小式部内侍 上東門院女房
御抄云、橘諸兄十一世孫。橘仲遠孫、和泉守道貞
子也。作者部類には、陸奥守云云。大二条関白教
通公のおもひ人にてありしよし。袋草紙、後拾遺
にあり。教通の弟、堀河の右府頼宗公かよひ給
しよし、後拾遺にみえたり。定家密勘云、小式部の
内侍、和泉式部が一子にて、かたちすがた世にす
ぐれて又幾野の道のとよみけんときのおぼえさこ
そ侍りけめ云云。
大江山幾野のみちのとをければまだふみもみずあまのはしだて
金葉雑上。和泉式部保昌にぐして、丹後の国に
侍りける比、都に哥合のありけるに、小式部内侍哥
よみにとられて侍けるを、中納言定頼、局のかた
にまうで来て、哥はいかゞせさせ給ふ。丹後へは人つ
かはしけんや。つかひはまうでこずや。いかにこゝろもと
なくおぼすらんなど、たはぶれて立けるを、引とゞめて
よめる云云。
御抄に云、和泉式部道貞にわすられて後、藤原保昌丹後守
になりて、くだるにぐして下れる也。哥よみにとられて
とは、哥合の人衆に入られたる也。哥はいかゞせ給ふとは御
抄云、是は小式部が哥のよきは、母の和泉式部によま
せて、わがうたにすると云事の沙汰侍りけるを、口おし
くおもひける比、定頼卿かくいへるとき讀哥也。此うたよま
ずは、かねてのうたがひもさればこそといはるべきを、かく
よめるによりて、人のうたがひもはらし、わが名誉もし
たる事は、ありがたき事にや。 此事古今著聞ニアリ
師説、大江山は丹波路のいり口也。鳥羽のうへにみゆる也。
新古今に√大江山かたぶく月のかげさして鳥羽田の面に
おつる厂がねと讀る是也。幾野は丹波の奥也。大江山
幾野とつゞくは丹波路のとほきをいはんとてなり。
皆丹後橋立への道也。また踏もみずとは、ゆきても
みぬとの心也。文の心もあり。詞書のつかひと云によれる
詞なり。師説、哥心は丹後へは人つかはしけんや。つかひ
はまうでこずやと云にこたへて、丹後は大江山
幾野を越て、とをき所なれば、まだつかひもこず、
文みる事もあらずといへる也。橋にふみ見る縁は有
事なり。√陸奥のおだえの橋やこれならんふみ見ふみ
見ず心まどはす √おそろしや木曽のがけぢの丸木橋
ふみ見るたびにおちぬべき哉など讀り。まだふみもみず
あまの橋立と云詞つゞきの優美當意即妙なるべし。