め/"\とないてしばしは御返事にもおよばず。やゝ有て涙
をゝさへて、申に付てはゞかりおぼえさぶらへ共、故少納言
入道、しんぜいがむすめ、あはのないしと、申ものにてさぶら
ふなり。母はきいの二位。さしも御いとをしみ、ふかうこそさ
ぶらひしに御らんじわすれさせ給ふに付ても、身のおと
ろへゐる程、思ひしられて、今さらせんかたなうこそさぶら
へとて、袖をかほにをしあてゝ、忍びあへぬさまめもあてられ
ず。法皇げにも汝は、あはのないしにてある。こさんなれ。
御らんじわすれさせ給ふぞかし。何事に付ても、只夢
とのみこそ思し召とて、御なみだせきあへさせ給はねば、御
ぐぶの公卿殿上人も、ふしぎの事申あまかなと、思ひた
れば、ことはりにて申けりとぞ。をの/\かんじあはれける。
さてかなたこなたをゑいらん有に、庭のちぐさ露おもく、
まがきにたをれかゝりつゝ、そともの小田も水たへて、しぎた
つひまも見えわかず。さて女ゐんの御あんじつへ入ら給ひて
しまし障子を引き開けて叡覧有るに、一間にはらいかう
の三そんおはします中ぞんの御手には、五しきのいとを
かけらえたり。ひだりにふげんのゑぞう、みぎにぜんだう
くはしやう、ならびにせんていの御ゑいをかけ、八ぢくの抄
もん、九でうの御書もをかれたり。らんじやうのにほひに引
かへて、かうのけぶりぞ立のぼる。かのじやうめうこじの方
でうのしつのうちに、三万二千のゆかをならべ、十方の諸
仏をしやうじ給ひけんも、かくやとぞ覚えける。しやうじ
には、諸きやうのようもん共しきしにかいて、所/"\に
をされたり。その中に大江のさだもとほつしが、せいりや
うせんにしてゑいじたりけん。せいがはるかに聞やこうん
のうへ、しやうじや來迎すらく日の前共かゝれたり。
すこし引のけて、女院の御哥とおぼしくて
思ひきやみ山の奥に住ゐして雲居の月をよ所に見んとは
扨かたはらをゑいらん有に、御しん所と思しくて、竹の御さ
平家物語巻第十二 平家物語灌頂巻
十 小原御幸
十 小原御幸
めざめと泣いて、暫しは御返事にも及ばず。やや有て涙を抑へて、
「申すに付けて憚り覚え候へども、故少納言入道、信西が娘、阿波の内侍と、申す者にて候ふなり。母は紀伊の二位。さしも御愛おしみ、深うこそ候ひしに、御覧じ忘れさせ給ふに付きても、身の衰へゐる程、思ひ知られて、今更詮方なうこそ候へとて、袖を顏にを押し当てて、忍びあへぬ樣目も当てられず。法皇、
「実にも汝は、阿波の内侍にてある。古参なれ。御覧じ忘れさせ給ふぞかし。何事に付ても、只夢とのみこそ思し召す」とて、御涙あへさせ給はねば、御供奉の公卿殿上人も、不思議の事申しし尼かなと、思ひたれば、理にて申しけりとぞ。各々感じ合はれける。
さて、彼方此方を叡覧有るに、庭の千種露重く、真垣に倒れ懸かりつつ、外面の小田も水絶へて、鴫立つ隙も見え分かず。さて女院の御庵室へ入らせ給ひて、しまし障子を引き上げて、叡覧有るに、一間には來迎の三尊御座します。中尊の御手には、五色の糸を懸けらえたり。左に普賢の絵像、右に善導和尚、並びに先帝の御影を懸け、八軸の抄文、九帖の御書も置かれたり。蘭麝(らんじやう)の匂ひに引き替へて、香の煙ぞ立ち昇る。彼の浄名居士の方丈の室の内に、三万二千の床を並べ、十方の諸仏請じ給ひけんも、かくやとぞ覚えける。障子には、諸経の要文ども色紙に書いて、所々にをされたり。その中に大江の定基法師が、清涼山(せいりやうせん)して詠じたりけん。笙歌(せいが)遥かに聞や孤雲の上、聖衆來迎す落日の前ども書かれたり。少し引き除けて、女院の御歌とおぼしくて
さて、彼方此方を叡覧有るに、庭の千種露重く、真垣に倒れ懸かりつつ、外面の小田も水絶へて、鴫立つ隙も見え分かず。さて女院の御庵室へ入らせ給ひて、しまし障子を引き上げて、叡覧有るに、一間には來迎の三尊御座します。中尊の御手には、五色の糸を懸けらえたり。左に普賢の絵像、右に善導和尚、並びに先帝の御影を懸け、八軸の抄文、九帖の御書も置かれたり。蘭麝(らんじやう)の匂ひに引き替へて、香の煙ぞ立ち昇る。彼の浄名居士の方丈の室の内に、三万二千の床を並べ、十方の諸仏請じ給ひけんも、かくやとぞ覚えける。障子には、諸経の要文ども色紙に書いて、所々にをされたり。その中に大江の定基法師が、清涼山(せいりやうせん)して詠じたりけん。笙歌(せいが)遥かに聞や孤雲の上、聖衆來迎す落日の前ども書かれたり。少し引き除けて、女院の御歌とおぼしくて
思ひきやみ山の奥に住ゐして雲ヰの月を余所に見んとは
さて、傍らを叡覧有るに、御寝所と思しくて、竹の御棹
※庭の千種~
今様と思われる。
庭の千種の露重く、
真垣に倒れ懸かりつつ、
外面の小田も水絶へて、
鴫立つ隙も見え分かず
※大江の定基法師
寂照(応和二年(962年)頃? - 景祐元年(1034年)) 平安時代中期の天台宗の入宋僧・文人。参議大江斉光の子。俗名は大江定基。寂昭・入空・三河入道・三河聖・円通大師とも称される。三河守として赴任する際、元の妻と離縁し、別の女性を任国に連れて行ったが、任国でこの女性が亡くなったことから、永延二年(988年)、寂心(出家後の慶滋保胤)のもとで出家し、叡山三千坊の一つ如意輪寺に住んだ。その後横川で源信に天台教学を、仁海に密教を学んだ。
※笙歌(せいが)遥かに聞や孤雲の上、聖衆來迎す落日の前
笙歌遥聞孤雲上 聖衆來迎落日前
上記発心集参照
※思ひきやみ山の奥に住ゐして~
本歌として以下の歌があるが、建礼門院の祖父平忠盛の歌から創作したのでは?と思われる。
金葉集二度本 雑部上
殿上申しけることせざりければよめる
平忠盛朝臣
思ひきや雲居の月をよそに見て心の闇に迷ふべしとは