5年前、74歳で父は肺がんの手術を受けました。経過良好。数ヶ月ごとの検診を続け、あと1年~即ち丸5年経てば、その検診も年1度になる~という時、レントゲンに影らしきものが映っているとの報告がありました。去年の秋のことです。幸か不幸か、はっきり再発と言い切れる状態ではなく (自覚症状もなかったので)、経過観察をしているうち、いたずらに時が過ぎ、放射線治療という具体的な方針が決まる頃には、がん細胞は骨へ転移していました。
病院側の対応の結果だけによるとは限りません。父自身、今更この年で手術など・・・との意向があり、再発に気付きながら積極的な治療を見送ったとも考えられるので。5年前から、すべてを決定し、向き合ってきた人でした。そこには母も、一人娘である私も、立ち入る隙はなかったように思います。家族にだけは、心配をかけたくない。そんな父の心情を、受け入れることしかできなかった。
私は、父の手術にさえも立会いませんでした。開口一番「帰って来なくていいから」と言われ、そうしてそれは、父と母共通の想いでした。そんな言葉を真に受けるヤツがいるか!と、叱られるかもしれない。が、真正面から二人の想いを覆して手術に立ち会うよりは、いかにその隙を突いて側に行くかを考えていました。めんどくさいですよね。親子の間で、何故そんなに気を遣わなくてはいけないのか。ただ、両親は私自身と共に、様々な関係の中で生きている私の立場も、慮っていた気がするのです。
小さな頃から痩せっぽっちで、体が丈夫でなかった私は、よく学校を休んでいました。すぐに熱を出す、風邪を長引かせる・・・思春期に体質が変わるまで、そんな状態が続き、本と空想がお友達でした。さすがに社会人になって、夜遊びもできる程度の健康を手にしたものの、親の中では、いつまでも床に伏せっていた娘なんですね。また大人しくしてりゃあいいのに、本来の器を越えた所へ身を置きたがる性癖があったものですから。 大事モノにされるのが嫌だというか。一人っ子ってね、黙っていると、どんどん囲われていくんですよ。兄弟姉妹が多く、親の愛情を奪い合う環境から見れば、贅沢な悩みでしょうけど。
進学・就職・結婚、人生の転機には、自分のエリアから踏み出すという選択をしていました。 父が肺がんに侵されたのは結婚7年目。二人の幼子を抱え、異郷の地で奮闘中。容易く帰れる状況になかったのは確かです。帰ったところで即戦力にもなりませんしネ。 ただ、父や母の心の小さな灯火にでもなれば、とは考えていました。こちらの生活を乱すのは、本意ではないだろう。だから、できるだけ支障のないよう調整する、その隙間をぬって帰省する。これが、私の立てた計画でした。当時息子は年長、秋には幼稚園最後の行事がいくつか予定されており、両親には申し訳なかったけれど、そちらを優先させてもらいました。
その中の一つ、やきいも会には、こんな思い出があります。大人から見れば、たわいもない行事。 ですが、-自分たちが育てた野菜を収穫・調理して味わう-年に1度のその日に向けて、子どもたちはコツコツ準備をしていました。その集大成となる日が、帰省予定の間際だったのです。天候の都合で延期になれば、息子は参加することができません。当日は、今にも降り出しそうな曇り空。こりゃあ無理かなとあきらめていたら・・・「やりましょう」 園長先生の一声で、決行になりました。○○くんの笑顔が見たいとの想いから、決めてくださったそうです。 「おじいちゃん、楽しかったよ!」 息子は、そんな土産話をたずさえ見舞うことができました。
月日が流れ、娘が通い出す頃には、近隣の迷惑になる(煙の所為か)という趣旨で、この行事もなくなりました。今となっては、一層感慨深い出来事です。「頑張っておじいちゃんを応援してきてね。」あの時の先生たちの想い、園児の心へ寄り添ってくれていたんだと改めて感じます。ほんの数年の差であれ、トップや職員の方々、役員のお母さんたちの気風で、園の空気や方針も変わる。そういう意味では、いい時期に存在していたのかな。
