「ちから」ではなく「RIKI(りき)」と読む。
「安くてうまくてサービスのいい”焼きトン屋“はない? 」と聞かれたら、迷わずにこの名を挙げる。
JR浦和駅西口から歩いて数分。信州直送の新鮮な肉を売り物にしているこの店は、豚の各種の内臓が刺身でも食べられるほどの鮮度に加えて、焼きトンは焼きにこだわる。焼き手は絶対に黒く焦がしたりしないよう教育されている。
少し離れた郵便局の裏に1969年に開業、99年に現在の場所に移った。
この店には、もうひとつの顔がある。Jリーグで最も人気のあるチームのレッズ(浦和レッドダイヤモンズ)のファンの集う店、“サポーターの聖地”であることだ。
快晴の10年5月5日の子供の日、浦和駅東口のパルコの脇からレッズのホーム(本拠地)「埼玉スタジアム」に向かう臨時バスが出ているのに気づいた。聞いてみると、相手は名古屋グランパス。
RIKIのもう一つの顔を見てみようかと店に向かった。
着いたとたん、開け放たれた出入り口から大型テレビを見ているファン(今はサポーターと呼ぶらしい)が立ちあがって叫んでいる姿が見える。ちょうど2対1と逆転に成功した瞬間だったらしい。試合はこの得点で決まった。レッズはホームで名古屋と過去4戦しているが、0勝2分2敗と一度も勝っていないので、喜びはひとしおだったのだろう。
RIKIの従業員はそろってレッズのチームカラーの赤シャツを着て、胸には「❤(ハート印 ) RIKI URAWA」と書いてある。ハート印はloveの意味だろう。カウンターに腰かけと、隣は横浜から来たというレッズファンの常連。店内を見渡すと、若い男性だけでなく、レッズ・マフラーをつけている女性や子供の姿もある。
飲み物には「レッズサワー」「レッズハイボール」「レッズレディーズ」や「野人ハイ」というのもある。野人とはレッズにいたフォワード岡野雅行のことだという。
この日、スタジアムは今シーズン最高の約5万5千人で赤く埋まった。「PRIDE OF URAWA」の旗が見える。店内でもこの英語が目に付く。レッズは英語が好きらしい。
「ださいたま」とさげすまれても、さいたま人、うらわ人は「誇り」を求めている。サポーターが歌うのは「威風堂々」である。
その気持ちを代弁しているのがレッズなのだ。浦和市の名は消えたが、レッズはサッカーのまち、元浦和と埼玉のナショナリズムを今後も高揚させていくだろう。
サッカーのまち、浦和に「浦和レッズ」が生まれて12年で20年。
オリンピックのサッカー報道の陰になって、ほとんど報道されなかったものの12年8月4日、本拠地の「埼玉スタジアム2002」で行われた対FC東京戦で、20年間のレッズのリーグ戦の入場数が1千万人(J2時代の入場者を含む)を突破した。
Jリーグ史上の快挙である。
最近の成績はともかく、人気、観客動員数はJリーグで抜群。入場者数では、2位の横浜マリノスを約300万人も大きく引き離している。次いでアルビレックス新潟、鹿島アントラーズ、名古屋グランパスの順になるという。(朝日) 野球で言えば、巨人軍といったところだ。
チーム名には各国語が入れ混じってまぎらわしい。それと対照的に、「浦和レッズ」は単純明快。アマチュアサッカーの名門「三菱重工業サッカー部」→「三菱自工サッカー部」が前身なので、そのイメージカラーが赤、それに三菱グループのマークがご存知赤のスリーダイヤモンドだから、ずばり「レッド=赤」なのである。選手のシャツも赤シャツだ。
アマチュアからプロのJリーグへの動きの中で、フランチャイズを探していた三菱自工と浦和市の思惑が一致して1992年、「三菱浦和フットボールクラブ」(愛称:浦和レッズ)として結成された。
1996年「浦和レッドダイヤモンズ」と改名された本社は、日本最大、アジアでも最大級の63,700人収容を誇るサッカー専用の「埼玉スタジアム2002」(さいたま市緑区中野田)の中にある。
