母校は、坂の上にあった。毎日苦労して坂を上り詰め、通学していた。その代わり、高台にあった母校からは、海が見下ろせた。キラキラと輝く、穏やかな瀬戸内の海が。北には山、南には海。さほど広くない空間に広がる、2つの世界。今にして思えば、この上なく贅沢な空間だった。
KOBE、私が学生時代に過ごした街。
三宮(さんのみや)と大阪の間、所謂阪神間と呼ばれる場所には、阪急・JR・阪神と3つの鉄道が平行して走っており、その周辺にはいくつかの私立校が点在している。母校も、そんな私立校の一つだった。阪神間でも、阪急沿線の六甲(ろっこう)駅から夙川(しゅくがわ)駅辺りにかけて、一種独特の文化圏が形成されているのだが、その影響を受け、ゆったりとした空気が流れていた。
成人してからは、神戸以外の街も多く訪れた。だが、こんなにも恵まれた環境には、出会えなかった。今も帰省の折、電車で近くを通り過ぎる度に、必ず伸びをして母校を目で追う。山の手に広がる白い校舎。 周辺の山並み。見ているだけで、心から癒される。そうして改めて、私は母校をこんなにも愛してたんだーと実感する。
在学当時は、態度にこそ出さないが、精神的にはいささか反抗していた。自分で志望し、あんなにも努力して入った学校。だが、連綿と続く(在学中に60周年を迎えていた)歴史・伝統がのしかかり、それにまつわる先生方の指導が厳しい事もあって、窮屈な思いをしていた。中学時代は、まだよかった。憧れの学校へ入学した喜びや緊張感が持続していた所為で、そんな呪縛もそれなりに受け入れていたのである。しかし高校へ上がると、次第に息苦しさを覚え「はぁ~いちいちうるさいな。」トカ「何でこんな事やらなくちゃいけないんだよ。理不尽だわ。」トカ心の中で、軽く悪態をつき始めた。ある状態が長く続いている時、そこには一種の淀みが存在する。6年間の中高一貫教育という環境も、そうした印象を後押しした。歴史なんて、伝統なんて、くそくらえだよ。
学内には、祖母の代から母の代から本校にゆかりがあります・・・といった生徒が、まぁまぁの割合で存在していた。同じ先生に教えていただくのも、特別な環境ではなかった。今なら、そういった事も、歴史ある学校ならではの素晴らしさ(母親以上の年齢の大先輩方と共通の話題ができる幸せ)だと思える。が、当時はそうした歴史や伝統といったものの恩恵が、よくわからなかった。ただただ、自分に窮屈な思いをさせる鬱陶しいもの、そういう位置づけでしかなかった。校内には、ウン十年前から脈々と受け継がれてきた日常的な決まりがあり、中には現代の理にかなわないと思われるものも、存在していたのである。登下校の際に、必ず校門の所で校舎に向かって礼をするというのが、その代表格であろうか。
週に1度の全校朝礼では、OGからのお叱りの言葉が披露された。外での態度が悪いと、即学校へ電話が入るのである。’本校の生徒が道いっぱいに広がって歩いている’’電車の中での態度が悪い’云々。正直、そんなお叱りを受ける度に、「おっかないオバサンOGだこと!」などと心の中で思っていたのだが、卒業してOGの立場になると、やはり在校生の態度が気になるのだった。あの諸先輩方は、母校に余程の愛着と誇りを抱いていたのだろう。
教育実習で母校を訪れた友人が、こんな事を言っていた。「校門での礼ね、今やってないんだよ。残念だなぁ。厳しかった先生も、何だか優しくなっちゃってねぇ。」「そっかぁ・・・」あの時に感じた一抹の寂しさは、何だったのか。別に無くなっても、かまへんやん。そう考えていた決まり。だがいざなくなると、清々したとは思えなかった。’襟を正して教育現場へ来なさい’といった礼節の一部だったのだろうなぁと、今になって考える。決して悪い事ではなかったのに。
学校で培われた習慣で、思いがけず喜ばれた事があった。学内で、先生方や先輩といった年長者とすれ違う時には、必ず礼をする。(まるで宝塚!)6年間毎日のようにやっている間に、体へ染み付いてしまい、卒業後も自然とその習慣は続いていた。すると職場で、ある先輩からこんな言葉をかけていただいた。「僕らいつも客先で仕事してるやろ。たまに部署へ帰ってきても、みんなしれーっとして挨拶もナシや。そんな時、いつも君が’お疲れさまです’って声かけてくれたん、すごく嬉しかったで。あれ、ホンマええよ。」母校で育まれた精神に救われた。自分では特別な事をしたという意識がなかったから、褒められて逆に驚いた。でも、とっても嬉しかった。
卒業して21年。 母校の教えは、今も私の胸に。あんまり守れてへんけど、私なりの清らかさ、正しさを求めていくね。最後の砦であるやさしさを胸の奥に残しつつ・・・
