山家集、聞書集、残集、補遺の桜の歌について、何処で詠んだのか調べてみると(岩波文庫)
吉野 48
京都
・白河 5
・清和院の斎宮 2
・菩提院の前斎院 1
・法勝寺 1
・雲林寺 1
・大宮 1
・信西宅 1
志賀 2
法雲院(奈良) 1
黒髪山(奈良) 1
高野 3
八上王子(和歌山) 1
那智 3
伊勢 3
高石山(高師?愛知?) 1
白河関 1
束稲(平泉) 1
滝山(山形) 1
不明 158
うち山桜 16
場所が不明でも、山桜が多く、吉野の山桜を特に愛していた事がわかります。
八重桜が一首も無く、好きではなかったかも。
2月15日(1190年は16日)が、今のいつ頃かと調べてみると、当時は太陰太陽暦で、西暦もユリウス暦という事でグレゴリオ暦(+7 ※以前計算間違いしておりました)に換算してみました。
和暦 西暦 数歳 J暦 G暦 主な出来事
文治六年 1190 73 3/23 3/30 弘川寺で死去
文治五年 1189 72 3/4 3/11 宮河歌合
文治四年 1188 71 3/15 3/22 千載集奏上
文治三年 1187 70 3/26 4/2 御裳濯河歌合
文治二年 1186 69 3/8 3/15 二見浦百首勧進、陸奥旅
元暦二年 1185 68 3/18 3/25 檀之浦平家滅亡
寿永三年 1184 67 3/28 4/4 宇治川戦、義仲戦死
寿永二年 1183 66 3/10 3/17 千載集下命
養和二年 1182 65 3/21 3/28
治承五年 1181 64 3/2 3/9 清盛没
治承四年 1180 63 3/12 3/19 二見浦。頼政戦死
治承三年 1179 62 3/24 3/31 法王幽閉
治承二年 1178 61 3/6 3/13
安元三年 1177 60 3/16 3/23
安元二年 1176 59 3/27 4/3
承安五年 1175 58 3/9 3/16
承安四年 1174 57 3/19 3/26 法王厳島御幸
承安三年 1173 56 3/30 4/6
承安二年 1172 55 3/11 3/18 和田万燈会
嘉応三年 1171 54 3/23 3/30 住吉参詣
嘉応二年 1170 53 3/4 3/11
仁安四年 1169 52 3/15 3/22
仁安三年 1168 51 3/26 4/2 善通寺居
仁安二年 1167 50 3/8 3/15 四国行脚
3月9日~4月6日となります。
桜と一口に言っても様々な品種があり、開花時期が違います。よく気象庁が開花情報を発表するのは、ソメイヨシノで、江戸末期に旧染井村(山手線駒込駅と巣鴨駅の間付近)で育成され、花が散った後に葉が出るので、全国に広まったとの事。東京では四月上旬に満開となるそうです。
その他の桜を、東京を中心としてみてみると、
最も早く咲くのは寒桜で、寒緋桜と大島桜の雑種といわれ、早い年で一月下旬で開花。平年でも二月下旬開花で三月下旬に満開となるそうです。
唐実桜は、明治初年に中国から渡来した品種で、三月中旬に咲き始める。その他下旬には、椿寒桜、河津桜、大寒桜、修善寺寒桜、そして名正寺桜、東海桜等。
ソメイヨシノの後の4月下旬は八重桜で、早晩山、関山、御衣黄、普賢象、福禄寿、終りに頃には梅護寺数珠掛桜、名島桜、菊桜、突羽根、鬼無稚児桜、兼六園菊桜の菊桜系。
5月上旬は、奈良八重桜で、霞桜が八重化したものと言われます。
その後の10日前後が、深山桜となります。
さて、西行はこの「願はくは」の歌は何処で何時詠んだのか推計してみたいと思います。
(1) 吉野
西行は前述した様に吉野の桜をこよなく愛していました。開花情報で桜の見頃を見てみると、品種はシロヤマザクラで下千本で4月上~中旬。上千本で中~下旬。ましてや「去年のしをりを変へて」分け入った標高800mの西行庵跡辺りでは遅れます。旧二月十五日には満開の桜を見ることが出来ません。
桜も年により開花時期がずれる事がありますので、4月10日以降の年をあげると、仁平四年(1153年)、長寛三年(1165年)、承安三年(1173年 熊野にいた可能性が大きい)位が満開の桜を見る可能性があります。涅槃会の法要の為に下の金峯山寺にでも出掛けた時、桜の開花が少し遅れていたなら吉野でもおかしくありません。
(2) 高野山
西行の宗教活動の中心で最も長く居住を構えた所です。しかし前述の吉野より高い標高950m付近では、桜の開花が遅く、旧二月に満開になる事は無いと思います。
(3) 熊野
西行の熊野での歌をみると紅葉があったり、桜があったりしていますので、何度も訪れたか、暫く住んだ可能性があります。
例えば次の西行の歌の詞書に
寂蓮法師人々勸めて百首歌よませ侍りけるに否び侍りて熊野に詣でける道にて夢に何事も衰へ行けど此の道こそ世の末に變らぬ物はあれ猶この歌よむべきよし別當湛快三位入道俊成に申すと見侍りて驚きながらこの歌を急ぎ詠み出して遣はしける奧に書きつけて侍りける
末の世もこの情のみ變らずと見し夢なくばよそに聞かまし
寂蓮が出家している(1170年頃)、堪快が熊野の別当をしている(1173年)、俊成出家前(1176年)とのことから承安年間に訪れていることが推測されます。
