-6時)だった。広くない通りに、いつもなら150連、踊り手1万人、観客百万人超が詰めかけるというからすごい。

400年の歴史を持つ徳島では、4日間で踊り手10万、人出130万人超という。

高円寺駅に降り立つと、ガードマンや警察官がいっぱい。柵がものものしく、一方通行になっていて、指示された通路に沿って、やっと踊りが進む通りに出ても、人垣が厚くて囃子は聞こえてもよく見えない。

高円寺はガード下を中心に焼き鳥や焼肉、寿司屋が多いところだ。踊りが見えないなら、入ってみようと思っても、これまた人でいっぱい。安くて美味そうな焼き鳥屋もあるのに食べずじまいだった。

高円寺に比べればはるかに新開地の南越谷では、通りも広く、じっくり見られる。「踊る阿呆」にも「見る阿呆」にもスペースがあるのがうれしい。

南北に走る東武伊勢崎スカイツリー線を挟んで東西に走る4本の目抜き通りが“演舞場”になり、駅前などに流し踊りとは一味違う舞台踊りや組み踊り用の舞台もある。

駅裏に安さと新鮮なもつ煮やもつ焼きで人気の店もあり、久しぶりにたらふく食べた。

聞けば、始まったのは1985(昭和60)年。越谷市に本社を置く徳島県出身の実業家、故中内俊三氏が、越谷への恩返しと正調阿波踊りを広めたいという一念から南越谷商店会に提唱したもので、最初は3万人の人出だったという。

26歳で妻子を残して上京、バナナ行商から身を起こして、埼玉県南部を中心に戸建て分譲住宅などで知られるハウスメーカー「ポラスグループ」の創設者になった。

メセナ(企業が行う文化支援活動)といえば、大企業のやることというイメージが強い。今でも寄付者のトップ(1千万円)を占める大きな名簿を見上げながら、南越谷にもこのような先達(せんだつ)がいたことに、PR業界の端くれだった者の一人として感慨を覚える。

17年11月28日には芸術文化の振興に貢献した企業に贈られる「メセナアワード2017」(企業メセナ協議会主催)の優秀賞「街が踊る賞」を受賞。同じ月の5日には徳島市であった「秋の阿波おどりコンテスト」(徳島県など主催)で、越谷市の「南越谷商店会 勢=きおい=連」が優勝した。

勢連は1989年に設立されたしにせの連の一つで、コンテストには徳島県外の1府4県から7つの連が参加した。


日本一の大凧あげ 春日部市 

2011年05月27日 17時26分38秒 | 祭・催し



「ジャンボこいのぼり」が大型クレーンを使うのに対して、春日部市西宝珠花の江戸川河川敷の堤防の斜面を使う「大凧あげ」は、小川和紙1500枚を使った重さ800kg、縦15m、横11mもある日本一の大凧を、風と集団の力で上げようというものだ。日本一「百畳敷大凧」が売り物。

重さ150kg、縦6、横4mの女性が引っ張る小町凧も、子供が引く子凧もある。

凧に書かれる文字は年々変わり、11年は「武蔵」と「春風」だった。

江戸時代後期、出羽(山形県)の僧、浄信が養蚕の豊作占いとして凧あげをこの地に伝えた。「凧が舞い上がる」を「繭の根が上がる(繭上がる)」にかけたものらしい。

いつの間にか端午の節句の凧上げに変わり、明治30年ごろから大きくなった。春日部市に合併前は「庄和町の大凧あげ」として知られ、毎年10万人が押し掛ける伝統行事だ。

「国選択無形民俗文化財」に指定されている。全国的に珍しい行事ということらしい。

「世界一」と「日本一」が同じ日にかちあうのだから、見る方も大変。午前中の「こいのぼり」が終わると、急いでバスと東武伊勢崎線を乗り継ぎ、「凧あげ」に向かった。

大凧上げには100人が必要。元気な若手の動員がままならないので、10年、地元の中学生を使ったら、首に引き綱が絡まり、けがをする事故があった。体力に自信のある引き手を公募する。

大凧を川の斜面まで運ぶのも一苦労。皆で担いで斜面に安置して、百人の引き手が綱に取りつき、風を待つ。しかし、それは風の勝手である。(写真)

