JINCHAN'S CAFE

My essay,My life
エッセイを書き続けることが、私のライフワーク

『桜桃忌』 外伝

2009年09月15日 13時53分00秒 | 本と雑誌
 その出来事については、以前武勇伝という形をとって、エッセイにしたことがある。当時付き合いのあったお仲間さんや、初めて心の傷をさらす友人たちに、少しでもショックを与えないよう、自分なりに配慮したつもりだった。 (そうした気遣いは、かなり裏目に出てしまったけれど)誰しも、人の痛みなんて、すき好んで目にしたくない。それは、わかってる。では、どのような理由で、表に出したのか。あの頃の私は、こんなことを伝えたかったのだと思う。’不幸なのは、あなただけじゃないよ’。それでも、核心に迫ることは憚られ、笑いの形態に逃げた。オリエンタルラジオのラップのリズムに乗せ、強盗に襲われながらも立ち向かっていく様子を再現した。「武勇伝 武勇伝 武勇 でん でん で でん Let's go!」

 エッセイ後半で触れたが、男性相手に武勇伝など、そうそう成立しないのが実情だ。取っ組み合いになり、首を絞められても、徹底抗戦したのは事実。だが、その一方で、泣き叫びながら懇願するぶざまな自分がいた。「お願いだからやめて!」 過去の記憶と共に、湧き上がってくる屈辱感。あの時 私は、男の力というものを、嫌というほど思い知った。男が本気を出したら絶対にかなわない。手加減してくれているのだ。いくら女が、口で偉そうなことを言えど、それが現実だろう。

 十分前後のもみ合いが、随分長い出来事に感じられた。「戦ってる場合じゃないよ。逃げなくちゃ!」 と言ってくれたお仲間さんがいたが、そんな選択肢はまったくなかった。男は薄闇の中で息をひそめ、帰宅して部屋に入ってくる私を、待ち受けていたのだ。ドアを開いた私は、横合いから飛び出した相手に口をふさがれ、いきなり押し倒された。恐怖より、何より、どうしてこういう事態になっているのか、という不可解さの方が強かった。’カギをかけ忘れたのだろうか。ベランダから侵入されたのだろうか。あなたは誰なの?何故私なの?どうして・・・どうして・・・’ 同様の被害に合い、死に至った女性の報道を目にする度、そんな混乱の中で絶命した彼女の無念さを思う。一人しか殺していないだとか、その殺害方法に残忍性がないだとか、そんなことが、犯人の罪と罰を測るモノサシになるのは、間違っている。

 とにかく誰かに、知らせなければならない。そう感じた私は、ロフトの階段をガンガン蹴って、階下の住人にサインを送った。私の未来を信じ、東京へ送り出してくれた両親に、悲しい思いをさせる訳にはいかなかった。何とかして、助かる方法はないか。緊迫した状況にありながら、どんな可能性をも探ろうとした。

 予想外に手間取り観念したのか、突如男は、傍にあった私のバッグをひっつかんで逃走した。安堵と共に、男に対していた時には囚われまいとしていた恐怖感が、ひしひしと押し寄せる。助けを呼ぶ力もなく、暗闇の中、カタカタと震える身体を、抱きしめ続けた。都合よく助けに来てくれるヒーローなんて、期待するな。自分を救えるのは、自分だけだ。今も私は、そんな思いを抱えて生きている。

 一息つき、動き出せそうな感覚が、少しずつ甦ってきた。小窓までにじり寄り、カギを開け、窓枠にしがみつきながら、やっとのことで立ち上がった。そうして渾身の力を振り絞り、助けを呼んだ。窓の下には、民家の芝生が広がっていた。その向こうには、煌々と灯りのついた建物があった。人がいるであろう場所に向かって、何度も、何度も、助けを呼んだ。けれど、その家から反応が返ってくることはなかった。

