定年後10年間、PR業界に身を置いていたので、業界用語は素人よりは分かる。
「差別化」という用語がある。「差別」という語が嫌いなので、決して好きな言葉ではないが、さいたま市大宮のJACK大宮の11階を本拠とするこのFM局は、さしずめ“差別化の塊”と言っていいだろう。
「差別化」とは、「ライバル社と差別、つまり違っている」ということ。他の社と比べて「特徴がある」という意味である。
何がライバル社と違い、特徴があるのか。この局のホームページなどをのぞいて見るとよく分かる。
1988年に放送開始した当時は、「エフエム埼玉」と称していた。FM局としては全国で29番目。FMは県内には、NHK・FMしかなかった頃である。
西武鉄道が設立に深く関わり、今でも筆頭株主。埼玉県や読売東京本社、朝日、日経、中日、ニッポン放送、埼玉りそな銀行も株主だ。
2001年に「エフエムナックファイブ」と改称した。周波数が「79.5MHz」で開局当初からこの愛称で親しまれていたからである。「79.5」は確かに「ナックファイブ」と読める。
普通のFM局は音楽中心だ。この局では「しゃべり(トーク)」を重視していて、アナウンサーもおしゃべり上手である。
トーク番組は通常AM局に多いのに、この局では番組全体の7、8割を占め、FM局では異色である。
流す音楽の選択も他の局は、外国の曲「洋楽」が多いのに、この局では日本のJ-POPなど「邦楽」の割合が高い。演歌・歌謡曲をテーマにした番組もある。
プロ野球の西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)が関係していることもあって、1989年日本のFM局で初めてライオンズのスポーツ中継をした。
年間を通じて定期的にスポーツ中継をするFM局はほとんどないという。スポーツ情報番組も何本かある。
野球だけではなく、埼玉県にフランチャイズを置くサッカーのJリーグ「浦和レッズ」や「大宮アルディージャ」の実況中継もする。
さいたま市大宮公園サッカー場の命名権を取得していて、「NACK5スタジアム」と呼ばれる。
「大宮アルディージャ」のホームスタジアムであるこのサッカー場は、日本初のサッカー専用球技場で、現存するものとしては国内最古というから驚く。
県内で発行部数が一番多い読売東京本社が、西武鉄道に次いで持ち株が多いので、この局は愛県精神が極めて高い。
系列局ではなく、独立系局なのに、報道局「ニュースルーム」を持ち、ミニニュース番組や時事解説番組があるのも珍しい。
アナウンサーも局専属ではなく、他局番組にも出演するため、番組出演契約に近い形になっている。
インターネット・ラジオ「radiko」の配信地域は関東1都6県。14年4月から「radiko jp プレミアム」で日本全国へ配信されている。
このような特徴と配信地域の拡大で、18年10月31日で開局30周年を迎えたこの局はJ-WAVEとともに関東のFM局聴取率で1、2位を争うほどに成長した。特に東京駅を中心とする半径35km圏内では、男女20~34歳の聴取率はAM、FM曲中で1位だという。
「京浜工業地帯」という言葉に象徴されるように、工業地帯は海に面した「臨海」のイメージが強い。
埼玉は「海なし県」なのに、1955(昭和30)年代中頃から、「東京への食糧供給基地」としての農業県から工業県へと転換を始め、「内陸型工業県」、「埼京工業地帯」という言葉が創られたほどだった。
85(同60)年には製造品出荷額が全国第6位、91(平成3)年第5位、と主要工業県に変貌した。
2012年は製造品出荷額が12兆円余で第6位、事業所数は1万3千余で第4位、従業員数は37万余で第4位だった。
「埼京」の言葉どおり、東京へ近く平坦で交通の便がいいのが強み。工業構造は加工組立型を中心とする重化学工業、電子機器関連のハイテク産業へと変わってきている。
県は52(同27)年、工場誘致条例を制定した。戸田町など38の市町村もこれに習った。しかし、誘致工場への奨励金がかえって財政を圧迫してきたので、55(同30)年には廃止に追い込まれた。
これに変わって、日本住宅公団が住宅団地と並んで、工業団地の造成に乗り出し、県や市町村もこれに習った。
埼玉県内の工業団地の開発は、日本住宅公団が造成した1960(昭和35)年のさいたま市北区吉野町にある大宮吉野原工業団地と深谷工業団地の造成から始まった。県ももちろん協力した。
吉野原工業団地は、国道16号と17号が交差する地点にあり、ニューシャトルの吉野原駅にも近い。大正製薬やプラスチック加工メーカー信越ポリマー、日本製罐などがあるので、ご存知の方が多いだろう。
深谷工業団地には、東芝の深谷工場などがある。
62(昭和37)年には日本住宅公団が主体の川越狭山工業団地の造成が始まった。
この工業団地は首都圏整備法に基づいて、日本住宅公団が川越、狭山市の協力で土地を買収、県が委託を受けて、都市計画事業として区画整理によって開発した。
