醍醐随筆による方丈の庵
(1)醍醐随筆
江戸時代初期に、醍醐に庵を結んだの医師中山三柳が寛文十年(1670年)に日野の方丈の庵跡を尋ねた醍醐随筆が残っている。これによると
① 起点となるのは、「すこし引わけて法界寺といふ薬師堂、むかしはいみじくや有けん」と法界寺となる。
② 法界寺からは、「間をつたひ草をわけて上る事三町ばかり、足もとたど/\しく汗かきてこうじにたれど、こゝなん其あとよといへば」とあり、3町(327m)ばかり山道を登った場所に方丈の庵がある。
③ その庵跡には、「山の腰のかけたる所より二丈ばかりなる、岩のさし出て」と約6mの岩があった。
④ 方丈の庵跡からは、「西の方はれやかに伏見淀などの川のおもて、舟の行かふも見ゆれば」とあり、伏見や淀の川が見えて、舟の運行も見えたとある。
⑤ しかし、「下は谷なれば目もあやうくて心やすからず。」、「東の山をろしはげしくて下の谷へ吹をとしてん。かりのやどとはいへど心やすからずば、住がひ有まじ。」と伝承された方丈の庵跡に否定的な見解を述べている。
醍醐随筆
中山三柳
日野のとやまに、鴨長明が方丈を作れる遺跡と聞て、ゆかしく思ふまゝ我庵より道の程遠からねば、かちよりたづね侍りけるに、かの里さすがいなかびて作りつゞけぬる家居もなく、こゝの藪かげかしこの草むらに、わらやのちいさき二ツ三ツ見ゆるあり。さながらかまどの煙もたえ/"\なる、あはれとおぼゆる。すこし引わけて法界寺といふ薬師堂、むかしはいみじくや有けん、きはめてふりにたれば、くづれなん侍るほどなる。東の方へほそ道あり。岩間をつたひ草をわけて上る事三町ばかり、足もとたど/\しく汗かきてこうじにたれど、こゝなん其あとよといへば、かひ/"\敷見めぐりけるに、山の腰のかけたる所より二丈ばかりなる、岩のさし出て西の方はれやかに伏見淀などの川のおもて、舟の行かふも見ゆればおもしろけれど、下は谷なれば目もあやうくて心やすからず。薪は山なればともしからじ。水はほそき溝川のたえ/"\なる二三人はやしなふべし。されどかの取をき自在に作りなしたる方丈のしつを此岩上にをきたらんは、東の山をろしはげしくて下の谷へ吹をとしてん。かりのやどとはいへど心やすからずば、住がひ有まじ。世うつり時かはりてれいこく変遷するにや。むかしはかくはあらじとおもふ。
寛文十年(1670年)
資料
史料京都見聞記第四巻 見聞雑記Ⅰ
駒俊郎他 編集 宝蔵館発行
参考
1町=109m
1丈=3.03m
(2)醍醐随筆による方丈の庵跡の推計
①にある法界寺は、現在も同じ場所にある。しかし、法界寺から現在の方丈石までは800mと醍醐随筆の約327と距離的に合わない。
図1 法界寺横にある方丈石の道標
江戸時代初期に伝承された方丈の庵跡は、もっと手前に無いといけない。しかし、手前になると標高が低くなり、前にある御蔵山が視界をじゃまするために、伏見や淀の川面が見えなくなる。
そこで、国土地理院の地図を使い、その距離と標高からの視界について調べてみると、図2の通りとなる。
図2 方丈庵と伏見淀川の眺望
御蔵山には現在は御蔵小学校があり、山を削って校舎を建てており、当時は今の標高より若干高いが、それでも日野の標高100m以上は淀、伏見は十分眺望できる。
図3 日野の標高100m付近
実際、伏見の観月橋から日野を見ても住居のある部分は十分見ることができ、それほど山を登らないと見えないわけでもない。
図4 観月橋、淀競馬場からの日野山
そのため、江戸時代初期に伝承された場所は、他にあったと推察しても可笑しくない。
そこで、伝承された方丈の庵跡として候補に挙がるのが、① 方丈石の途中にある日野船尾の京都市日野野外観察施設、② となりの山、③ 天道大日如来あたりと推定される。
現在は、それらは私有地などで近づくことができず、木々に邪魔され眺望が望めず、③の大岩があるのかが確認は出来てはいない。