JINCHAN'S CAFE

My essay,My life
エッセイを書き続けることが、私のライフワーク

アイム・イン・ブルー

2008年03月28日 12時32分00秒 | in the forest
 この日記は、近いうちに削除しようと思っています。いつもみたいに少し・・・また少し・・・愛情を積み上げるように書いていないし、何より後ろ向きなので。オチもありません。為にもなりません。それでもよければ読んでください。

 学生時代から書くことが好きでした。最初は、友人たちとリレー小説。その後は、テレビドラマに題材をとったパロディー小説。大層なもんちゃいますよ。所謂腐女子の世界です。男の集団が出てくる刑事モノなんか格好のネタでね、そこに倒錯愛を見つけて妄想を繰り広げるの。うしし。女子校の一部には、こうした世界へ興味を示す乙女たちがおりまして。彼女たちの欲望を満たすべく?小さな努力を重ねておりました・・・と、人の所為にしておりますが、本当は自分が書きたかった、それだけの話。

 大学では、そうした趣味の世界が高じまして、文芸部へ所属していました。さすがにこうした場所には、その筋のスキモノが集まるのねぇ。お気楽な私は、底辺でゆらゆら。読書会では、フランソワーズ・サガン(『 悲しみよこんにちは』)なんかについて語るの。おフランスの作家など知らんちゅーねん。ああいう場で取り上げる作品には、なじめんかったなぁ。他校とも、一戦交えたりするんですよ。どうせ交えるなら、他のことで交えたい。後輩には、才能あふるる人材が何人かおりましてね、書くものでも話の内容でも、先をいってました。宴席で、ある後輩が江戸川乱歩について語っていたんですよ。話を継いでいたら、「先輩が仰ってるのは江戸川乱歩。私たちが話しているのはエドガー・アラン・ポー」なんて返された。アチャー!この頃から赤っ恥人生を歩んでいたのですね。尤も江戸川乱歩というペンネームは、推理小説の祖、ポーをもじったものだそうだから、大きく外れていた訳ではないんですよと、言い訳しておこう。

 エッセイを書き出したのは、この頃。イタい短編小説に手を染めたものの、すぐにダメだと悟りました・・・。全くの絵空事を膨らませていく力はないの。だから今書いているのも、事実を基にした形式です。特殊な経験もしているので、「本当なの?」とよく聞かれるのですが、80%はそうだと解釈してください。あとの20%は~ ぐふふ、思い込みもあれば、勘違いもあるでしょう。それに、あくまで私の目線ですから。ちなみに私のお家芸は、早とちり。思い込みに、勘違いに、早とちり。散々だな。ああ道理で!と頷いた方、何人かいらっしゃいますね。間違いない。この要素で恋が始まり、そして終わるんです。 苦笑。(← 太宰治を気取ってみた)自分を道化にするのはやめよう。もう疲れた。ナルシストという訳ではないけれど、私は自分が好きでした。スットコドッコイな所もひっくるめて。よく言われているでしょう?明石家さんまが、自分の出演番組を見ながらケラケラ笑ってるって。あの気持ちわかるなぁ。一緒だもの。常に自分が一番の観客なの。今もこのエッセイ読み返して笑ってるよ。キモい!悪かったね。

 そんな能天気女が、ある時から自信を持てなくなりました。折りしも、ある小説でこんな一文と出会ったんです。”愛される資格があれば生きるのも、また充分に資格ありとす”負けちゃだめですよ、あなたはまだ、人を惑わすだけのものを持っているのですから・・・かわいい部下が泣いてくれるのよ。(リストラされた課長と、彼をこっそり慕い続けていた女子社員の話なのです)思わずネタ帳にメモりましたねぇ。自分の存在を否定されるのは、そんな自分と向き合うのは辛いけれど、認めてくれる人がいたら救われる。そういう人を、大切にせなアカンね・・・。往々にして忘れがちになるの。それでも愛してくれる人がいることを。いや、そうじゃないか。自信がぐらついてるから、折角の支持も一時的な気休めにしかならない。心がほっこりして、「ありがとう!」って思って、先へ進みかけたのも束の間、また言いようのない感情が襲ってくる。その繰り返し。