国道16号線に沿い、関越自動車道の川越ICも真近。7万人が入居できる住宅団地も併設、西武新宿線を挟んで東西4キロ㍍、南北1キロ㍍のほぼ長方形。工業団地として当時、日本最大の規模だった。
約70社が立地、川越市側に大林組、雪印乳業、図書印刷、光村印刷、狭山市側に本田技研、ロッテ、全酪などがある。
工業化に伴う工場進出は公害という副産物を伴った。地盤沈下、大気汚染、水質汚濁である。
1958(昭和33)年9月26日未明、台風22号の豪雨が、荒川の増水、芝川水門の破壊を招き、川口市領家町を中心とする芝川沿岸地帯を、水深2mの浸水となって襲った。
川口、鳩ヶ谷、戸田、蕨市の多くの地域が、床上、床下浸水の被害を受け、その水は5日間引かなかった。
カスリーン台風以来の大災害であった。その原因調査で、地下水の大量汲み上げによる地盤沈下によるものと分かった。本県は東京、千葉、神奈川と並ぶ地盤沈下被害県になったのである。
1970(昭和45)年7月18日午後には、「光化学スモッグ」が東京都と本県南部を中心に初めて発生、川口、蕨、戸田、新座の各市の小、中学校で、目、のどの痛み、吐き気などの症状が出た。
埼玉県は光化学スモッグ注意報の発令回数が全国一多い県で、2010年までの15年間は1位の年が9回、それ以外の年も必ず3位以内という注意報多発県だった。
水質汚染では、綾瀬川、不老川が「全国一汚い川」のレッテルを貼られたこともあった。綾瀬川は1980年から連続して15年間最下位だった。
工業県は公害県でもあった。
敗戦後2年の1947(昭和22)年は、カスリー台風の襲来とともに、国鉄八高線で超満員の買い出し列車が脱線転覆、鉄道事故で戦後最高、戦前を含めても二番目に多い死者を出した多難な年であった。
この事故については知らなかったので、日本で最悪の鉄道事故は、国鉄(JR)の鶴見(死者161)か三河島(同160)、福知山(同107)、桜木町(同106)のいいずれかだろうと思っていた。
戦前を含め最大の死者を出したのは、大阪府の西成線(現桜島線)脱線転覆事故で、1940(昭和15)年、満員の気動車の燃料のガソリンへ引火、189人が焼死、69人が重軽傷を負った。
八高線の大事故は、2月25日朝7時50分、八高線下り高崎行き6両編成木造列車で、東飯能―高麗川駅間の20%下り勾配の半径250mの急カーブで起きた。
食糧不足で農家から芋一本でも、米一合でも求めようとする買出し客が、東京から農村地帯を走る、絶好の買出し路線であるこの線に殺到、乗客は定員の4倍2千人以上も乗っていたという。買出し列車にこれだけ乗るのは珍しいことではなかった。
最高時速55kmの制限を65km(判決文)出しており、2両目と3両目の連結器がはずれて、3、4、5両目が4、5m下の土手下に脱線転覆、6両目は線路脇に横倒しになり大破した。
木製車両のため原型をとどめないほど破片が飛び散り、血まみれの遺体が押しつぶされ、泣き叫ぶ女性や幼児の声でまさに地獄絵のような惨状だった。
死者はこれから買出しに出かけようとしたものが8割を占め、駆けつけた遺族は、ほとんど東京の人だった。
どの遺体も損傷がひどく、身元のわかったものは近くの寺に安置したが、境内や近くの農家の庭先にムシロをしいて並べられた。
それを狙って飢えた野犬が集まってくるので、その撃退や、遺体から時計、指輪、衣類などをはぎとろうとする不心得な人間たちの警戒にも当たらなければならなかった。
死者の数こそ184人で、西成線の事故より5人少ないものの、負傷者は499人ではるかに多く、合わせると、戦前、戦後を通じて最大の国鉄事故だと言える。
八高線では2年前の1945(昭和20)年8月24日にも、小宮と拝島間の鉄橋で上下列車が正面衝突、死者105、負傷者67人を出しており、“魔の八高線”と呼ばれた。
機関士は、列車転覆・業務上過失致死傷容疑で逮捕、起訴された。求刑は禁固3年。浦和地裁は事件4年後、「速度違反が事故の直接原因ではなく、2、3両目の連結器と車両自体の損傷が原因になった」と無罪の判決を下した。
事故の背景には、敗戦後の混乱した社会情勢があり、起きるべきして起きた惨事だった。
機関士の見習い期間は10年以上あったのに、2、3年の速成教育で済ませていた。機関士は22歳と若く未熟で、八高線はこの日が初めて。機関士は後部の脱線に気づかず、前部2両を引いて定刻に高麗川駅に到着したほどだった。
東飯能駅に来るまでにも、スピードを出していて、2、3の駅で行き過ぎて停車、バックしていたという。
付近のレールは老朽化してやせ細っており、新品レールの補給も、保線区員も極端に不足していた。(埼玉県行政史・第3巻参照)
国鉄では事故後、この事件の行政処分を行い、高崎管理部長や高崎第二機関区の二人のほか、当時の下山貞則・東鉄局長を指導監督不行き届きで譴責処分にした。
下山貞則氏を言えば、後に国鉄総裁になり、1949(昭和24)年7月、死体になって発見され、自殺か・他殺か分からないまま、警視庁が捜査を打ち切った、今でも謎とされる「下山事件」の主人公である。
「地震県」?
