廣幡大納言豊忠卿
山市晴嵐
まつたかき里より
うへのみねはれて
嵐にしづむ
山もとの雲
瀟湘八景為相歌 山市晴嵐
松高き里より上の峰晴れて嵐に静む山元の雲
広幡豊忠
(寛文六年(1666年) - 元文二年八月(1737年))
江戸時代前期から中期の公卿。主に霊元天皇・東山天皇・中御門天皇の三朝にわたり仕え、官位は従一位内大臣まで昇った。父は久我通名、母は西園寺公満の娘。養父は広幡忠幸。
寛文九年に久我家から広幡家に養子入りした。寛文十年に叙爵し、以降清華家の当主として速いスピードで昇進し、左近衛少将や左近衛中将を経て、天和三年には霊元天皇中宮鷹司房子の中宮権亮に任命されるとともに従三位となり、公卿に列する。さらにその後権中納言・踏歌節会外弁をへて、元禄五年(1692年)に権大納言に就任。宝永元年(1704年)に辞するまでの12年にわたって務めあげた。その後の宝永七年(1710年)にももう一度権大納言に任ぜられ、享保五年(1720年)までの10年にわたって務めた。この間には右近衛大将、右馬寮御監にも任じられる。享保八年(1723年)二月内大臣に就任したが、同月に辞職。享保十一年(1726年)に従一位に叙された。
平成29年9月17日 壱/2枚