熊野は、暖かく三月下旬頃には満開となります。
この歌を熊野で詠んだとすれば、承安三年が3月30日なので、その頃の可能性となります。
(4) 二見浦、二度目の奥州旅、弘川寺
西行は晩年、伊勢の二見浦から平泉への勧進の旅に出掛け、最後は弘川寺で亡くなりましたが、この「願はくは」の歌は、俊成が千載集の歌を集めていたので西行が高野から送った歌の中に含まれていますので、可能性はありません。(長秋詠藻)
弘川寺の辞世の歌と思われていますが全く違います。
西行が亡くなった日は新暦3月30日なので咲き始めかになります。見頃は十日頃とあります。
(5) 讃岐
西行は仁安三年頃(1168年)崇徳院の陵と空海のゆかりの地の香川を訪れ、善通寺に草庵を結んで暫く住んだとされます。
仁安三年(1168)が4月2日、仁安四年が3月22日ならと思います。
岡山の児島の歌には二度四国を訪れたとありますが、初度がいつ頃かは不明です。
(6) 京都
西行は、出家直後京都の洛外に住み、高野山時代も度々京都を訪れた事が知られております。
山家集類題(岩波文庫)には、「花の歌あまたよみけるにの」の中の順番は、吉野、白川ときてこの「願はくは」、次が「仏には」、そして又吉野が出て来ます。山家集の桜歌の順番が作成順と考えればは、20番目のこの歌が、晩年ではなく比較的若い頃の歌と考えるのが素直かと。そして、吉野や熊野の標高の高い所ではなく、京都の寺で涅槃会の夜、満開の桜の中で朧に霞んだ満月のこの世の美しさに、心の奥底から湧き出てきた歌と思います。
今日は2月16日で普通命日は新暦で行いますが、西行忌はこの歌により、旧暦の二月十五日になっています。
最後に西行の好きな桜の歌を一首
風さそふ花の行方は知らねども惜しむ心は身にとまりけり
『桜が創った「日本」』を読むと、現代の桜のイメージはソメイヨシノが作ったもので明治以前は違っていたとの事です。勿論その事は承知していたのですが、吉野のヤマザクラ以外では開花時期は全てソメイヨシノの情報しかなく、これを地域の開花の標準と考えました。
八王子の高尾の多摩森林科学園には約250種類の桜を移植したサクラ保存林があり、そのパンフレットによると花の見頃は(「サクラ保存林での調査結果によります」と注があります)
ヤマザクラ群
ヤマザクラ(山桜)4月上旬
オオヤマザクラ(大山桜)4月上旬~中旬 オオシマザクラ(大島桜)4月上旬~中旬
カスミザクラ(霞桜)4月中旬
エドヒガン群
エドヒガン(江戸彼岸)4月上旬
マメザクラ群
マメザクラ(豆桜)4月上旬
カンヒザクラ群
カンヒザクラ4月上旬~中旬
里桜(栽培品種)
ソメイヨシノ(染井吉野)4月上旬
ナラノヤエザク(奈良八重桜)4月下旬
とあります。
野性種は個体間格差が大きく、パラパラと長く鑑賞出来たそうで、また今の品種が千年前も同じ形質だったかどうかは不明です。
これを考慮に入れても西行の桜と満月の歌は京都の可能性が大きいと言えます。
又、桜が創った「日本」には西行がみちのくの平泉で歌った
聞きもせず束稲山の桜花吉野の外にかかるべしとは
は「いくつか候補は考えられるが一番有力なのはカスミザクラ」と
山形市での歌
又の年の三月に出羽の国に越えてたきの山と申す山寺に侍りけるに、桜の常よりも薄紅の色こき花にてなみたてりけるを寺の人々も見興じければ
たぐひなき思ひいではの桜かな薄紅の花のにほひは
「色と場所からみて、これはオオヤマザクラだろう」と書いてありました。
参考
こよみのページ
ものと人間の文化史 桜Ⅰ 有岡利幸 法政大学出版局
吉野町 桜情報
OCNトラベル桜開花情報
参考文献
独立行政法人森林総合研究所多摩森林科学園「四季を楽しむ…多摩森林科学園 見学のしおり」
『桜が創った「日本」』佐藤俊樹著岩波新書
番外
ネットで「願はくは」の歌を調べていると、「願わくば」、「願わくは」の用例が見られます。
「ば」なのか「は」なのかはたいした違いは無いし、「わ」も「は」も音は同じですからこの西行の歌の意を感じてHPに記していると思いますので、目くじらを立てる事は無いと思います。
google検索は、その出現度(誤記率とも云う人もいますが)を数値にしてくれます。
願わくば 5,475 17%
願はくば 957 3%
願わくは 2,568 8%
願はくは 23,590 72%
となります。(+花の+西行 の絞込み検索)
調子に乗って「した」と「もと」の支持率は
した 6,310 79%
もと 1,360 17%
下 291 4%
となりました。(+春死+西行 絞込み検索)
源氏にも花見の記述があり、「花宴」帖は俊成が絶賛したのですが、それには「如月の二十日あまり南殿の桜の宴させたまふ」とあります。
宮中の行事ですから、かなり前から準備が必要で、いつ頃咲くのか専門家を呼んで検討がなされたのでは?と思います。暦は月齢に寄るので毎年ずれますし、陰陽師に吉凶を占わせ、今の桜開花予想にも似た扱いがあったかと。蕾のままや散った後だったら担当者は左遷されたでしょうね。
紫式部は丹後から京に上り、滋賀とかで出筆したとの事。この桜宴の時期で何時頃書かれたのか、花見の特定が出来るかも知れませんね。