海がなく、観光地が少なくても、埼玉県は台風の直撃は少ないし、大地震が起きる確率も東京都より低い安全な県と思い込んでいた。
ところが、政府の地震調査委員会が14年12月19日に公表した14年版「全国地震動予測地図」をよくよく見ると、さいたま市の方が東京都よりその確率が多いことが分かって驚いてしまった。
この予測地図は、「30年以内に震度6弱以上のゆれが起きる確率」を示したもので、東京都が46%なのに対し、さいたま市は51%だった。
都道府県庁所在地の確率の平均値が最も高かったので、その数字が比較されている。この数字は、都庁とさいたま市役所周辺地の確率の比較である。
関東では横浜市が78%、千葉市が73%、水戸市が70%とさいたま市よりはるかに高く、全国では静岡市(66%)、津市(62%)、和歌山市(60%)、徳島市(69%)、高松市(59%)、高知市(70%)、大分市(54%)に次ぐ確率で、全国で11番目、トップ10にあと一つだ。
さいたま市だけではない。県内では、春日部市(77%)、幸手市(72%)、川口市(69%)、越谷市(64%)がさいたま市より高く。全国的にも高率だ(読売新聞調べ)。春日部市の場合、全国最高の横浜市より1ポイント低いだけで、幸手市も全国2位の千葉市よりこれまた1ポイント低いだけだ。
予測とはいえ、全国的に見て埼玉県は「地震県」と呼ばれてもおかしくないほど高い確率である。
この委員会は、05年から予測地図を作成している。東日本大地震がマグニチュード(M)9.0と規模が想定外だったので、相模湾から房総半島に延びる相模トラフ沿いで起きる地震の評価を見直した。
また、首都直下地震で想定される震源の深さを13年版より約10km浅くしたことなどで、関東各地で震度6弱以上の揺れが起こる確率が高まったという。
この結果、さいたま市の確率は、前年より21ポイント増と上昇幅が全国最高を記録したのである。
震度6弱とは、気象庁が定める10段階の揺れの中で3番目に強い。耐震性が低い建物は倒れる危険がある。
震度6強以上の揺れが起きる確率も県内では軒並み上昇した。春日部市(23%)が最高で、幸手市(19%)、川口市(17%)が続いている。
荒川や中川など大きな河川のある自治体の確率が高い。「河川周辺は地盤が比較的軟弱で揺れが増幅しやすい」ためだという。
震度6強の被害想定について、政府の中央防災会議は13年末、首都直下地震が発生した場合、県内では最大約2400~3800人の死者が出て、全壊・消失面積は約9万7千棟に上ると発表している。
県は死傷者・避難者の半減や発生60日以内に電気・ガス・水道の95%以上の復旧という「減災目標」を14年3月に設定した。
問題は、減災に向けた行動計画が大地震の発生に間に合うかどうかである。
関東大震災
南海トラフが先か、関東大震災の再来が先か、地震予知が科学的に難しい今、誰にも分からない。
東京の隣の埼玉県にとって、関東大震災の再来はひとごとではない。
1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾北西沖80kmを震源とするマグニチュード7.9と推定される大激震が関東地方を襲った。その時、埼玉県下で何が起きたのか。
県下(熊谷)でも震度6を記録し、被害は、神奈川・東京・千葉・静岡に次ぐ5番目だった。いくつかの歴史の本から再現してみよう。
被害は、東部の古利根川、元荒川の沖積層の地盤が軟弱な地域に集中した。特に川口、粕壁(春日部)、幸手町が三大被災地とされた。
最も被害が大きかったのは川口町で、鋳物工場316が全半壊、死者10を含む死傷者42人、住家862が全半壊した。鋳物工場の工員約3000人が一時失職した。
粕壁町では満足な家屋がほとんど残っていない状態だった。幸手町では死者10を含む50人が死傷、住家330余戸が全半壊した。
国鉄大宮工場では、作業場の倒壊で煙突が崩れ、死者24人を出した。
全県では、死者217、負傷者517人、住居の全壊4713、半壊3349戸が出た。(大正震災誌)
赤羽・川口間の荒川鉄橋の橋脚が傾き、3日まで不通になり、被災者救援や復興資材の運搬に支障を来たした。
1日から3日までの間に震度1-5の余震が109回、9月中に震度4以上が8回起きた。
東京から空腹と疲労、負傷を抱えた避難民が続々流入した。県は16日まで救護所を設けたが、救護した人は約30万人、各市町村でも約18-24万人に達した。県外でも、日暮里、滝野川に救護所を設け、医療活動に当たった。