手術の翌日に顔を出すと、父は不思議そうな面持ちで、私を見つめていました。入院先は自宅から少し離れていて、公共機関をいくつか乗り継がなければならない。年老いた母に「当分来なくていいから」と言い渡し、着替えを多めに持参しての入院でした。そこで数日間は、私一人で病室を訪れました。「来てくれたんかーありがとう。」先のことを口にすると遠慮する。明日も来るねって言えないんですよ。部屋を去るときは、いつも「じゃあね」。今度いつ来るかわからない空気を匂わせます。ホントは明日も行く気満々なんですが(笑)。そうして翌日病室に顔を出すと「おっ今日も来てくれたんかー」このテは3日程しか通じんわ。しゃーないな、1日休もう。愛人の元を訪れるオッサンか!その場合は、’先のことを口にすると期待する’でしょうけども。
1日休んで、子どもたちを連れて行くというカードを出したら・・・その方が喜ばれた。ぷーっ私のアサヂエなどこんなもんよ。気を遣ってるつもりなんですがね、本人のツボといささかズレてるの。これ、父親譲りです。娘といえど、孫への愛情にはかないませんわ。枕元の写真、白いドレス、頭にティアラ、お星様のついたスティックを手に微笑む、我が娘に「あら、かわいい天使ちゃん(当時3才)」と声をかけていただいた時の父の笑顔。実によかった。少し誇らしげに「孫です」。あのーその天使ちゃん、実家の仏壇に小さな手を合わせて 「おじいちゃん、おばあちゃん、やすらかに・・・(←お眠りくださいと言おうとしていた)」 父もその場にいたんですがね、肩震わせて笑ろてました。甘いな。
この夏、父曰く’最後の旅行’を楽しみました。「今年は何とか頑張れるやろ。けど、来年はどうなるかわからへん。」母にも、繰り返し話していたようです。晩年になると死期を察する。そんなことがありますね。祖父の時に、やはり似た場面があったと聞いているからか、父の言葉を笑って払いのけることはできなかった。本人が言う以上、そうなんだろうなと解釈していました。そうして、自分自身にも少しずつ覚悟を求めていく・・・父のことよりね、残された私がどう生きるかという問題へ移っているかな。あはっ。どこまでも不肖の娘です。
5年生存率-診断から5年経過後に生存している患者の比率-で言えば、確かに父は生きている。が、来るべきその日へ向けて、カウントダウンが始まっている。そう思うとね、5年生存率って何なのだろうと考えてしまうのです。今、生きている、その証。そう受け取ればいいのですか?
「なんや久しぶりに電話をかけてきたと思たら・・・取材かい!」(←スンマセンっ) こんな娘ができること、いろいろ考えているよ。
病院側の対応の結果だけによるとは限りません。父自身、今更この年で手術など・・・との意向があり、再発に気付きながら積極的な治療を見送ったとも考えられるので。5年前から、すべてを決定し、向き合ってきた人でした。そこには母も、一人娘である私も、立ち入る隙はなかったように思います。家族にだけは、心配をかけたくない。そんな父の心情を、受け入れることしかできなかった。
私は、父の手術にさえも立会いませんでした。開口一番「帰って来なくていいから」と言われ、そうしてそれは、父と母共通の想いでした。そんな言葉を真に受けるヤツがいるか!と、叱られるかもしれない。が、真正面から二人の想いを覆して手術に立ち会うよりは、いかにその隙を突いて側に行くかを考えていました。めんどくさいですよね。親子の間で、何故そんなに気を遣わなくてはいけないのか。ただ、両親は私自身と共に、様々な関係の中で生きている私の立場も、慮っていた気がするのです。
小さな頃から痩せっぽっちで、体が丈夫でなかった私は、よく学校を休んでいました。すぐに熱を出す、風邪を長引かせる・・・思春期に体質が変わるまで、そんな状態が続き、本と空想がお友達でした。さすがに社会人になって、夜遊びもできる程度の健康を手にしたものの、親の中では、いつまでも床に伏せっていた娘なんですね。また大人しくしてりゃあいいのに、本来の器を越えた所へ身を置きたがる性癖があったものですから。 大事モノにされるのが嫌だというか。一人っ子ってね、黙っていると、どんどん囲われていくんですよ。兄弟姉妹が多く、親の愛情を奪い合う環境から見れば、贅沢な悩みでしょうけど。
