時流に乗るとは、この男のことを言うのかもしれない。源頼朝との主従関係を足掛かりに、北条義時など時の支配者と良好な関係を構築。その子孫は地方の守護職も含め、大きな勢力を築いた。その始祖となった二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)の人物像に迫る。
二階堂行政は、藤原南家・工藤氏の流れとされる。元来は「藤原」姓を名乗っていたが、狩野・工藤氏など東国在地領主の同族といわれ、父は工藤行遠(くどうゆきとお)といった。二階堂を名乗ったのは行政からであり、鎌倉・永福寺(2階建ての仏堂があったので、二階堂と呼ばれた)の周辺に邸宅を構えたことから二階堂を名乗るようになった。
ここから始まった「二階堂氏」は、ねずみ算式に一族を増やし繁栄していく。その末流までを見ると、先ず、行政が頼朝に仕えて勢力を伸ばし、さらに執権であった北条家に仕える形で、政所執事(財政管理所の監督官)としてその勢力をさらに伸張していった。一族から信濃守・隠岐守なども出ている。政所執事は、行政以来世襲するが、この政所執事が二階堂氏の惣領の地位とされている。
行政は、2代将軍・頼家の「合議機関13人」の1人である。行政の父・行遠が三河に住みながら尾張目代(国主代理)に任官しており遠江国司を殺害して尾張に流されたという。行政は、その時に尾張・熱田神宮大宮司・藤原季範(すえなり)の妹を母として生まれている。この大宮司藤原季範の娘が、頼朝の母であって、二階堂行政と頼朝の母親は従兄妹同士という間柄になる。
大宮司・藤原家は鳥羽法皇・後白河天皇などに仕えた公卿であったが、この時点では東海地方における有力武士団の一角でもあった。そうした関係で、頼朝の父・義朝も行政の父・行遠も藤原氏と縁組みをしている。
行政は、この大神宮家を媒介とする外戚関係から頼朝に加担し、登用された。武士ながら行政は、朝廷では主計允(かずえのじょう)・民部大夫に任官して実務に長けていた。頼朝にとっては、この行政のような実務能力の持ち主は重要であり、建久2年(1191)に政所執事を任命され、後に別当になっている。行政は、成立したばかりの鎌倉幕府の財政を掌握し、その役所(政所)の実質的な事務官・監督官として活動した。
行政の実務能力は優れていて、頼朝没後も政所は行政とその一族(子や孫たち)によって運営された。そのためもあって、御家人同士の内紛などにも巻き込まれることなく、無事に役目をこなし、行政1人に始まった二階堂氏は鎌倉政権の中枢に地位を占めながら、最終的に一族は50流以上(子孫たちが50家以上)に分流している。これは北条得宗家に劣らない繁栄ぶりである。
なお、武士としても文治5年(1189)奥州合戦では軍目付(いくさめつけ)として活躍している。
江宮 隆之