2002がついているのは、この年開かれたワールドカップの会場になったからだ。株は、三菱自工が50%余、さいたま市と埼玉県も5%ずつ持ち、埼玉市長も取締役に名を連ねる。
J1リーグでの優勝経験は一度(06年)、J2降格(1999)の経験もあるのに、リーグ開幕当時から熱狂的とよく言われる多くのサポーターを抱えていることで知られる。08年にはリーグ史上最高の80万人超の観客動員数を記録している。
熱心なサポーターが多いだけに問題も起こす。
14年3月8日に埼玉スタジアムで行われた対サガン鳥栖戦で男性サポーター3人がレッズのゴール裏スタンド入り口に「JAPANESE ONLY(日本人以外お断り)」の横断幕を掲げた。
クラブは撤去を指示したが、サポーターの了承を得るのに時間がかかり、試合終了まで3時間以上掲げられた(読売)。
このような差別的表現は、国際サッカー連盟(FIFA)、日本サッカー協会、Jリーグも禁止している。Jリーグはレッズの管理責任を問い、村井満チェアマンは13日、Jリーグ22年目で初めての「無観客試合」開催の処分を科した。
レッズの淵田敬三社長は会見で、横断幕を掲げたグループが属するグループ約20人にレッズ戦入場無期限禁止、当面レッズサポーターが横断幕、ゲートフラッグ、旗類などを掲げる行為を禁止すると発表した。
4月6日からは、クラブで作成した旗については許可することにした。
レッズは3月23日、ホームの埼玉スタジアム(6万3700人収容)で対清水戦を観客がいない状態で試合、入場料だけで1億円近い損失になった。
これに先立ち3月15日、広島であった対広島戦では、レッズから32人のスタッフや警備員が派遣され、横断幕と旗が消えた。浦和側スタンドでは、約1800人のサポーターはタオルマフラーを掲げて応援した。
レッズサポーターは10年5月の対仙台戦でも、「相手選手を人種差別的な言葉で中傷した」として500万円の制裁金の処分を受けている。
ゴール裏に陣取り、熱狂的な声援を送ってきたサポーターグループ11団体は3月28日、自主的に解散した。
埼玉県で毎年開催される全国的な、いや世界的というべきか、イベントに日本スリーデーマーチがある。
11年ですでに34回になる。参加してみたいと思ってはいても、昔から体を動かすスポーツの類は、なんとなくおっくうで、新聞で読んでいるだけだった。
東松山に出かけてみようという気になったのは、暇ができたのと、最近、埼玉県内各地を歩き慣れているので、歩けるかも知れないと思ったからだ。
当日申し込みの2千円が千5百円に割引になるというので事前予約して、自転車ならともかく、これだけの距離を歩いた経験はないのに30kmコースに挑戦することにした。同じ県内の飯能新緑ツーデーマーチで、わずか10km歩いたのが背中を押した。
11年11月4日は、スリーデーの初日で、11月とは思えないほどの暖かさと好天に恵まれた。
リュックの背中に貼るゼッケンに、3日間それぞれの歩行距離、国名または県名、名前と並んで、「私の一言メッセージ」を書き込む欄がある。
スリーデーマーチの名のとおり、3日間通して歩くのが原則になっているようで、実際、3日分を書き込んでいる人が多かった。
メッセージ欄に私は、無愛想に「初参加」とだけ書き込んだ。歩き始めてこのメッセージを読む楽しさが分かった。次々に抜かれるので、読めるゼッケンは増える一方だ。
メッセージには「完歩」という言葉が最も多く使われていた。「歩き抜く」という決意の表明だろう。たまに「「観光気分で歩く」という意味か「観歩」というのもあった。完歩と並記してあるのがほとんどで、観歩に徹するというのではなさそうだった。
私のように、最初から「緩歩」「閑歩」「漫歩」を決め込んでいるような心得違いはまずいないことが分かった。「日本人は何をするにしても本当に真面目なんだなあ」と痛感した。
おまけにスティーブ・ジョブズが遺したアイポッドや携帯ラジオでニュースや音楽番組を聞き、時には小型のデジタルカメラを取り出すのだから、場違いもいいところだ。