進学・就職・結婚、人生の転機には、自分のエリアから踏み出すという選択をしていました。 父が肺がんに侵されたのは結婚7年目。二人の幼子を抱え、異郷の地で奮闘中。容易く帰れる状況になかったのは確かです。帰ったところで即戦力にもなりませんしネ。 ただ、父や母の心の小さな灯火にでもなれば、とは考えていました。こちらの生活を乱すのは、本意ではないだろう。だから、できるだけ支障のないよう調整する、その隙間をぬって帰省する。これが、私の立てた計画でした。当時息子は年長、秋には幼稚園最後の行事がいくつか予定されており、両親には申し訳なかったけれど、そちらを優先させてもらいました。
その中の一つ、やきいも会には、こんな思い出があります。大人から見れば、たわいもない行事。 ですが、-自分たちが育てた野菜を収穫・調理して味わう-年に1度のその日に向けて、子どもたちはコツコツ準備をしていました。その集大成となる日が、帰省予定の間際だったのです。天候の都合で延期になれば、息子は参加することができません。当日は、今にも降り出しそうな曇り空。こりゃあ無理かなとあきらめていたら・・・「やりましょう」 園長先生の一声で、決行になりました。○○くんの笑顔が見たいとの想いから、決めてくださったそうです。 「おじいちゃん、楽しかったよ!」 息子は、そんな土産話をたずさえ見舞うことができました。
月日が流れ、娘が通い出す頃には、近隣の迷惑になる(煙の所為か)という趣旨で、この行事もなくなりました。今となっては、一層感慨深い出来事です。「頑張っておじいちゃんを応援してきてね。」あの時の先生たちの想い、園児の心へ寄り添ってくれていたんだと改めて感じます。ほんの数年の差であれ、トップや職員の方々、役員のお母さんたちの気風で、園の空気や方針も変わる。そういう意味では、いい時期に存在していたのかな。
手術の翌日に顔を出すと、父は不思議そうな面持ちで、私を見つめていました。入院先は自宅から少し離れていて、公共機関をいくつか乗り継がなければならない。年老いた母に「当分来なくていいから」と言い渡し、着替えを多めに持参しての入院でした。そこで数日間は、私一人で病室を訪れました。「来てくれたんかーありがとう。」先のことを口にすると遠慮する。明日も来るねって言えないんですよ。部屋を去るときは、いつも「じゃあね」。今度いつ来るかわからない空気を匂わせます。ホントは明日も行く気満々なんですが(笑)。そうして翌日病室に顔を出すと「おっ今日も来てくれたんかー」このテは3日程しか通じんわ。しゃーないな、1日休もう。愛人の元を訪れるオッサンか!その場合は、’先のことを口にすると期待する’でしょうけども。
1日休んで、子どもたちを連れて行くというカードを出したら・・・その方が喜ばれた。ぷーっ私のアサヂエなどこんなもんよ。気を遣ってるつもりなんですがね、本人のツボといささかズレてるの。これ、父親譲りです。娘といえど、孫への愛情にはかないませんわ。枕元の写真、白いドレス、頭にティアラ、お星様のついたスティックを手に微笑む、我が娘に「あら、かわいい天使ちゃん(当時3才)」と声をかけていただいた時の父の笑顔。実によかった。少し誇らしげに「孫です」。あのーその天使ちゃん、実家の仏壇に小さな手を合わせて 「おじいちゃん、おばあちゃん、やすらかに・・・(←お眠りくださいと言おうとしていた)」 父もその場にいたんですがね、肩震わせて笑ろてました。甘いな。
この夏、父曰く’最後の旅行’を楽しみました。「今年は何とか頑張れるやろ。けど、来年はどうなるかわからへん。」母にも、繰り返し話していたようです。晩年になると死期を察する。そんなことがありますね。祖父の時に、やはり似た場面があったと聞いているからか、父の言葉を笑って払いのけることはできなかった。本人が言う以上、そうなんだろうなと解釈していました。そうして、自分自身にも少しずつ覚悟を求めていく・・・父のことよりね、残された私がどう生きるかという問題へ移っているかな。あはっ。どこまでも不肖の娘です。
5年生存率-診断から5年経過後に生存している患者の比率-で言えば、確かに父は生きている。が、来るべきその日へ向けて、カウントダウンが始まっている。そう思うとね、5年生存率って何なのだろうと考えてしまうのです。今、生きている、その証。そう受け取ればいいのですか?
「なんや久しぶりに電話をかけてきたと思たら・・・取材かい!」(←スンマセンっ) こんな娘ができること、いろいろ考えているよ。