 そんな中、「やっぱり、じんちゃんが元気だと嬉しいわ♪」と言ってくれたお仲間さんがいました。’痛快’’熱血’ じんちゃんが行く!山田詠美のようにはいかないよぅ。まだまだ不惑の境地にはなれず、依然悩みまくりまくり。それでも彼女の一言はありがたく、そんな言葉をかけてもらえるに至った継続というのも、捨てたもんやないなぁと。コツコツ続けていくのは、決して容易くない。調子のいい時ばかりじゃなく、すべてを投げ出したくなることだって。それでもひょっこり、思いも寄らない小さな幸せや満足感を連れてくることがある。だから私は、書くこともCafeも、辞められないんだろうな。前向きでいることは難しい。それでも信じ続けること。それでも愛し続けること。一度ついた臆病虫、簡単に去ってくれません。だからといって、殻の中にいても変わらない。それを破るのは自分自身。縛りを解くのも。

 最近こんな風に思うのです。Cafeは世の中の縮図だと。仮想世界というけれど、その空間を作り上げているのは生身の人間。本質的な部分は変わらないんじゃないかな。多少違ったキャラを演じていても、行動パターンはそうそう変えられるものではないから・・・。’Cafe侮るべからず’と感じておりますヨ。(ここでの行状、ちゃ~んと?現実世界へも反映してくるのだ)

 愛し方を間違っているのだろうか、係わり方を間違っているのだろうか、悩めることもありますが、ここに留まりますネ。うるさい存在、目の上のたんこぶ、一人はおらな。(爆)

 なんか元気でてきた。やっぱり削除はやめよう。最後までお付き合いくださってありがとう♪ 


旅立ちの時 ~僕等のダイアリー~

2008年03月13日 23時39分00秒 | Cafeバナ
 39歳で17歳の少年と出会いました。ちょっぴり甘く、ちょっぴり切ない、6ヶ月間を過ごしました。あはっ、これ妄想の話ですよー。

 舞台はCafe。’こんな文章を書くあなたを好きになる’男女を問わず、よくある話だと思います。好きだから会いに行く。向こうも来てくれる。交流が始まる。何てことない出来事のように見えますが、これも一つ一つの小さな奇跡に、支えられている気がするのです。お付き合いが続いていくのは、そんな小さな奇跡の積み重ねかもしれません。義理だけの継続には、限界がありますから。

 阿久悠の短編集『恋文』に、『愛の繭』という作品があります。それに登場するラブレターに、こんな文言がでてきます。”しかし恋は、愛は、相手に光が見え自分もまた発光を自覚し、二人だけが蛍光色の繭の中で見つめ合うのは、天文学的確立の今だと思う・・・”お互いの気持ちが響き合う、その瞬間ってありますよね。そのタイミングだからこそ想いを伝えられた、或いは受け止められた。これ、恋愛だけじゃないなぁと、最近感じるのです。

 彼との出会いも、当時の私にとって象徴的なものだったのですが、近しい存在になるのに、またいくつかの要素が後押ししていました。日記上で、「僕とお話したい人はいませんか?」と呼びかけてくれたこと。その呼びかけに応えられる少しばかりの経験や、さらに踏み込む勇気、彼への好奇心を持ち合わせていたこと。そうやって機会をもった会話の中で、心に響く言葉をもらったこと・・・。(詳しくは、昨年12月11日のエッセイをご覧ください)後になってわかったのですが、彼と私は驚くほど似た経験をしていました。ストーリー的にとは限らない、心の動きや、その後の自分の中での位置づけも含めて。だからこそ、あの場面で気持ちが通じ合えたのだと思います。

