「秩父」という地名が頭に刻み込まれたのは、大学一年の頃、ちょっとの間、合唱団に入って、流行のロシア民謡や日本民謡を歌っていた時だった。男にしては高過ぎる声が出るので、すぐ辞めた。
「新相馬盆歌」とともに記憶に残っているのが「秩父音頭」である。
この音頭の
秋蚕(あきご)仕舞うて麦蒔き終えて秩父夜祭待つばかり
という歌詞は、先生の父親の金子元春氏が創った、ということを知ったのは、秩父地方の資料をあさり始めた最近のことだった。
先生の本によると、元春氏は、秩父の皆野町の農家の長男として生まれた。東京の独協協会中学校(現在の独協高校)に進み、後に「馬酔木(あしび)」を主宰する水原秋桜子と同級生だった。
医者になりたくなかったのに、「医者が一人は欲しい」という家族の懇願で京都府立医専(現・府立医大)を出て医者になった。卒業後すぐ上海に行き、東亜同文書院の校医をした後、皆野町で開業した。
1930(昭和5)年、明治神宮遷座祭があり、その祝いに各県の民謡を奉納して欲しいという要請があった。
当時の知事が、東京の埼玉県の学生寮で、元春氏と一緒と一緒にいたことがあったので、民謡が豊富な秩父の唄をと、元春氏に依頼があった。
秩父には皆に親しまれていた盆踊り歌があった。ところが、歌詞も踊りも卑猥そのもので、とても奉納できるようなものではなかった。
そこで元春氏が中心になって、歌詞は一般から公募して、「鳥も渡るかあの山越えて 雲のさわ立つ奥秩父」で始まる新民謡「秩父豊年踊り」ができ、踊りも手直しした。1950年に「秩父音頭」と改名された。
「秩父音頭」は、群馬の八木節、栃木の和楽節とともに関東三大民謡の一つに数えられる。
皆野町では毎年8月14日、「秩父音頭まつり」を開き、流し踊りが披露される。
その練習が毎晩、庭であったので、七七七五の五七調の音律が兜太少年の身体にしみ込んだ。
当時、秋桜子が「ホトトギス」を離れ、「馬酔木」を出し、自分の俳句観を推し進めようとしていた。
「ホトトギスの句には主観(自分の胸のうち)が足りない。ホトトギスの俳句は『自然の真』に過ぎず、『文芸上の真』の俳句を創りたい」というものだった。
元春氏は、元同級生の動きに刺激され、「馬酔木秩父支部」という句会を結成した。
「句会というと老人のもの」というイメージが強い。この句会は30、40歳代の男性が中心で、働いた後、自転車でやってきて、相互批評が活発だった。
「酒のない句会は句会ではない」と、兜太少年の母親が用意する酒を飲んでは喧嘩が始まる。
母親は兜太少年に「俳句は喧嘩だから、俳句なんかやるんじゃないよ。俳人と書いてどう読める。人非人だよ。人間じゃない」と、堅く禁じていたというから面白い。
兜太氏が旧制の水戸高校に入ってから俳句を始めたのも、このような秩父の句会の下地があったからだった。
「俳句は、社会と人間、とくに人間を書くものだ。花鳥諷詠などということはどうでもいい。人間諷詠だ」という戦後の氏の主張は、このような秩父の風土に根ざしている。
一茶への共感も、氏の骨太な句も秩父という産土がもたらしたのだということが分かる。
金子先生の言う「生きもの感覚」という言葉は、一見分かり易そうで分かり難い。
花げしの ふはつくやうな 前歯哉
一茶の句の中から「生きもの感覚」の具体的な例の一つとして先生が挙げた例だ。一茶の前歯がぐらついた49歳の時の句である。
前歯が「ふはつく」とは、「ふわつく」、つまり「ぐらぐらする」という意味で、その感触が「けしの花びらのようだ」というのである。
「この洗練された感覚が美しい」と先生は指摘する。
揺らいでいる歯も、歯の後ろからちょっと押してみる舌も、芥子の花のふわふわとした感触も「生きもの」で、すべて差別なく、同じ生きものの世界として感じられている。
すべてが「生きもの」として感じられてしまう。それが「生きもの感覚」の元にあるというのである。
一茶は50過ぎには歯がなくなり、65歳で死ぬまで歯がないままだったという。
先生も若い頃、あまり歯を磨かなかったので、名医にどんどん抜かれて入れ歯になり、今はインプラントにしていると本には書いてある。
私事で申し訳ないけれど、私も歯を磨かなかったのと、戦争時のカルシウム不足の報いで、今はブリッジがほとんど。「80歳で20本の永久歯」など夢のまた夢。歯の話はよく分かる。