この大震災で朝鮮人が襲ってくるというデマが飛び、各地に住民たちの自警団が結成された。警察では保護のため、県内や東京から非難してきた朝鮮人をトラックに乗せ、県外の安全な地域に移そうとした。
本庄では警察署構内で群集がこれを襲い、ほとんどの86人(巡査と新聞報道)を撲殺するという、県内で最大の犠牲者を出した事件が発生した。県北の熊谷や寄居、神保原でも殺害事件が起こり、被害者総数は確認されただけで193、未確認を入れると240人に上る(県史、通史編6)。
いずれも震災の被害が軽かった県北地域で起きているのが気にかかる。
この震災で虐殺されて朝鮮人は、、3千数百人に上った。
古代から江戸時代末までの埼玉県域の歴史を振り返ってみると、明治維新後に「埼玉県」が誕生するまで、有機的な「統一体」としての埼玉県は一度も存在したことがないということに気づく。
古代の武蔵国は、名称こそ全国60か国の一つに数えられた。武蔵国は21の郡から成っていた。今振り返ると、北武蔵の埼玉県域は15の郡から成るが、15の郡の間にとりたてた関係があったわけではない。
北武蔵は武蔵武士発生の基盤になった。武蔵武士の活躍で成立した初の武家政権「鎌倉幕府」の下でも、埼玉県域に所領を持つ御家人が協力し合ったという話も聞かない。
古代には、政治の中心地から距離的に「遠国」だったのに、江戸時代は江戸の「隣国」になった。
この距離の近さから、県域の7割以上が天領(幕府直轄領)と旗本知行地になり、それに加えて、川越、忍、岩槻の3藩があった。藩といっても忍藩が10万石、川越藩が8万石、岩槻藩が2万3千石の小藩だった。
3つの藩の藩主は、江戸防衛のため親藩、譜代大名で、川越、忍、岩槻の城は「老中の城」と呼ばれていたように、幕府の高級官僚だった。転封も頻繁で、一部の藩主を除いて、眼は藩政より幕政に向けられていた。
現在の東京県民同様、サラリーマン大名で、領民との結びつきは希薄。独自の藩風が生まれる雰囲気ではなかった。支配される側も、帰属意識や連帯感は薄かった。城下町より中山道の宿場町の方が賑わいを見せていた。
岡部藩(現深谷市)、久喜藩というのもあった。
知行1万石を超せば大名。それ以下で将軍に拝謁できる御目見え以上の旗本は、約5400人いた。「旗本8万騎」という言葉は、お目見えできない御家人や、旗本・御家人の家臣を加えた数だった。
江戸に近い埼玉県域には、多くの旗本が知行地を与えられた。当初は知行地に陣屋を構える者も多く、73か所もあったという。後に旗本は江戸に住むことが多くなり、陣屋は廃止になっていった。
1万石以下200石以上なのでピンからキリまでいたということだろうが、一般に規模が小さいものが多く、幕末には県域に知行地を持つ旗本は約600人いたと推定される。
例えば江戸中期、6代将軍家宣に仕えて、「正徳の治」と呼ばれる政治改革をした儒学者新井白石は、白岡市の野牛に知行地(500石)があり、観福寺に肖像画が残る。
イタリア人宣教師シドッチの尋問記「西洋紀聞」や自叙伝「折たく柴の記」など多くの著書を残した。
幕末、江戸城の無血開城に先立ち西郷隆盛と談判、勝海舟との会談のお膳立てをした無刀流の創始者山岡鉄舟は、生家の小野家(山岡は養子名)が小川町に知行地があったので、訪れる機会も多かった。
今も残る「忠七めし」は、鉄舟がつくらせ、「二葉館」の館主の名にちなんで命名したと伝えられている。
幕末における旗本領などの米の石高の百分比は、旗本領が35%、天領が32%、藩領が32%とほぼ三分されていて、旗本領の比率が高いことが分かる(「埼玉県の歴史」小野文雄著 山川出版社)。
このほか、比率は低いものの400余の寺社領もあった。県の南部の上野・寛永寺領や根津権現領など比較的大きなものから、おなじみの川越喜多院(500石)、鷲宮神社(400石)、大宮氷川神社(300石)などである。
藩の城下町は江戸の強い商圏の中に組み込まれ、地域連帯意識も独自のアイデンティティーも育つ土壌はなかったのである。
「渡来人」という言葉は、最近ではあまり耳にしない。今の言葉に直せば、政治的亡命者ということになろうか。
朝鮮半島は7世紀、「三国時代」のただ中にあり、百済、高句麗、新羅が鼎立、覇を競っていた。
中国を支配していた唐と結んだ新羅が台頭、まず日本と結んだ百済が滅び(663年)、ついで高句麗がそれに続いた(668年)。
国を失った百済や高句麗の王族や貴族は続々日本を頼って亡命してきた。
今の政治的亡命者と違うのは、朝鮮半島は当時、まだ白鳳時代だった日本より先進国で、文化的にも技術的にも進んでいた。亡命者は、日本が欲しがっていた文化と技術を背負って、日本に移住してきたのである。