がんばろう神戸。あの震災から12年。私こそ、いつも元気をもらっているよ。ありがとう♪母校への愛と共に・・・
KOBE、私が学生時代に過ごした街。
三宮(さんのみや)と大阪の間、所謂阪神間と呼ばれる場所には、阪急・JR・阪神と3つの鉄道が平行して走っており、その周辺にはいくつかの私立校が点在している。母校も、そんな私立校の一つだった。阪神間でも、阪急沿線の六甲(ろっこう)駅から夙川(しゅくがわ)駅辺りにかけて、一種独特の文化圏が形成されているのだが、その影響を受け、ゆったりとした空気が流れていた。
成人してからは、神戸以外の街も多く訪れた。だが、こんなにも恵まれた環境には、出会えなかった。今も帰省の折、電車で近くを通り過ぎる度に、必ず伸びをして母校を目で追う。山の手に広がる白い校舎。 周辺の山並み。見ているだけで、心から癒される。そうして改めて、私は母校をこんなにも愛してたんだーと実感する。
在学当時は、態度にこそ出さないが、精神的にはいささか反抗していた。自分で志望し、あんなにも努力して入った学校。だが、連綿と続く(在学中に60周年を迎えていた)歴史・伝統がのしかかり、それにまつわる先生方の指導が厳しい事もあって、窮屈な思いをしていた。中学時代は、まだよかった。憧れの学校へ入学した喜びや緊張感が持続していた所為で、そんな呪縛もそれなりに受け入れていたのである。しかし高校へ上がると、次第に息苦しさを覚え「はぁ~いちいちうるさいな。」トカ「何でこんな事やらなくちゃいけないんだよ。理不尽だわ。」トカ心の中で、軽く悪態をつき始めた。ある状態が長く続いている時、そこには一種の淀みが存在する。6年間の中高一貫教育という環境も、そうした印象を後押しした。歴史なんて、伝統なんて、くそくらえだよ。
学内には、祖母の代から母の代から本校にゆかりがあります・・・といった生徒が、まぁまぁの割合で存在していた。同じ先生に教えていただくのも、特別な環境ではなかった。今なら、そういった事も、歴史ある学校ならではの素晴らしさ(母親以上の年齢の大先輩方と共通の話題ができる幸せ)だと思える。が、当時はそうした歴史や伝統といったものの恩恵が、よくわからなかった。ただただ、自分に窮屈な思いをさせる鬱陶しいもの、そういう位置づけでしかなかった。校内には、ウン十年前から脈々と受け継がれてきた日常的な決まりがあり、中には現代の理にかなわないと思われるものも、存在していたのである。登下校の際に、必ず校門の所で校舎に向かって礼をするというのが、その代表格であろうか。
週に1度の全校朝礼では、OGからのお叱りの言葉が披露された。外での態度が悪いと、即学校へ電話が入るのである。’本校の生徒が道いっぱいに広がって歩いている’’電車の中での態度が悪い’云々。正直、そんなお叱りを受ける度に、「おっかないオバサンOGだこと!」などと心の中で思っていたのだが、卒業してOGの立場になると、やはり在校生の態度が気になるのだった。あの諸先輩方は、母校に余程の愛着と誇りを抱いていたのだろう。
教育実習で母校を訪れた友人が、こんな事を言っていた。「校門での礼ね、今やってないんだよ。残念だなぁ。厳しかった先生も、何だか優しくなっちゃってねぇ。」「そっかぁ・・・」あの時に感じた一抹の寂しさは、何だったのか。別に無くなっても、かまへんやん。そう考えていた決まり。だがいざなくなると、清々したとは思えなかった。’襟を正して教育現場へ来なさい’といった礼節の一部だったのだろうなぁと、今になって考える。決して悪い事ではなかったのに。
学校で培われた習慣で、思いがけず喜ばれた事があった。学内で、先生方や先輩といった年長者とすれ違う時には、必ず礼をする。(まるで宝塚!)6年間毎日のようにやっている間に、体へ染み付いてしまい、卒業後も自然とその習慣は続いていた。すると職場で、ある先輩からこんな言葉をかけていただいた。「僕らいつも客先で仕事してるやろ。たまに部署へ帰ってきても、みんなしれーっとして挨拶もナシや。そんな時、いつも君が’お疲れさまです’って声かけてくれたん、すごく嬉しかったで。あれ、ホンマええよ。」母校で育まれた精神に救われた。自分では特別な事をしたという意識がなかったから、褒められて逆に驚いた。でも、とっても嬉しかった。
卒業して21年。 母校の教えは、今も私の胸に。あんまり守れてへんけど、私なりの清らかさ、正しさを求めていくね。最後の砦であるやさしさを胸の奥に残しつつ・・・
がんばろう神戸。あの震災から12年。私こそ、いつも元気をもらっているよ。ありがとう♪母校への愛と共に・・・