十ばかり屁を捨てに出る夜長かな
「人間とはいいものだなあ」と先生はいう。ふるさと秩父の父親の句会の温かい雰囲気が伝わってくる。それはいつも見慣れた光景だった。
これが、一茶の「生きもの感覚」である。
俳句は季語のためではなく、人間のためにあるのだから。
思えば、植物繊維に頼っていた日本人は、サツマイモを食べてはよく、「屁をこいた」ものだ。最近、「屁をひる」人も少ないので、
屁をひっておかしくもなし独り者
という川柳も分かる人が少なくなったのではないかと思う。
先生の母親は104歳で天寿をまっとうされた。その母を偲んで
うんこのようにわれを生みぬ長寿の母
というのは先生の近作である。
まさしく、「生きもの感覚」の典型としか言いようがない。そこに季語など入る余地はない。
先生の話を聞いているうちに、「兜太は一茶の生き代わりではないか」と思うようになってきた。
そういえば、二人の体格も似ているなあ。
俳句にはあまり関心はないものの、この先生のことだけはいつも気にかかる。古い言葉ながら「私淑」しているからである。
埼玉出身の文人は、後に県外に居を定めた人が多い。
しかし先生は、今は亡き奥さんの勧めで、「土に近い」産土(うぶすな)の地、出身の秩父に近い熊谷に50歳から住んでおられる。
生粋の「埼玉文人」である。
私が見る度に感激するのは、日本俳句協会の会長と頂点を極められた人が、今でも羽生と三峰口を結ぶ「秩父鉄道」の壁に掲載されている、ささやかな俳句欄の選者さえ務められていることである。真の愛郷者なのである。
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
若い頃前衛俳句のリーダーとして、一読して分かり難い句を多く創ってこられたのが先生。この分かりやすく平明な句が原点で、年を経てまたこの句の境地に帰ってこられたのではないかと思う。
退職してこのブログを書き始めて以来、先生の書かれたものや、先生に関するマスコミ報道をせっせと集めてきた。
地元だけあって埼玉新聞にはよく特集が掲載されていて、参考にさせて頂いた。
朝日俳壇の選者を長くやられていることは、ご承知の方も多かろう。これも退職後、真面目に読み始めた。
俳句より川柳に関心があるのだが、先生の選句を初めどれも面白く、掲載される月曜日の朝が楽しみだ。短歌欄にも目を通す。
「日本人には詩人が多いのだなあ」と感心する時である。
こんな折り、朝日カルチャーセンターが12年7月17日午後に新都心のホテルで、先生の「荒凡夫(あらぼんぷ) 一茶」という講演を企画していることを知った。
新聞、本、テレビではいつもお目にかかっているのに、先生の肉顔や肉声には接したことがない。
もちろん、白水社から出たばかりの同名の本を読んで駆けつけた。
驚いたのは、あんな難しい句を好むのは男性が中心だろうと思っていたのに、会場に多かったのは、女性、それも高齢の女性だった。
女性俳人が増えたというのは読んだり、聞いたりしていた。
先生は、12年9月に93歳を迎える。最近、初期ガンの手術を受けたとは思えぬほど元気一杯。
この講演でも、「季語がなければ俳句ではない」というのは「ホトトギス派の暴言」と強調された。いつもの持論である。別の講演では「季語などはノミのへそみたいなもの」と切り捨てゝおられた。私は、旧仮名遣いなども論外だと思っている。
それでは、「荒凡夫」とは何か。
一茶が還暦を迎えたときに作った
まん六の春となりけり門の雪
の添え書きに出てくる言葉という。
先生は「自由で平凡な男」と読み解いておられる。
一茶に
十ばかり屁を捨てに出る夜長かな
という句がある。
先生の言われる「生き物感覚」の代表句の一つ。知らなかった私はうなった。
なにしろ東京の隣だから、埼玉県に一時的にせよ、住んだことのある作家や画家など“ちょっとだけ埼玉”文化人はけっこう多い。だが、この県に生まれ、育った生粋の県出身の文化人は少ないのが実情だ。
「生粋」をどう解釈するか。江戸っ子の場合はよく三代目以上という。三代目以上となると、最近では出入りの多いこの県では見つけるのがなかなか難しい。生まれ、育ちだけでよければ、演出家の蜷川幸雄は生粋の県出身文化人の一人だ。
