江戸時代の京都の大火と言えば、宝永と天明、元治に起こったものが京都三大大火として有名である。
そのうち、宝永と天明の大火は、御所にも延焼し、皇族、公家が鴨川対岸の下鴨神社、上賀茂神社、聖護院などに急遽行幸する事となった。
元治は、長州藩と会津・桑名藩の戦闘が蛤御門で始まったので、禁門の変とも呼ばれるが、御所には戦渦が及ばなかった。
御所や公家屋敷が丸焼けとなる二つの大火の中で、実は不思議と焼け残った公家屋敷が有る。
花山院第(東小一条第)である。この御殿にはこんな話が伝わっている。
後の摂政関白太政大臣藤原基経が未だ下臈であった頃、参内の途中、童が群れて、一匹の狐を捕らえて杖で叩いていたのを見つけた。
車を停めて、この狐を童どもから貰い請け、車に乗せて綱を解き、優しく撫でて、
「お前ら狐は、多くの獣の中でも霊力が有ると聞く。その命を救ったのだからこの恩を忘れるなよ」と言って逃がしてやった。
その後、基経の夢の中に老人の姿となった狐が現れ、
「我棲みかを提供すれば、子々孫々まで火災から守るであろう。」
と告げた。
基経は、
「別の所に住まわす事は出来ないが、宗像神の眷属に為すなら良かろう。」と答えると歓んで帰って行った。
そこで基経は、御殿内の宗像神を祭る社の横に祠を造り、宗像神の眷属として狐を祀った。
これは源師房の日記、土右記の延久元年(1069年)に藤原師成から聞いた話として記録されている。
その後、小一条第は花山天皇の御所となり、その跡地を藤原師実から子の家忠が貰い受け、花山院家として代々守って来た。
流石に人災である応仁の乱では戦渦の為に焼失したが、二つの大火では狐霊により焼亡を免れたと言う事である。
花山院家は、中納言留まりの家柄だったが、後に太政大臣や左大臣を輩出し、支流として中山家・今城家・五辻家・烏丸家・鷹司家・野宮家の各家が興り栄え、清華家としての家格で明治を迎えた。
東京奠都によって宗像神社は、京都御苑内鎮座として、火災が無かった証拠として樹齢600の楠と共に祀られている。
土右記 延久元年五月
十八日癸未快晴。午時許春宮權大夫(良基)來語。…
相次前大貳師成卿來。
(前大貳師成卿語小一條□□□□)
左府被參東北院。參御□□□□之後入來者、言談良久。其中云、…
(昭宣公被乞免狐子細事)
彼社北七八許丈、有丘驚人、傳云、昭宣公下臈時參内之、有群童、捕一狐以杖木打之、於是留車乞請彼狐。乗車後、解綱摩毛、諸獣之中汝有靈者也。救其命了汝必□□□□也。參内、入待賢門間、候(マヽ)從者令放幽閉□□□□□夢中亭父來云、種類繁多、頗無術力、盡□□□給一住不殊火災、相公答云、不可給別住所。可爲宗像眷屬也者。歎悦退歸。其後築此丘給之云々。
※藤原 基経(承和3年(836年)-寛平3年(891年)
別名は堀川大臣、堀河大臣、昭宣公、越前公。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、贈正一位。
摂政であった叔父・藤原良房の養子となり、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立てた。次の宇多天皇のとき阿衡事件(阿衡の紛議)を起こして、その権勢を世に知らしめた。天皇から大政を委ねられ、日本史上初の関白に就任した。
※源 師房(寛弘5年(1008年) - 承保4年(1077年))は、平安時代中期の公卿・歌人。村上源氏中院流の祖。村上天皇の皇子具平親王の子。従一位・右大臣。土御門右大臣と号した。幼名は万寿宮。
はじめ資定王と称すが、父具平親王を早くに亡くし、姉の夫である藤原頼通の猶子となった。
藤原道長の五女を妻に娶って藤原氏と密接な関係を築き、右大臣まで出世した。
※藤原師成(ふじわら の もろなり)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家小一条流、権中納言・藤原通任の長男。官位は正二位・参議。
なお、宗像神社によると御殿を火災から守っているのは繁栄稲荷社ではなく、倉稲魂神を祀る花山稲荷社であるとしている。
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