令和3(2021)年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」は、県北部の深谷出身の「日本資本主義の父」渋沢栄一の波乱のの一生を描いて、埼玉県のイメージアップに大いに貢献した。
うれしいことに今度は、翌4年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも
県西部の「比企地域」とか「比企一族」とか、あまり親しみはないものの
全く知らないことはない地名や、人名が飛び交った。
お隣りの東京都に目が向いている人が多い埼玉県人には、「比企地域」、「比企一族」とかと言っても、ピンと来る人はそれほど多くないかもしれない。なにしろ、鎌倉武家幕府が成立した1192(いいくに)年ごろの話なのだから。
大河ドラマなどに関係の深い、売れっ子の歴史学者磯田道史氏によれば、その舞台になれば、その県の観光客は1割前後増え、県の総生産はその年だけでも0.5%上げる効果があるとか(「日本史の内幕」=中公新書)。
視聴率の高いNHKによる2年続きの快挙に地元は沸き立ち、「深谷の次は比企地域」とPRに躍起になった。
男尊女卑社会の現在の日本では、側近と言えば、男性を連想するが、この時代以前は必ずしもそうではなかった。
北条政子=「比企尼(ひきのあま)」は源頼朝の正妻だった。頼朝の弟・二代将軍・源頼家、三代将軍・源実朝も政子の実子である。
政子は、頼朝が落馬事故で死んだ後、初代執権になった北条義時の姉だった。
現在では「乳母」というと、生母ではないものの、赤ちゃんにおっぱいを与え、おしめの取り換えなどをする第2の母親(義母)だが、この当時は、乳母の夫や子供も一家を挙げて赤ちゃんに奉仕する役割を担っていた。
「鎌倉殿」はもちろん、鎌倉幕府を開いた源頼朝。頼朝亡き後、「鎌倉幕府の首長」の敬称として使われる。比企能員(よしかず)は、比企尼(ひきのあま)の養子だったので、頼朝の側近中の側近だった。
平家との争いで源義朝が敗れた平治の乱(1159年)の後、13歳だった長男・頼朝が伊豆・蛭ヶ島へ流されると、比企尼は比企能員(ひきよしかず)とともに武蔵国比企郡を請所(うけじょ=)として移り住んだ。1180年、33歳になった頼朝が平家討伐の旗揚げするまでの約20年間、政子らは食料から身の回りのものまで物心両面で一切の面倒を見た。
「比企尼がいなかったら、頼朝いや鎌倉幕府は成立しなかった」と言われるほどで、頼朝はその恩を決して忘れなかった。
比企能員は、平家打倒、奥州征伐(義経)の武功に加え、私的な面でも、娘の若狭局は頼家に嫁し、一幡(いちまん)を産むなど二代将軍の外戚として権勢を握っていた。
ところが、1199年頼朝が落馬事故で死去、頼家が二代将軍になると、比企能員と時政間の権力争いが起こり、北条義時は、病弱の頼家補佐のため「13人の合議制」を設け、比企義員もメンバーの一人になった。
1203年、比企能員は若狭局を通じて、時政を討つよう訴えた。これを政子が障子の影から立ち聞き、時政に知らせた。
何も知らない、能員は非武装で時政邸に出かけ、切られて死んだ。比企一族も滅んだ。(比企能員の変)。
この時点で、時政や政子は共謀していたかどうかは、史書を読んでもよく分からない。
史書とは、勝者が書くものだから、日本でも中国でもそれは同じである。
これで時政は、ライバルを処理し、「初代執権」となり、明治維新まで続く武家政治を確立した。
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