両親は富山の貧しい農家の生まれ。父は小卒で東京・隅田川界隈の洋服屋で修業、川口で洋服の仕立屋を営んでいた。
川口には、国内最大規模のオートレース場が今でもある。父親は、競馬の馬主に当たるオートレーサーのオーナーだった。羽振りの良さがうかがえよう。
1935年10月15日、今はマンションが林立しているけれど、かつて「キューポラの町」として知られた鋳物の街川口市のJR川口駅近く本町3丁目に生まれた。2015年には80歳である。姉一人、兄三人の五人兄弟の末っ子だった。
10年10月、演劇の演出家として初めて文化勲章をもらった際、「川口の街と人が自分の原点で、埼玉に支えられてここまでやってこられた」と述懐している。
「子供の頃は、当時はきれいだった荒川や芝川で泳いだ。40歳までいたので、言葉が汚いとか、荒っぽいとか、目線の低さとか、感性の基礎はだいたい川口風」(産経新聞埼玉版との11年新春インタビュー)。
今は東京都久留米市に住みながら、職人の街川口に対する愛着を表明している。結婚後、川口市の家賃2万円ほどの公団アパートに住み、女優の奥さんの稼ぎに頼って、二人の娘を育てる“主夫”も経験している。
文化勲章授賞の電話も、台所で皿洗いをしている時だったという。
10年には川口市の「市民栄誉賞」、09年には埼玉県の「県民栄誉賞」を贈られた。
幼い頃から本を読むのが大好きだった。鋳物の街だから、男の子はベーゴマが好き。ところが、これが大の苦手。メンコも川泳ぎも釣りも大嫌いだった。
その代わり、演劇好きの母親が幼い頃から、歌舞伎や文楽、新劇、宝塚の芝居、オペラ、バレエ、映画に連れて行ってくれたので、演劇への下地が培われた。
抜きん出て成績が良かったので、同じJR京浜東北線沿いにある東京都荒川区の私立の名門開成高校へ進んだ。
開成に入って、一人で新劇や映画を見歩き、シェークスピアなどを読んでいるうち落第もした。油絵を描くようになって、東京芸大を受験したものの、失敗した。
新劇はたくさん見ていたので、1955年、劇団青俳のオーディションを受けたら合格、一番年下の19歳で研究生になった。サラリーマンには向かないと考えていたからだ。ところが、演劇の猛勉強をしても上達しないので、「大した俳優にならないまま」演技に見切りをつけて退団した。
68年に仲間と「現代人劇場」を結成して、69年33歳後半、清水邦夫作の「真情あふるる軽薄さ」で演出家としてデビューした。演出は独学だった。
仲間から非難されたが、小劇場の世界から、74年に「ロミオとジュリエット」で帝劇や日生劇場などで仕事する商業演劇に打って出た。
しかし、観客の評価は最高なのに、批評家からは最低の評価。「それなら外国で公演してみよう」と、83年のギリシャ悲劇「王女メディア」のローマ、アテネ公演を皮切りに、海外へも進出した。
ロンドン、ローマ、ニューヨーク、アムステルダム、カイロ、香港、さらに11年の韓国公演などで「世界のニナガワ」へと成長した。
最初のうちは外国人に受け入れられるだろうかと心配で、胃潰瘍になったり欝(うつ)みたいになったりもした。
「NINAGAWAマクベス」も絶賛された。92年にはシェークスピアを演ずるロンドン・グローブ座芸術監督の一員になり、02年には英国から「名誉大英勲章第3位」を授与された。
ギリシャ悲劇やシェークスピアを歌舞伎や能などの日本の伝統芸の技術を使って演出した。
04年度文化功労者、10年度文化勲章。
06年には彩の国芸術劇場の芸術監督に就任、高齢者劇団「さいたまゴールド・シアター」、若手の「さいたまネクスト・シアター」を立ち上げた。98年から芸術劇場でシェークスピア全37作品の上演を目指していた。16年12月には、「1万人のゴールド・シアター2016」の総合演出を目指し、65歳以上の出演者を大募集中だった。
09年に県民栄誉賞、10年には川口市民栄誉賞。
心臓手術をしたこともあるのに、「物議をかもす演出家でいたい」と元気。ここ数年、年間7~10本を演出 2作同時に稽古が進行することもあった。
演技指導は「千本ノック」と呼ばれるほど厳しいので有名。「口より先に物が飛んでくる」と言われたほど、俳優に灰皿やイスを投げ、机をひっくり返し、怒鳴りつけたりした。劇作家への敬意から原則として戯曲には手を加えなかった。劇作家の苦労を知っていたからだ。