 顔も見えない、声も聞こえない、文字だけがすべてのやり取り。相手がどれほど真剣に対してくれているのか、正直わかりません。けれど、心へ届いたメッセージ、大切にしたいと感じました。しばらくして、あるエッセイを書いた時、この時のやり取りを思い出させるコメントが届きました。私も同じく、その時の言葉で返してみました。二人だけにわかる暗号。「覚えていてくれたの?」ある機会にふと聞いてみたら、「大切なことは覚えています」と。嬉しかった。ちゃんと向き合ってくれていたんだ!人を愛し、それにまつわる傷を抱え、そんな彼だからこそ、私の気持ちをすくい取ってくれたのでしょう。

 大人びた所があるかと思えば、壊れそうな危うい面も見受けられました。正に『ガラスの十代』。”そんな痛み覚える 季節(トキ)じゃないか・・・ 戸惑う気持ちで 行ったり来たりさ 光と影をー”かつて飛鳥涼が、アイドルの歌へ乗せて送ったメッセージそのもののような。ハラハラしながら、一方で、ああやっぱり似た所でもがいているのかなぁと。誰しもとは言いません。しかし、通り過ぎる人は通り過ぎる道である気がするのです。背負っているもの、大人に対する感情、それぞれの環境で違いはあるでしょうが。

 「弱味につけ込んで思いを遂げたら、女が廃る」(BY阿久悠)なんて小説の一文を気にしながら、手を差し伸べずにはいられない時もありました。私は、彼の中に誰を重ねていたのか。人を優しく照らす向こうに陰がある。傷つき易くって壊れそうな裏がある。そんな匂いを感じると、たまらなくなるのです。完全に包み込む度量などないのに。そうして毎度失敗するのだー。それでも今回は我慢したのヨ。だって、まだ17歳。未来ある少年なんだもの。大切にしなくちゃね。

 彼が、「ありがとうございました」という言葉を残し、ふいっと姿を消していたここ数日、今までの6ヶ月間を振り返っていました。何故だろう。辛くて仕方がない心境ではなかったのです。勿論寂しさはあって、しんみりしていたいと軽く引きこもっていました。けれど、悪い感情は生まれてこなかった。このエッセイに手をつけたのも、「気にするな。おばちゃんは大丈夫だから。」と、言いたかったのです。人の気持ちへ思いを馳せられる、優しい彼だから。案の定、ミニメ攻勢で日記を更新する羽目になってましたけど。素直でかわいらしい。それも彼のいい一面です。

 どうしてあの時期に彼が現れたのか・・・。小さな奇跡に支えられていたけれど、’出会ったのは偶然でなく必然’そんな気もするのです。神様という存在があるのならば、一体私に何を伝えようとしているのか。いい加減に流して、先へ進んではいけない気がしました。彼を通して得たもの、見たこと、感じたこと、確認してみました。たくさんの贈り物をもらってた。何より、その存在にその言葉に癒され・・・少年ながら生き様、そうして成長の過程も見せてもらい・・・。では、私は彼に何かを与えているのだろうか・・・責任を感じました。多感な時期でもありますしね。関わる人でどんどん影響されていきます。彼の足を引っ張るような自分でいたくはありません。

 「それでも、その恋愛をしたことによって、自分の中で何かが変わっているはずです。」恋愛を出会いに換えておくかな。かわいそうだから。うふふ。この6ヶ月間を通り抜け、私も変わっていたい。彼との出会いを無駄にしたくない。高校を卒業し新しい環境へ入っていく彼のように、私もまた、旅立ちの時にしようと思います。以上、おばちゃんの主張でした。これからここの活動は、どうなっていくかわからないけれど、表現者として同じマウンドに立ち続けてほしいなぁと願っています。書くことからは逃れられないでしょう。(ズバリ言うわよ!)休養はあっても・・・ね♪

 彼は、もうすぐ18歳の誕生日を迎えます。ムラーズくん、誕生日おめでとう。

  P.S. どうやら’新生ムラーズ’として、ここにとどまることを選んでくれたようです。ありがとう!
  P.S. やっぱり卒業になってしまいました。元気でね。 私も一応援団から卒業かぁ。’翔んだカップル’を目指してたんだけど~(爆)