備中のかみもろもりは
一のたにをのが 備中守師盛
れにふねにおはし
たるときとしま
九郎さねはると
名のつてもろもり
のうねへのりうつりしが
ふみかへし 伊勢三郎義盛
てかい中に
おちける
をいせ
の三郎
は熊手
にてさ
がしもろ
もりを引
あげくびを
うちける。
平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の五男、ただし『平家物語』では末子とある。母は重盛の正室の藤原経子。
寿永3年(1184年)、播磨国三草山にて、兄弟の資盛、有盛、忠房とともに源義経軍を迎撃するも、夜襲を受けて敗れる(三草山の戦い)。師盛以外の兄弟三人は西国に向かって落ち延びたのに対し、師盛は一人南方の一ノ谷の平家本陣に合流した。続く一ノ谷の戦いにおいて、安田義定の手勢と大輪田泊にて戦い討ち死にした。
『平家物語』「落足」によれば、主従7人で小船に乗り沖合いに逃れようとしたところを、清衛門公長という平知盛の侍が乗せてほしいと駆け付けて来たので、船を渚に漕ぎ寄せたところ、大の男が鎧のまま馬から飛び乗ったために船が転覆してしまい、海に投げ出された師盛は畠山重忠の郎党に熊手で引き上げられて討たれたという。「流布本」では生年14歳とされるが、「延慶本」では年齢を記さず、「四部合戦状本」(巻第九)では享年16とする。『源平盛衰記』では「生年十八歳にそなり給」で18歳とあり、年齢は各文献によってバラバラではっきりしていない。
平安時代末期の武士で源義経の郎党。『吾妻鏡』では能盛と表記されている。源義経・四天王のひとり。伊勢三郎の名でも知られる。出身は伊勢或は上野国といわれる。
『平家物語』では伊勢鈴鹿山の山賊、『平治物語』では上野国で義経が宿泊した宿の息子としている。『源平盛衰記』では伊勢出身で伯母婿を殺害して投獄され、赦免されて上野国で義経と出会い「一の郎党」となったという。義経が鞍馬山を出て平泉へ向かう途中でその家来となったとされるが、いずれも物語中での話であり実際の出自は不明。
『愚管抄』では粟津の戦いで木曾義仲を討ち取ったのは義盛としている(『吾妻鏡』『平家物語』では義仲を討ち取ったのは石田為久としている)。
『吾妻鏡』によると、元暦二年(1185年)三月二十四日壇ノ浦の戦いで、平家の総大将平宗盛と息子の清宗を捕らえている。四月二十六日平家の捕虜を京都に護送する際、宗盛らが乗る牛車の前に有力御家人である土肥実平が、後に義盛が付いている。
文治元年(1185年)十一月三日、義経と頼朝が対立し、義経が都を落ちる際にも同行する。九州へ向かう船が暴風雨により難破し一行が離散した後、義盛は単独で潜伏するが、伊勢・伊賀の守護である山内首藤経俊を襲撃するも敗れて鈴鹿山へ逃亡、文治二年(1186年)七月二十五日 鎌倉方に発見され斬首、梟首された(『玉葉』)。