 「どうしたぁー!」 しばらくして、反対側から、複数の男性の声と足音が近づいてきた。裏手にあったゴルフ練習場の客が、駐車場で悲鳴を聞きつけ、駆けつけてくれたのだ。急いで そちら側の窓を開け、男に襲われたことを伝えた。 「キャー こわい」隣の部屋から、おそるおそる顔を出す、二人の学生がいた。私を救える人は、間近にいたのだ。だけど、必死で助けを求めていた時、彼女たちから反応が返ってくることはなかった。誰だって、自分の身が、かわいい。通常でない事態が勃発していると知れば、扉を閉ざしてしまうのが、防衛本能というものだ。あるテレビ番組では、こんなノウハウを伝授していた。危険な目に合い、人の助けを呼びたい時には、こう叫べ。「助けて」 ではなく、「火事だ!」 と。皮肉なことだが、人間心理の的を得ている。身を持って体験した私は、そう感じる。

 通報によって、警察がきた。被害現場の検証。室内の写真をバシャバシャ撮られ、日頃から小奇麗な状態にしていなかった私は、穴があったら入りたい気分だった。部屋干ししていた、決してかわいくも、セクシーでもない下着も、恥かしくてたまらなかった。盗難品が、ないかどうかのチェック。金銭の被害は、バッグに入っていた財布くらいだったが、部屋の中は荒らされ、アクセサリー類は、いくつか持っていかれた。襲った女が身に付けていたものをコレクションする。戦利品というヤツだ。

 現場検証が終われば、警察への移動。被害の証拠写真として、犯人に殴られ腫れ上がった顔写真を、何枚か撮られた。グレーのパンツスーツを着ていた私は、さながらプリズナーの如く、写真に収まった。それが終わると、調書作成。捜査官の方々は優しく接してくださったが、一つ一つの行為は、被害を受けたばかりの身に応える。たとえ仕方のない手順であっても・・・。そんな中、硬直した心を、ふっと緩ませたものがあった。「では、今までお聞きした内容を読み上げます。よろしいですね?」 事件の経過が、年配刑事の口を通して、語られていく。被害者には辛い確認作業なのだが- 調書を耳にしていて、美しい文章を書く人だ、と思った。無味乾燥なトーンでなかったのは、ちょっとした驚きだった。’横溝正史の小説みたい’ 。それがいいのか悪いのかはわからないが、素敵な文章に触れている時、私は幸福を感じる。深夜まで拘束され、身も心も、くたくたになっていた私を、あの刑事さんの文章は、少しだけ救ってくれた。

 駅向こうのエリアでは、一人暮らしの女性が襲われる事件が、続いていた。刃物で脅される状況下で、服を脱がされ、いかがわしい行為を受ける。レイプを免れたからといって、それが何なのだろう。わけのわからない男に、全身を撫でまわされ、陰毛を剃り落とされ・・・ そんな目に合った被害者の気持ちは。彼女たちは、おそらく周囲の誰にも言えぬまま、過去の出来事を封じ込めて生きている。自分を理解してほしい人にほど、真実は打ち明けられないのではないか。それが大きな傷だからこそ言えない、ということがあるのだ。

 犯人は、捕まらなかった。彼女たちも、私も、自分を傷つけた人間がどこの誰かもわからず、文句の一つ(そんなものが相手に響かないこともわかっているが)も言えないまま 時効を迎えた。一刻も早く忘れてしまいたい、という感情だってあるだろう。けれど、果たしてそれでいいのだろうか、と思う時もある。たとえ時効を迎えようが、事件そのものが風化してしまおうが、罪は消えない。心の傷が、完全に癒えることもない。捕まらなかったから、致命的な傷を負わせていないから、セーフという訳ではない。男のしたことは、アウト!なのだ。

 特殊な経験をする人は、限られている。しかし、誰もが心の中に、何がしかの、やるせない想いを抱えて生きている。それを口にするか、しないか、だけの違いだ。最近、表現できる幸せということを考える。それが喜びであれ、怒りであれ、哀しみであれ、つぶやきであれ、心の内を表わせるのは、そうして耳を傾けてくれる人がいるのは、恵まれた環境なのではないかと。太宰さんは、どう考えますか?