ちょっと風が来ると、指令が出て、一斉に引く。ちょっと上昇の気配を見せても、降下してしまう。風と人と共同作業なのだ。何度もやっているうちに、帰る人も出てくる。

「風が4、5mはないとな」と長老が教えてくれた。その風はどのような強さか聞きそびれた。毎年上がるというわけではなさそうだ。

例年5日には午前中、日本凧の会による「全国凧あげ大会」も一緒に開かれる。

私にとって、江戸川は映画「寅さん」の川である。春日部はこの川の上流沿いにあるのかと堤防に立って思った。


世界一ジャンボ鯉のぼり 加須市

2011年05月26日 15時27分33秒 | 祭・催し



加須市は、鯉のぼりとうどんの町である。鯉のぼりは、日本一の生産量を誇る。プリントが主流の中で、手描きの技も唯一、橋本弥喜智(やきち)商店で受け継がれていたが、16年9月までで店仕舞いした。

加須と鯉のぼり作りは、明治初期、「西行」と呼ばれた全国を渡り歩く職人から技術を学んだのが始まり。

大正の中頃、主として墨で描いていた地味な江戸鯉のぼりから金粉、銀粉を使って12の色彩を重ねた極彩色の加須産の「武州鯉のぼり」が登場して人気を呼んだ。関東大震災で東京の業者がつぶれると、加須に注文が集中、日本一の産地となった。

この市では毎年5月3日、利根川河川敷緑地公園でジャンボこいのぼりが上げられる。

一般的なこいのぼりは長さ10m。1988(昭和63)年に初めて加須青年会議所の協力でできた巨大な鯉のぼり「ジャンボ1世」は、綿製でなんと100m、重さ約600kgの世界一ののぼりだった。

余りに重すぎるので、生地をポリエステルに替えて改良を加え、現在の4代目「ジャンボ4世」は、約330kgと軽量化した。全長100m。目玉と口の大きさは直径10mあるので、柱の代わりにアームの長さが110mもある巨大な建設用クレーンで釣り上げる。

利根川河川敷公園で「市民平和祭」の一環として午前と午後の二回上げられる。11年に初めて見物に出かけた。東武伊勢崎線加須駅から無料バスも出るというから有難い。

ものが大きいので取材するのも大変。ヘリコプターが何機か上空を飛び交っている。上空には風があるのか、クレーンで釣り上げると、重そうな尾ヒレを平らに持ち上げ、5月の空を泳いだ。

新市誕生一周年記念と東日本大震災復興支援で、第二回加須市民平和祭の一環である。

市内の旧県立騎西高校に集団避難している福島県双葉町の住民らが招待されたほか、被災地でも上げてもらおうと、宮城など4県5か所に応援のメッセージを書き込んで鯉のぼりが贈られた。

このジャンボこいのぼりの二世は海外にも遊泳に出かけ、1998年にはハワイ・ホノルル・フェスティバル、三世は06年にはサッカーのワールドカップ・ドイツ大会で日本対オーストラリア戦の会場になったカイザースラウテルン市でも雄姿を見せた。


日本一長い藤棚通り 春日部市の藤祭り

2011年04月25日 21時09分13秒 | 祭・催し


春日部市は藤のまちである。東武野田線で春日部から東へ一つ目の駅は、「藤の牛島」。国の特別天然記念物「牛島の藤」で知られる牛島藤花園がある。

樹齢1200余年、根元の総周囲は9m,幹は根元から数本に分岐して、藤棚の広がりは、東西34m,南北17m、700平方mに広がり、花房の最も長いものは2m。こんな凄いのが三か所にある。花時の眺めは世界一とも言われる。弘法大師お手植えの伝説もある。

春日部市の花は藤である。この古くて巨大な藤には及ぶべくもないが、春日部駅西口の広い大通り「ふじ通り」の両側には、藤棚が約1km超、1080m連なっている。藤の街路樹としては全国最長だ。コクリュウフジなど7種類が約200本植わっているという。

区画整理でできたので、駅前通りは幅25m。中央に9mの自動車道、その両側につつじの植えこみと藤棚を作ってあっても、まだ4mほどの歩道が残る。

驚いたのは、幅2mほどの藤棚の下が「自転車専用道路」になっていたことである。人と自転車の絵があって、藤棚の真下が自転車道、商店や家屋が並ぶ側が歩道に指定されているのである。自転車派なので、道のど真ん中に自転車道があるのには感心した。