近年は闘病しながら演出を続け、15年12月に体調を崩し、入院していた。16年5月12日午後1時25分、肺炎による多臓器不全で、東京都内の病院で死去した。告別式は16日正午、東京都港区南青山青山葬儀所で。喪主は妻で女優の真山智子(本名・蜷川宏子)さん。写真家・映画監督の実花さんは長女。
小学校の頃から映画きちなので、まともに演劇を見たことがない。さいたま市中央区(元与野市)に、演劇を主とする「彩の国さいたま芸術劇場」ができた時も、建物を眺め、受付の辺りをちょっとのぞいて見ただけだった。
この劇場は、埼京線与野本町駅西口から徒歩7分の距離にある。オープンが1994年。14年で開館20周年になる。地上4階、地下2階。演劇などの大、小ホール、音楽ホール、さらに映像の専用ホールを持ち、稽古場、練習場、舞台芸術に関する資料室もある。外観も城砦のように堂々としている。国内最高レベルの舞台劇場という触れ込みだ。
舞台設備機器の更新やバリアフリー対策、外壁補修工事をして11年10月リニューアルオープンした。
川口氏出身の日本を代表する演出家の一人、故蜷川幸雄が06年来、この劇場の「芸術監督」を務めていた。
リニューアルオープン後の初公演が宝塚のトップスター安蘭けいを起用した「アントニーとクレオパトラ」だった。蜷川はこの劇場で、シェークスピアの全戯曲37をすべて上演しようとしていて、没後32番目の「尺には尺を」が常連された。
蜷川がこの劇場でやっていたのはシェークスピア・シリーズだけではない。
55歳以上をメンバーとする日本では唯一、世界でも珍しい高齢者だけの劇団「さいたまゴールド・シアター」を06年に立ち上げた。
11年12月には6日から20日まで第5回公演の「ルート99」を披露した。
10年に文化勲章を受けた蜷川の演出に加え、「日本のチェーホフ」とも呼ばれ、いま人気の岩松了の書き下ろしというから、興味をそそられた。
そのうえ、「ゴールド・シアター」の団員42人の平均年齢が72歳という親近感もあって、18日の日曜日午後の公演を見に出かけた。
団員は、06年公募の際、応募した1200人以上の中から厳選された。女性26、男性16と女性の方が多く、東芝府中工場に44年勤続、東電集金課所属、市役所職員、NHKアナウンサー、教員、会社役員、主婦と、経歴はさまざま。
稽古をこの劇場でするので、地元の埼玉県在住者が18人、ついで東京が多く神奈川、千葉、栃木、茨城と関東各県から来ている。
16年で結成以来10年になったので、平均年齢77歳から最高齢90歳という高齢国日本を先取りするような年齢構成になっている。
岩松氏は、このシアターの07年の第一回公演「船上のピクニック」の脚本も手がけた。
「ルート99」は、沖縄の基地を舞台にしたやや難解なドラマである。
驚いたのは、補助席が出るほどの人気で、入場券も当日、一時間近く行列してやっと手に入った。
観客は老人が多いのだろうと思っていたら、大間違い。補助席の周辺は若い人ばかりだった。
正面の天井下にしつらえられた特設舞台から始まり、すり鉢状、半円形の観客席の底にある舞台の周囲、観客席の階段、さらには補助席の列の前と、役者たちはセリフを大音声で発しながら動き回り、小ホール全体が舞台といった感じ。その体力と音声に圧倒された。
ポーランドの演出家カントールの主宰していた老人劇団に刺激を受け、シルバー(銀)より上のゴールド(金)と名づけた。生活者として経験を積んだ人たちの力を借りて、これまでとは違う新しい演劇をやろうと思った。稽古場は「老い」との闘いで、血圧計も用意してある・・・
と廊下の壁に掲示されている回顧写真展の「蜷川語録」の中にあった。
蜷川はこの劇場で、次代の日本演劇界を支える人材育成のため、09年からこの劇場で若手演劇集団「さいたまネクスト・シアター」も立ち上げていた。
こんな劇場が自転車で行ける距離にあるのも埼玉県のありがたさである。駅から劇場までの通りは、「アートストリート」と名付けられ、主演級の役を務めた俳優の手形のレリーフが20台以上並んでいて、さいたま市中央区では、70代ほどまで増やす予定だという。