源氏物語 賢木
「こなたは、簀子ばかりの許されは侍りや」とて、上りゐ給へり。はなやかに差し出たる夕月夜に、うちうるまひ給へる樣、匂ひ、似る物なくめでたし。月ごろのつもりをつきづきしう聞こえ給はんも、眩きほどに成りにければ、さか木を、いささか折りて、持給へりけるを、差し入れて変はらぬ色をしるべにてこそ。斎垣をも越え侍りにけれ。さも心憂くと聞こえ給へば
神垣はしるしの杉もなきものをいかにまがへて折れる榊ぞ
と聞え給へば
少女子があたりと思へば榊葉の香を懐かしみとめてこそ折れ
おほかたの気配、煩はしけれど、御簾ばかりは引き着て、なげしに押し掛りてゐ給へり。
源大将野宮を訪ね、変らぬ色をしるべに
てこそ、斎垣も越えはべりにけれと榊葉
を差し入れ給ふとて
六条御息所
神垣はしるしの杉もなきものをいかにまがへて折れる榊ぞ
よみ:かみがきはしるしのすぎもなきものをいかにまがへてをれるさかきぞ
意味:この野宮の神垣には、目印の杉も無いのに、どうやってこの折った榊を持ってやって来れたのでしょう
備考:本歌 我が庵はみわの山もと恋しくはとぶらひきませ杉たてるかど(古今集 雑歌下 よみ人知らず)
返し
源氏
少女子があたりと思へば榊葉の香を懐かしみとめてこそ折れ
よみ:をとめこがあたりとおもへばさかきばのかをなつかしみとめてこそをれ
意味:伊勢神宮に仕える少女がいるあたりと思い、榊葉の香りを懐かしみながら目指して、折ってやってきたのですよ。
備考:本歌
さか木葉の香をかぐはしみとめくれはや八十氏人ぞまとゐせりけ(拾遺集 神楽歌)
少女子が袖振る山の瑞垣の久しき世より思ひ染めてき(拾遺集、雑恋歌 柿本人麿)
置く霜に色も変らぬ榊葉の薫るや人のとめてきつらむ(貫之集)
榊葉の春さす枝のあまたあればとがむる神もあらじとぞ思ふ(拾遺集恋歌一 読人しらず)
引歌
※かはらぬ色を 後撰集 冬歌
ちはやぶる神がき山のさか木葉は時雨に色も変はらざりけり
※斎垣も越え侍りに 拾遺集 恋歌四 柿本人麻呂
ちはやぶる神のいがきも越えぬべし今はわか身の惜しげくもなし
六条御息所
源氏 御
榊葉 簾
簀子
野宮鳥居
牛車
(正保三年(1647年) - 宝永七年(1710年))
江戸時代初期から中期にかけて活躍した土佐派の絵師。官位は従五位下・形部権大輔。
土佐派を再興した土佐光起の長男として京都に生まれる。幼名は藤満丸。父から絵の手ほどきを受ける。延宝九年(1681年)に跡を継いで絵所預となり、正六位下・左近将監に叙任される。禁裏への御月扇の調進が三代に渡って途絶していたが、元禄五年(1692年)東山天皇の代に復活し毎月宮中へ扇を献ずるなど、内裏と仙洞御所の絵事御用を務めた。元禄九年(1696年)五月に従五位下、翌月に形部権大輔に叙任された後、息子・土佐光祐(光高)に絵所預を譲り、出家して常山と号したという。弟に、同じく土佐派の土佐光親がいる。
画風は父・光起に似ており、光起の作り上げた土佐派様式を形式的に整理を進めている。『古画備考』では「光起と甲乙なき程」と評された。
28cm×44.5cm
令和5年10月29日 七點七伍/肆