日本はまだ、国らしい体裁も整っておらず、文化・技術の程度も低かった時代だったので、亡命者は迫害されるどころか歓迎された。
これに先立つ6世紀の飛鳥時代、百済から仏教が伝来(538年)したことからも分かるように、文化の伝来は文化人、技術者が担った。高句麗からも新羅からも文化人や技術者はやってきた。
武蔵国の北武蔵に、渡来人でつくる高麗郡(716年)、新羅郡(758年)ができたのは、その技術力、文化で、都からは辺境に当たるこの地を開拓・開発させ、東北(蝦夷)への前線基地にするためだったのだろう。
高麗郡は、今の日高市が中心で、飯能と坂戸市の西部にあり、新羅郡は現在の新座、志木、和光、朝霞市の辺りにあった。新羅郡は後に新座(にいくら)郡になった。高麗は高句麗の別称だ。
渡来人とのかかわりを思わせるのは、この2郡にとどまらない。
北武蔵には幡羅(はら、後に、はんら)という郡もあった。熊谷、深谷市あたりの新羅系の居住地で、「幡」は「秦」に通ずるので、渡来系の大氏族・秦氏が開発に当たった地域と考えられている。
渡来人の武蔵国への移住は、高麗郡、新羅郡の設置以前の6世紀末から行われていたようで、男衾(おぶすま)郡には、その郡長に渡来人の壬生吉志(みぶのきし)氏が当てられていた。
「吉志」は、百済の王の和訓「こにきし」の同意語だという。
男衾郡は、荒川中流域の南方にあって、現在の寄居、小川、滑川、嵐山、ときがわ、鳩山などにまたがる地域だった。男衾郡は8郷からなる武蔵国で最も大きい郡だったという。
壬生吉志の中でも福正(ふくしょう)は、富豪として知られ、自分の二人の息子が生涯に納める税金を一括前払いしたり、武蔵国分寺の七重塔が落雷で焼失したままになっていたのを、修復、寄進したことが記録に残されている。
男衾郡内には台地向けの灌漑用溜池が多く、水田や魚類の養殖池に利用され、大規模な須恵器生産の窯があり、和紙の生産や養蚕業も盛んだった。
もう一つ注目されるのは、郡内の今のときがわ町に武蔵国で最古の天台別院慈光寺が開かれたことである。
開山は釈道忠(しゃくのどうちゅう)と伝えられるが、道忠も渡来系の出身者だったのではないかと推定されている。
秩父黒谷で奈良時代初頭、わが国初の銅(和銅)鉱脈を発見したのは、新羅系渡来人の金上无だったという説や、「羊」という名の渡来人が関わっていたという説もある。
この頃にはすでに秩父にも渡来人が入り込んでいたことを物語っている。
思いつくものを上げただけで、古代の北武蔵は、渡来人の縦横に活躍する場だったようだ。
誰でも知っているとおり、埼玉県は武蔵国に属していた。
昔は「无邪志」とか「胸刺」と表現されていた。これに知知夫国造(ちちぶのくにのみやっこ)が支配していた知知夫が加わり一つの国になった。
645年の大化改新と701年の大宝律令によって大和朝廷による中央集権の律令国家が確立され、国、郡などの地方組織が整備された後、現在の埼玉県、東京都のほとんどと、神奈川県の横浜、川崎市にまたがる国として「武蔵」の国名が使われている。
以前は「東山道」だったが、「東海道」に転属した。「道」と言っても道路の名前ではなく、道路を中心とする地方の名前である。
武蔵国は21(後に22)の郡(こおり)で構成されていた。陸奥国の40郡に次いで多かった。
21郡は一度にできたのではなく、それぞれが出来た年代ははっきりしない。「続日本記」によると、朝鮮半島からの渡来人による「高麗郡」が716年、新羅(しらぎ)郡(のち新座=にいくら=郡)が758年に追加された。
21の郡のうち、北武蔵に当たる現在の埼玉県には15の郡があった。郡の数では北が圧倒的に多いのに、国を治める国府は埼玉県内ではなく、南の現東京都府中市に置かれていた。武蔵国分寺も現東京都国分寺市にあった。
平安中期に編纂された律令の施行細則(延喜式)によると、国力の格は「大国(たいこく)」で、都の京都からの距離は「遠国(おんごく)」とされているというから面白い。
15の郡は、足立、新座(にいくら)、入間、高麗、比企、横見、埼玉(さきたま)、大里、男衾(おぶすま)、幡羅(はら)、榛沢、那珂、児玉、賀美(かみ)、秩父である。
郡の中にはいくつかの郷(ごう)があった。その数は、武蔵国全体で121、埼玉県域で75あった(平安時代中期の辞書・和名類聚抄)。
郷の戸数は50戸と定められ、1戸の平均人数は25人前後だから、当時の人口は武蔵国で約15万人、埼玉県域では約9万人と推定している本もある(「埼玉県の歴史」小野文雄著・山川出版社)。