毎年4月の最終日曜日に「春日部藤まつり」が開かれる。10年は4月25日、13万5千人(市の人口は24万人)の人出があったとか。

この棚が作られたのは、1979年から1980年にかけて。すでに30年余経っているわけである。台木は10年以上のものを使っているので、樹齢は35~48年と推定されるという(12年現在)。

11年は第30回藤まつりだった。まつりの当日出かけたが、満開にはほど遠かった。

12年は、埼玉新聞に満開とあったので、藤まつりの翌日、4月30日(月)に出かけた。

棚の下を、いい気分でぶらぶら歩いていると、後ろから来た自転車に「ここは自転車専用ですから、気をつけてくださいよ」と注意された。

藤棚下の自転車専用通りは、感心していたのだが、花が咲いている間くらいは、花見客専用の歩行路にして、自転車はその外側を通るようにしたらどうだろう。


熊谷うちわ祭

2010年07月22日 22時07分46秒 | 祭・催し


うちわ祭りと聞いて、「日本一暑いとこもあったのだから、涼むためにうちわを使う祭りなのだろう」ぐらいに思っていた。テレビでおなじみの京都の祇園祭さえ、まだ見ていないのに、「関東一の祇園」「3日間で75万を超す人出」とPRしているから「関東一とはどの程度のものか」確かめてみようと、2010年7月21日に見物に出かけた。

この日は中日(なかび)で巡行祭に当たっていた。各区からの山車5台、屋台7台が、国道(17号線)を歩行者天国にして、猛暑にもめげず、堂々と練り歩き、「叩き合い」のために市の中央部のお祭り広場に集結する姿は壮観。予想をはるかに上回る見ごたえがあった。

まず、うなったのは、「国道を車両通行禁止にする」というアイデアだった。17号線と言えば、東京から埼玉県の県北にある熊谷を経て群馬県に抜ける大動脈。ドライバーなら誰でも知っている「熊谷バイパス」があるとはいえ、大胆な発想だ。

駅で手に入れたパンフレットの「うちわ祭の由来」によると、江戸時代、参勤交代の大、小名も通行止めに遭い、仕方なく熊谷堤を往来しなければならず、「八坂神社のお祭りは一歩遠ざかって通った」とある。その精神が今も生きているのだろうか

八坂神社のお祭りとは、いうまでもなく祇園祭のこと。熊谷では江戸文禄年間、京都の八坂神社を勧請(かんじょう=神仏のおいでを願う)した。

天保時代(1830 ~4 3年年)には、祭りの期間中、商店は買い物客に赤飯をふるまっていたが、これに替えて、江戸から買い入れた渋うちわを出したところ、大評判になり、「うちわ祭」の名がついた。当時、うちわは現在のような大量生産出来る使い捨て品ではなかったからである。

2015年には、山車・屋台の先頭で振られていた大うちわ(約1・8m)が約40年ぶりに復活した。

行列はさすがに伝統を感じさせる。それぞれの山車・屋台を裃(かみしも)姿の各町の総代など幹部が先導、祭り衣装の若い女性たちもさっそうと続き(熊谷にはなぜ美人が多いのか)、昼間の囃子の太鼓は主に子供たちが上部でたたく。老人も女性も子供も区ぐるみ一丸になっているのが素晴らしい。

山車・屋台に「銀座区」「荒川区」「鎌倉区」「筑波区」と、どこかで聞きなれた地名が出てくるのもうれしい。

これが、星川通りの行宮(本宮からお出ましを願う仮宮)前のお祭り広場に勢ぞろいして、神様に喜んでもらうため「叩き合い」を演ずるのだから暑さも吹っ飛んでくる。

各区の山車・屋台の後ろに氷水などを積んだ「給水山車」がついて行く区があるのが、いかにも暑い熊谷らしい。昔ながらの熱中症対策なのだろう。この日、17号線沿いのデパート「八木橋」正面口の「あついぞ!熊谷」の温度計は、最高37.9度(熊谷地方気象台)にとどまったが、ビールがしきりに恋しくなる暑さ。

残念だったのは、ぜひ一度参拝したいと思っていた、熊谷直実ゆかりの「熊谷寺(ゆうこくじ)」が、堅く門を閉ざし、観光客を拒絶していたことだった。暑い中をせっかく熊谷まで来たのだから、お参りしたい人も多かろうに。

うちわ祭熊谷の夏吹き飛ばす 柳三