上御霊社
御霊社記
君が代を
守らん
とてや
九重に
ちかく
八所
宮ゐしむらん
髙清
上御霊社
上御霊社は平安城鞍馬口通の南にあり。祭る神は(早良親王 伊予親王 藤原夫人 文大夫
橘逸勢 藤原広嗣 吉備大臣 火雷神)
等の八所御霊なり。朱雀院の御宇天慶二年に鎮め奉る。いにしへ此地は上出雲寺
なり。故に出雲路の御霊ともいふ。例祭は八月十八日(中御霊は京極通蘆山寺の南にあり。
當社の御旅所なり)
○早良親王は光仁帝第二の皇子なり。延暦四年九月朝廷を傾奉らんと
議をめぐらしける。其聞へありければ淡路國に左迁し同國高瀬に至り氣絶
て薨じ給ふ。怨霊崇をなしければ同十九年七月に崇道天皇の追號を宣下し
給ふなり。(紀伊郡藤森神社と
同神なり) ○伊豫親王は桓武天皇の御子なり。平城帝の御時
逆心あらはれしかば川原寺におゐて飲食を通ぜず終給へり。○藤原夫人は崇道天皇の
后吉子と號す。伊豫親王の御母なり。○文屋宮田九は承和十年十二月に謀叛の企によつ
て伊豆國に配流し卒し給へり。○橘逸勢は右中辨弁従四位下入居の子也。嵯峨帝の御時の
能書にして本朝三筆の其一人なり。仁明帝の御宇承和元年七月に謀叛の事あり
てこれも伊豆國に流罪せられ九月に死し給へり。○橘廣嗣は藤原宇合の㐧一子也。
大宰府において叛逆ありしかは大野東人宣旨を蒙り馳せ向ひて戦ひけり。廣嗣敗北し
て自ら刀を以て首を落す。其頸忽天に昇り、空中にして赤鏡となる。見る人こと/"\
く即死す。豊後國鏡宮肥前國板櫃明神等此霊をまつれり。○吉備大
臣は右大臣正二位也。本朝無雙の才人。元正天皇の遣唐使也。唐土にして野馬䑓
の文を讀まんとするに文議暁しがたし。時に我朝初瀬の観世音を心中に念ぜり。
其時蜘蛛くだりて糸を引て教ければ容易よめりとかや。天平五年に帰朝し光
仁帝寶亀六年薨じ給へり。年八十二歳。○火雷神は北野天滿天神なり。
観音堂の本尊は聖德太子の作にして聖観世音也。是則ち出雲寺の本尊といふ。
六歌仙絵馬