驚いたのは、「アルチュウ進行中」というメッセージを見たことだ。わたしは「進行中」どころか、アルチュウに近いので、「わが同士よ」と親近感を覚えた。だが、よく見ると「アル(歩)チュウ」と書いてある。「歩き中毒進行中」なのだ。
やっと分かったのは、このマーチは「競歩」ではないのに、参加者は一つの競技として捉えているのではないかということだった。
マラソンやジョッギングをしている人の間に、走っているうちにだんだん気分が良くなってくる「ランナーズハイ」という言葉がある。「ウオーキングハイ」も起きるのだろうか。
そう言えば、このマーチの参加者にも国内外のマーチを転戦している人もかなりいるようで、背中に参加記念バッジが一杯という人もいた。
帰路には、午前6時出発の50km組みに次々抜かれた。3日間とも50kmと書いたのを見ていると、この鉄脚の持ち主はまるで“歩き神様”のように思われた。
日本人は北海道、九州、岡山、それに福島・・・と全国的だが、外国人は50人足らずとかなり減った。原発事故のせいのようだ。本場オランダのほかルクセンブルグの夫婦連れやオーストラリア、韓国人の姿を見た。
ゼッケン眺めだけでなく、この日のコースも面白くすばらしかった。
30kmコースは、東松山市役所を起終点として、行きは和紙の町、小川町の埼玉工芸会館までの14km。帰りは、京都の嵐山に似た武蔵嵐山渓谷、畠山重忠ゆかりの菅谷館、原爆被害画の丸木美術館経由の18kmの計32km。
それぞれ個別には訪ねたことはあっても、それを結ぶ道を歩いたのは初めてだった。市野川、槻川、都幾川と川に沿ったところが多く、比企丘陵の田園の秋を満喫できた。
往路の鬼鎮(きじん)神社(嵐山町)は、初めてだった。鬼を祀った神社で、節分の掛け声は「福は内、鬼は内、悪魔 外」で、赤鬼、青鬼も豆をまく全国でも珍しい神社。受験にも強い「勝負の神様」として知られる。
朝7時すぎ出発、午後3時半ごろゴール。順位や所要時間が出ないのがいい。昼食、小休憩(立ち寄り)を含めて8時間余。老緩歩者にふさわしく時速ざっと4km。時速7kmの人もざらにいるらしい。1日または2日間だけ完歩した登録者に与えられる「完歩証」をもらった。
三日間完歩した人には、「大会完歩証」と「完歩数字賞」が贈られる。
34回の延べ参加者は7万2千弱で昨年の8万9千弱から大幅に減った。好天に恵まれた12年の35回は、過去最多の12万3658人に達した。35回連続50km完歩の人もいたそうで、頭が下がる。
日本最大、世界でもオランダの国際フォーデーマーチに次ぐ2番目の規模だという。
東松山といえば市内に約百軒の店があるヤキトンのまち。駅に近い松川屋では本物の紀州備長炭が石炭みたいに密度が高いのを手にしたし、焼鳥店組合の組合長の「桂馬」も久しぶりに訪ねた。「アル(歩)チュウ」ならぬアルチュウ候補にとって、参加動機の半分はヤキトン目当てだったのだ。
「わざわざお金を払って、旗を持ったリーダーに率いられ、集団で長い列をつくって、ぞろぞろ歩道や山道を歩くなんて」。人嫌いでへそ曲がりな性分だから、こんな催しに参加するなんて思いもよらないことだった。
「だが、待てよ。一度やってみようか」と思ったきっかけは、年をとり、飯能の魅力に取りつかれてからだ。
奥武蔵の玄関口として知られる飯能を、初めて訪ねたのはもう何十年前のことだろう。たしかあの時、天覧山に登って、四代将軍綱吉の生母桂昌院が、綱吉の病気平癒のお礼に寄進した十六羅漢像を眺め,能仁寺を訪ねたのだった。
訪れた当時、埼玉にこんなに立派な寺があるのかと感心した。日本の名園百選にも選ばれている。上野の寛永寺が官軍の手に落ちた後も、逃げ延びた振武軍が本陣にしたため焼失した。1936(昭和11)年再建されたという。
。私は薩摩出身だが、時の流れに逆らって、敗北を覚悟で「飯能戦争」を戦って切腹した渋沢平九郎(22)(渋沢栄一の養子)ら埼玉人の心意気に感じている。
