寿永三年(1184年)二月
一日庚申。天晴。穢気に依り春日祭延引す。然れども神斎例の如し。他人然らず。殿暦の説に就き為す所なり。
雅頼卿来たり世上の事を談ず。斎院次官親能は(前明法博士広季の子)、頼朝の近習者、又雅頼卿の門人なり。今度陣の行事となり上洛をなす。去る二十一日件の卿に謁せし次、親能云はく、若し天下を直さるべくば、右大臣(兼実)を知し食すべきなり。異議無しと云々。納言問ひて云はく、この条上奏に及ぶべきか如何。親能云はく、若し尋ねあらば、この旨を申すべき由の所存なりと云々。納言重ねて云はく、尋ね無くば、黙止すべきか。親能云はく、進み申すべき由は承らずと云々事の体頗るしどけなきに似たるか。件の男を責むる、不覚人なりと云々。
平安時代末期から鎌倉時代初期の下級貴族、鎌倉幕府の文官御家人。源頼朝の側近。正五位下、明法博士、斎院次官、美濃権守、式部大夫、式部大輔、掃部頭、穀倉院別当。鎌倉幕府 公文。