足立郡には、現在のさいたま市(岩槻区を除く)、川口、戸田、蕨、上尾、桶川、北本、鴻巣市などが入っていた。
横見郡は吉見町の辺り、埼玉郡は、さいたま市岩槻区、春日部、越谷、久喜、八潮、蓮田、行田、羽生、加須市など、榛沢郡は熊谷、深谷市と大里郡辺り、那珂郡と賀美郡は本庄市、児玉郡の辺りだったという。
竜巻なんて、米国のロッキー山脈東側の米中西部から南部を襲う災害とタカをくくっていたら、13年から埼玉県越谷市についで熊谷市、14年にはさいたま市でも大規模なのが発生するようになり、にわかに身近なものになってきた。
歴史的には大水害こそあったものの、台風や地震もそれほど深刻な被害をもたらしたことはない。比較的大災害には縁が薄いと見られてきた埼玉県の重大なリスクになろうとしている。
関東平野北部の埼玉、群馬、茨城県は、西側に冷たい西風をもたらす秩父山地、南側に暖気を送り込む東京湾がある。その地形がロッキー山脈と南側にメキシコ湾がある米中西部と似ていると専門家は指摘している。(毎日)
熊谷市や館林市など関東北部に定着しようとしている猛暑が、積乱雲を発達させ、竜巻などの突風を生むのではないかとも言われる。
竜巻は寒気の下に暖気が入り込み、大気が不安定になると発生しやすくなるからである。
13年9月2日午後2時過ぎ、越谷市など県東南部を襲った竜巻では、県の調べで越谷市では負傷75人、建物被害は住宅全壊27、大規模半壊57を含む1585棟に及んだ。
台風の接近に伴い、同月16日未明の午前1時半過ぎ、熊谷市など県北西部を襲った竜巻では、熊谷市で負傷6人、住宅全壊10、半壊21を含む1211棟が建物被害を受けた。
気象庁によると、竜巻は夏から秋、7~11月に全体の約7割が発生、台風シーズンの9月に最も多いという。
さいたま市の場合は、発生が14年4月4日午後3時20分ごろで、住宅など約20棟の被害で済んだが、季節はずれで、「想定外」だったのが住民を驚かせた。
英語で「トルネード」と呼ばれる。気象庁などによると、米国では世界の竜巻の約8割、年間800~1000個前後が発生する。
竜巻が頻発するカンザス、オクラホマ、ミズーリ、アーカンソー州などは「トルネード・アレー(竜巻街道)」と呼ばれるほどだ。
これに比べ、日本の陸上での竜巻は年間20~25個程度。
1991~2013年の都道府県別発生確認数は、多いほうから沖縄(42)、北海道(38)、高知(29)、宮崎(23)、鹿児島(22)の順で、埼玉は14で8番目。海なし県では全国最多という。近県では千葉(11)、茨城(10)、栃木(7)、群馬(4)となっている。
異常気象で来年も夏の猛暑はおさまりそうにない。埼玉が「日本の竜巻街道」と呼ばれることのないように祈るほかない。
アフリカや中東にざっと7年もいて、暑さには慣れきっているので、「暑いぞ! 熊谷」という、暑さを逆手にとったキャッチフレーズも、その原因に挙げられる「熱風の交差点」という言葉も気に入っている。
最近は暑さのニュースに、隣県・群馬の館林や伊勢崎市なども登場することが多く、専売特許ではなくなった感があるとはいえ、熊谷が日本の暑さの記録に残ることは間違いない。
07年8月16日午後2時42分、気温40.9度を観測、2分前の20分に同じ気温を記録した岐阜県但馬市とともに、暑さの日本最高を記録、13年8月12日に高知県四万十市で41.0度が観測されるまで最高を保持した。
熊谷、但馬市の前は山形市の40.8度(33年7月25日)だった。いずれも0.1度の差で、何かオリンピックの100m競争を連想させる僅差の争いである。
暑さの記録はこれだけではない。10年には、年間猛暑日(35度以上)日数が、館林とともに41日と国内最多を記録している。
この暑さの原因の説明に使われるのが、「ヒートアイランド現象」と「フェーン現象」である。
「ヒートアイランド(熱の島)現象」は、東京都などの大都市で、エアコン、車、アスファルト、ビルなどの熱が放出されて、都心の方が郊外より暑くなる人間が作り出した高温だ。
「フェーン現象」は、風が山を吹き降りてくる際、下の地上は上空より気圧が高いので、降りるに従って、空気が圧縮されて、温度が上がる現象である。
地図を見ると明らかなとおり、東京都の北にある熊谷は、秩父山地と関東平野の境目にある。
太平洋高気圧の海風(南風)に乗って北上してくる「ヒートアイランド」の熱風と、秩父山地を降りてくる「フェーン現象」による熱風が、日中の最高気温となる午後2時過ぎに熊谷の上空付近で交差する。