「飯能ツーデーマーチ」もあるのは知っていた。飯能が「エコツーリズム」に力を入れていると聞き、講演を聞きに行った時である。
今回は大地震の「復興支援」がテーマというのも気に入った。歩いてささやかながら貢献できるなら一石二鳥である。
11年は第9回。5月21日の初日は、天覧山・多峯主山・南高麗ルートで、20、10、5kmの3コースがある。前回、多峯主山に登っていないので、この山を登る10kmに参加することにした。
10kmだと、この山を登って、入間川の飯能河原に抜け、飯能を代表する景観の一つの赤い割岩橋を渡って帰ってくるだけのコース。午前9時半、中央会場の飯能市役所を最後尾で出発、散歩がてらにのんびり歩いたら、終着の市役所まで3時間かかっていた。
考えてみれば、「多くの峯の主の山」――多峯主山とはすごい名前である。「とうのすやま」と読むらしい。「この山はなんと読むのかしら」という声も聞こえた。山頂に経文が書かれた約1万2千個の河原石を埋めた経塚があるとかで霊山なのである。はやりのパワースポットとして売り出してみてはどうだろう。
標高271mとたいしたことはない山なのに、山頂真近はちょっと急登で、二十年来の運動靴の底が平らになっているので滑った。そろそろ買い替え時かと痛感した。
下りは、源義経の生母常磐御前が、あまりの美しさに振り返り、振り返った「見返り坂」を通ったはずなのだが、杉檜林の中で展望はなく残念。
これも常磐御前がらみの「よし竹」は、ちょっぴりだけ残っていた。『源氏再び栄えるなら、この杖よし竹となれ」と、持っていた杖を地に突き刺したら、根付いて一面の竹林になったといういわれの竹である。近くに病にかかり亡くなった御前を供養する五輪塔もあったという。ところで御前はなぜ、はるばるこの地まで来たのだろうか。
歩いた後、市役所の広場で舞台を見ていたら、フラダンスを習っている人が多いようで、幼稚園の子まで踊っている。三線(さんしん)こそなかったものの、地元の駿河台大学の沖縄県人会の太鼓と踊りも楽しめた。地元の伝統芸能も披露された。
売店もずらり並んでいて、地元の名酒「天覧山」もあったから、二杯も飲んだ。元気が出て四里歩けるという「四里餅(しりもち)」もあったので、お土産に買った。
京浜東北線の浦和駅西口で降りると、駅前商店街の街灯の柱に赤い旗がずらっと掲げてあるのに気付く。よく見ると、白字で「URAWA サッカーのまち We Support URAWA REDS」と書いてある。さいたま市の中心部の浦和区のサイン付きだ。
浦和区役所(2階以上はさいたま市役所)を訪ねても、17号線沿いに「サッカーのまち さいたま」の塔や横断幕が目に入る。
浦和区役所の前には1997(平成9)年に建てられた「埼玉サッカー発祥の地」の記念碑が立っている。彫像と碑が向き合っていて、像は二人のプレーヤーがボールを追っている姿。
碑文には大要、「埼玉のサッカーは1908(明治41)年6月に埼玉師範(現埼玉大学)で始まり、指導者が浦和を中心に教師として赴任して普及・発展した。浦和市役所は埼玉師範の跡地に建てられたので、まさに埼玉サッカー発祥の地。埼玉師範が全国大会で初優勝して以来60周年の本年、記念碑を建設した」と記されている。浦和市時代のものだ。
さいたま市は、浦和区を本拠とする「レッズ」、大宮区の「アルディージャ」と、合併で一つの市の中にJ1チームを二つも抱えていることはあまりに有名。「アルディージャ」とは、スペイン語の「リス」のことだ。
全国でサッカーのご三家と言えば、静岡、広島と埼玉の三県。静岡は「清水エスパルス」、広島は「サンフレッチェ広島」とそれぞれJ1チームを持っている。この碑文によれば、ご三家の一つの埼玉県のサッカーは100年以上の歴史を持っているわけだ。
埼玉師範とサッカーの関係を調べようと、また、さいたま市の中央図書館を訪ねると、郷土資料の中に『輝く埼玉サッカー七十五年の歩み』(埼玉県サッカー協会編)と『キックオフの笛が鳴る(サッカーの歩みと魅力)』(轡田隆史著、さきたま出版会)の格好の本2冊が見つかった。
轡田氏は、朝日新聞の夕刊「素粒子」の筆者やテレビ10チャンネルのニュースのコメンテーターを務めた。浦和高校、早大サッカー部で選手として活躍、Jリーグ初代チェアマンの川淵三郎氏とも一緒にプレーした。面白くないはずがない。
サッカーは英国では「フットボール」と呼ばれる。始まったのはギリシャ、ローマ時代のようで完成されたのは英国だという。
ローマ時代には、敵のサレコウベ(頭の骨)を蹴飛ばして始まったという説があり、英国でも最初のひと蹴りは、戦いで敗れた敵軍の首を蹴ったことだっとという話もあるとか。
昔の英国のは、村や町ぐるみ、数十、数百の人が一つのボールを追って、会堂や何かをゴールに見立てて、押し込もうというもので、手も使い、殴る、蹴る、とにかく乱暴な遊びだったという。
日本で初めてフットボールが行われたのは、1874(明治6)年。明治7年とも。1877(明治10)年のちに東京高等師範学校になる体育伝習所の教科に取り入れられ、東京高師にフットボール部ができたのが1896(明治29)年だった。
フットボールの先頭を走っていたのが、東京高師で、卒業生は全国の中学校や師範学校に散り、その伝道師になった。
その一人が兵庫県生まれの細木志朗先生で、日本一の指導者として知られ、1908(明治41)年6月6日に埼玉師範の生徒たちに実技を教えた。これが埼玉のサッカーの始まりである。
翌月から1921(大正10)年、愛知県安城高等女学校に転任するまで同校に奉職した細木先生は、自分で材木屋へ行って角材を買ってゴールポストを作ったと伝えられるなど、熱心にサッカーの指導に当たった。
埼玉師範は1937(昭和12)年、第19回全国中等学校蹴球大会で優勝、その60周年を記念したのが、浦和区役所前の記念碑だ。
この全国制覇などが刺激になって、サッカーは「埼玉のスポーツと言えばサッカー」と言われるほどに盛んになり、全国で輝かしい成果を挙げるようになるのである。
細木志朗先生が埼玉師範にまいたサッカーの種は、埼玉師範から先生として県内に赴任した卒業生を通じて浦和市を中心に県内に広まった。先生は師範だけではなく、頼まれれば、どこへでも指導に出かけた。県立浦和中学校(現浦和高校)もその一つである。
細木先生は几帳面に日記をつけており、どこの学校に指導に出かけたか細かく書いてある。1949(昭和24)年、新学制で浦和中が浦和高に変わってもサッカーの伝統は引き継がれた。
この年、浦高は第4回国体(東京)で初の全国制覇、昭和26年には第6回国体(広島)で再制覇、27年の第30回全国高校選手権(西宮)、30年の第33回、31年の第34回で優勝、サッカー王国の基礎を築いた。
轡田氏がいた頃の浦高サッカー部は黄金時代で、県内外で69連勝を記録している。浦高に続いて、時代の順に浦和西高、浦和市立高、浦和南高、それにさいたま市ではないが、児玉高、武南高がそれぞれ全国優勝を重ねたのは記憶に新しい。
中でも浦和南高は、1967(昭和42)年の第22回埼玉国体で優勝、44年には全国高校総体、国体(長崎)、翌年には全国高校選手権で優勝、史上初の全国制覇の「三冠王」を達成、浦和高をしのいだ。
「赤き地のイレブン」――。浦和南高の活躍をモデルにした梶原一騎・園田光慶原作のサッカー劇画やテレビアニメを読んだり、見たりした人は多いだろう。
高校だけではない。全国教員系大学大学選手権で埼玉大学が、国体で埼玉教員クラブが優勝を重ね、さらに、全国中学校、全日本少年サッカー大会、女子サッカー大会でも浦和市のチームが優勝するなど、一々挙げるのが大変なほどだ。
「サッカーのまち さいたま」はその歴史に裏付けられている。細木先生がまいた種は見事に実り、浦和レッズへの道を開いたのである。