これが「熱風の交差点」だ。館林や伊勢崎の暑さ仲間もほぼ同じような位置にある。
ここまでは通説だが、筑波大の研究チームが最近、スーパーコンピューターを使って、新しい知見を加えた。
比較的低い高度の山を越える気流、「第3のフェーン」と呼ぶべきものがあり、下降しながら地表の高熱を吸収する。熊谷市に流れ込んだ熱風の約6割が、標高1000m以下の地表の熱を吸収しているというのである。
「ヒートアイランド現象」と従来の「フェーン現象」に加えて、地表の熱を吸収した「第3のフェーン」が加わって、日本一が発生したというわけだ。
「彩の国だより」15年6月号の「知事コラム」によると、熊谷市の夏日(最高気温が25度以上)の日数は、1975年から84年までは年平均108日だったが、最近の10年間の平均は129日。熱帯夜(夜間の最低気温が25度以上)の日数は、1975年から84年の年平均2.9日が、最近は平均13日と4倍以上に増えている。
冬の関東平野は太平洋側気候で、晴れた日が多い。東北や日本海側は雪に閉ざされているというのに、こんな好天続きで申し訳ないと常々思っている。最初の赴任地が青森市だったので、なおさらだ。
中でも埼玉県は「快晴」の日が多く、宮崎県などと日本一を競っている。
「快晴」と「晴れ」とどう違うのか。気象庁の定義によれば、雲量、つまり雲の量の違いである。
雨や雷などが無い天気は、「快晴」、「晴れ」、「曇り」で表される。空全体が雲で覆われていれば、雲量は10、雲が全くなければ雲量は0である。
雲量が1以下の状態を「快晴」、2以上8以下の状態を「晴れ」、9以上を「曇り」とするのだという。
「雲一つ無い晴天」とか「日本晴れ」が「快晴」に当たる。真夏の快晴は、最近では熱中症や35度以上の猛暑日、夜にも25度以下に下がらない熱帯夜を連想し、またかと疎まれる。
一方、真冬の晴天は、暖かいし、洗濯物もよく乾くので、埼玉県住まいがうれしくなる。埼玉住まいの良さ一つは、冬季の好天だとつくづく思う。
県の総務部統計課が毎月1回のペースでネットに掲載している「統計ア・ラ・カ・ル・ト」というページがある。統計を通じて埼玉の多彩な姿を面白く、分かりやすく伝えているもので、最近気がついてアクセスし始めた。
埼玉県の快晴日数については、ネット上でも多くの情報がある。数字の専門家のページだから最も信用できそうだから、12年1月11日の第46号「埼玉県は快晴日数日本一」を引用してみよう。
「快晴日数が多いのは、埼玉県の大きな特徴です。平成13年~平成22年(01年~10年)の10年間で、なんと7回も日本一になっています。気象庁のデータによると、平成22年の快晴日数は、埼玉県(観測地点:熊谷市)が49日で日本一となっています。2位は宮崎県で47日、3位は静岡県で42日と続いています」とある。
観測地点が熊谷市になっているのは、埼玉県の地方気象台がさいたま市ではなく、熊谷市にあるからだ。熊谷は、夏に日本で最高の気温を記録したこともある所で、埼玉県の気候を代表するわけではないが、歴史的な事情でそうなっている。
銚子、彦根、下関の3市が熊谷同様、県庁と地方気象台の所在地が異なっているらしい。
「平成22年の快晴日数を月別に見ると、1月が15日(全体の31%)で最も多く、次いで12月が10日(全体の20%)となっており、冬場に快晴日数が多いというデータが出ています」
「昭和56年~平成22年(1981年~2010年)の30年間の日別の天気(晴、曇、雨、雪の4区分)を見ると、12月後半から1月前半までは、晴れの確率が8割前後になっています」
毎年日本一というわけではないものの、冬場のこのような好天続きが、埼玉県が700万人を超す大県になり、さいたま市が120万人を超す全国第9位の政令都市になった大きな要因だと思われる。
その逆で、気象庁のデータを使った「年間雨日数ランキング」というのを見ると、埼玉県は37.4日で、39位で下から数えたほうが早い。雨日とは、降水量10mm以上の日だという。
晴れた日が多く、雨の日が多い結構な県なのだ。2012(平成24)年の快晴日数は56日で日本一だった。
「埼玉県は川の国」だと言っても、信じてもらえるだろうか。初めて聞いた時は私も「エーッ」と驚いたものだ。
埼玉県はその面積約3800平方キロ㍍の中で、河川が3.9%の面積を占め、日本一だというのだ。
河川に湖沼、用水路の面積を加えると、5.0%で、琵琶湖のある滋賀、霞ヶ浦のある茨城県、水路や運河が交錯して「水の都」と呼ばれてきた大阪府に次いで、全国4位に後退する。
「川の国」であることは間違いない。地図を見れば明らかなように、埼玉と言えばまず、「母なる川」と呼ばれる荒川である。
埼玉、山梨、長野3県の境が交わる甲武信ヶ岳(こぶしがたけ 甲州 武州 信州の頭文字を集めた 2475m)から秩父盆地、長瀞、寄居を経て熊谷から南下、荒川低地を流れ下り、東京都北区の岩淵水門で、本流の荒川放水路と隅田川に分かれる。
荒川放水路は東京の下町を洪水から守るため、1911(明治44)年着工、難工事の末17年かけて1930(昭和5)年完成した。総数300万人を動員、30人近くの犠牲者が出た。
荒川の流域面積は、県内だけで2440平方km、県面積のほぼ3分の2を占める。
流域面積とは、分かりにくい言葉だ。河川の幅の総面積ではなく、河川に対して雨や雪の降水が流れ込む範囲が流域で、その面積を流域面積という。「集水面積」ともいう。
河川の幅とは、水が実際に流れている幅ではなく、堤防から堤防の間の距離を指すようだ。
西から流れ落ちる荒川とともに、忘れてはならないのは、北の群馬、栃木、東の茨城県との境を流れる利根川だ。日本一の流域面積を誇り、関東平野の大半を流域とする。
県内には、一級河川で荒川水系が98本、利根川水系が63本ある。合わせて161本。県の全面積がこの二つの水系の流域に覆われている。
言われてみれば、川の数は多い。目ぼしいものだけでも、西から入間川、高麗川、越辺(おっぺ)川、都幾川、新河岸川、綾瀬川、元荒川、古利根川・・・。
大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)という長く難しい名の川もある。徳川家康が江戸に入る前には、利根川の本流だったこともあるようだ。落しとは「農業排水路」のことで、大落古利根川は排水路になっている。
それに中川、千葉県との境界を流れる江戸川・・・。
こう言われると、「埼玉県は川の国」であると実感できるような気がする。観光資源が乏しい埼玉県では、これをなんとか活用できないかと模索が続いている。「川の国埼玉魅力100選」という小冊子さえできているほどだ。
県央部から東部へかけての平坦地が売り物ながら、県土の3分の1は荒川が作った山地である。
荒川は秩父の西部山地を下った後、秩父盆地を経て、台地・丘陵地を抜けて、荒川低地を流れ下る。県の地形の顕著な特徴の一つである、県北や県央部から東部へかけて広がる平坦地は、県土の3分の2を占め、荒川と利根川の合作だ。
日本はざっと7割が山間地とされる。埼玉県の山地と丘陵は、県土の3分の1ぐらいだからちょうど逆だ。
荒川は、「荒れ川」の名のとおり、史上何度も大小の氾濫を繰り返してきた。それは農産物への被害を与えた反面、流域に肥沃な土壌をもたらし、農民への恵みにもなった。
江戸時代まで、河川交通や物資流通の大動脈にもなった。その時代の荒川やその支流・新河岸川の河岸場の地図を眺めると、その数の多さに驚く。
河岸場は、単に船が発着するだけではなく、河岸問屋があって、交易の拠点だった。利根川中流の中瀬河岸(現・深谷市)は、秩父方面からの荷も寄居を経て、運ばれてきて、この付近最大の中継河岸だったという。
江戸時代の深谷のにぎわいの理由がこれで初めて分かった。
江戸へ特産の藍玉や蚕種、米、麦、上りは塩、醤油、酒、海産物、肥料用の干鰯などが主要な荷だった。
県の南部では肥船も重要な比重を占めていた。貴重な肥料だったのだ。肥船と言っても若い人には見たことも聞いたこともない人が多いに違いない。人糞が売買されていたのだ。大名屋敷から出る人糞は、食べるものが滋養に富むので値が高かった。
「埼玉県謎解き散歩」によると、大正半ばになっても県内には「埼玉病」というのがあり、死亡率は他の県より高く、体格も劣っていたという。
人糞を肥料に使っていたことによる「十二指腸病」で、水田の多い地方に多かった。駆虫剤の投与などで減ってきたのは大正10(1921)年以降だったとか。
肥桶を担いで肥料にしていた経験が、鹿児島で過ごした少年時代にあるので、糞尿譚(スカトロジー)には今でも大いに興味がある。
学校で検便があったので、持ってくるのを忘れると友達のを分けてもらった記憶が懐かしい。
英語を勉強するようになって、進駐軍が肥車(こえぐるま)を「ハニーカート」と呼んでいたのを読んで、「なるほど」と思ったものだ。
今でも付き合っている親友の一人は、アフリカ経験が長いので、駆虫剤を飲んでみたら便器一杯、サナダ虫が出たという話をしていた。
「寄生虫を腹に飼っていた方がいい」という寄生虫博士もおられるようだ。スカトロジーのねたは尽きない。