「故郷の廃家」を、「少年兵たちが歌った」エピソードがパンフレット「硫黄島」に書かれている、と、昨年紹介をさせていただきました。
そこには、「故郷の両親を思い合わせ」と、書かれてます。
この1年間、この歌詞を読んで、いろいろと考えるところがありました。
オリジナルは、My Dear Old Sunny Homeという、ヘイズというアメリカ人
が作詞・作曲した曲です。
日本語に訳詩をしたのが、犬童球渓です。
元の英語の詩もホームページで検索をして
調べて、読むことができました。、鳥や植物の名前が出てきます。
私たちがよく知っている、故郷を懐かしむ内容の唱歌としては、
「うさぎ追いし、かの山、、」の「故郷(ふるさと)」があります。
誰もが歌ったことがあると思います。
「故郷の廃家」も、音楽の教科書に載っていた頃には、
誰もが知っていて歌ったことがあった、曲だったのかもしれません。
二つの歌詞の内容を比べてみると、
「故郷(ふるさと)」が、
・今も故郷はある。
・今はその場所を離れていて、遠くから懐かしんで、いつか帰りたいと
願っている。
「故郷の廃家」は、
・今は荒廃してしまっている。
・今、その場所にいて、目の前に荒廃した姿を見て、過去を懐かしんで
嘆いている。
大きな違いがあります。
前者が「空間の隔たり」に対する郷愁であるのに対して、
「故郷の廃家」は、「時間の隔たり」に対する郷愁です。
故郷を離れて、南洋の島に派遣されて、その戦いが激化していく中で、
「少年たちが歌うのを見て、市丸少将が、涙を浮かべた。」
少年兵たちが、「故郷の廃家」を、歌った時の心はどんなだったのでしょう。
「帰れないかもしれない故郷を懐かしんで、帰りたいと
願い、歌った。」のでしたら、
その気持ちに合う、歌詞の内容は、「遠く離れた故郷を思う」
「故郷(ふるさと)」の方が、あてはまる歌詞の意味内容で、
「故郷の廃家」の方ではないと思います。
「故郷の廃家」の歌詞では、「故郷」の方が、荒廃して「見る影もない。」
になってしまっているのですから、懐かしんで帰りたいと
願うという気持ちとは、ずれがあります。
「故郷が見る影もない」と嘆いている歌を、
どうして、「故郷を離れて、さびしい思いをして、激戦の地に
やられてしまった少年兵たちが歌ったのだろうか?」という点が、
不思議だと思い、あれこれ、考えるようになっていました。
私の、思うところとしてですが、
唱歌の歌詞と「帰れるか分からない激戦地の少年兵についての
パンフレットの紹介」とから、勝手なこじつけ になってしまいますが、
ひょっとすると、、と思ったのは
「帰れないと分かった。帰りたい故郷。家族に会いたい。
南洋の戦場での様子から、帰れそうだとは思えない。」と、
兵士たちが思っていたとしたら、
「既に帰れない故郷として、思い出される。」
という、「時間の隔たりへの郷愁」を、うたった
「故郷の廃家」の歌詞が、その時の少年兵たちの思い、無念さに
ぴったりだったのかもしれません。
以上は、私の勝手な、歌詞に触発されての、想像の世界でした。
もっと、普通に考えれば、
当時は唱歌として、皆がなじんで、口ずさんでいたであろう
この「故郷の廃家」を、声を合わせて、大きな声で
歌っていたと考えれば、自然です。
皆が共通で知っている歌を、声を合わせて歌えば、
元気が出るのは誰もが知っていることです。
むしろ、
「懐かしい故郷が、荒れて、往時の面影もない。」と
嘆くという歌詞の内容は、
墓参訪島で、硫黄島に行っている
硫黄島に戦前に在住していた島民には、そのまま
ぴったり、しっくりきます。
帰りたくても帰ることが許されていない故郷の島を
訪問しています。
歌詞では、「自分の家」が荒れた様子を「今」見ているのに
対して、戦前在住の島民は、家屋敷そのものを見ることはできません。
戦前にあった場所が特定できて、その場所に行ける人がいます。
およそ、「このあたりだろう。」という場所に行ける人がいます。
家のあっただろう場所に行けない人もいます。
戦前の島では一番、住民が多く繁華街だった、
祖父が商店をしていた元山は、現在の空港なので、
入ることができません。
硫黄ヶ丘近くの森が、旧村役場と学校のあった場所らしく
そこは、今の空港にかかっていないようです。
昨年も、今年も、「ひょっとすると、ぎりぎり、祖父母、
母たちが暮らした家は、空港には、かかっていないのでは?」
(最初の訪問の時に、母の兄弟の長兄、次兄の伯父たちは、
「このあたりだろう。」と、空港になっていない森の
あたりを、自分たちの住んでいた家のあった場所らしい、
と言い合っていました。) と、昔と今に詳しい人に訊いたりしていますが、
やっぱり、空港になってしまっているようです。
それでも、まだ、「このあたりなのではないのだろうか。」と、
近くを歩いたり眺めたりしました。
父島では 返還記念パレード が行われたそうです。
また、小笠原村議会の一木重夫議員がブログ
「小笠原村議会議員 一木重夫の政治日記」で、
「硫黄島と小笠原をめぐる日米関係」というタイトルで、
とてもためになる興味深い内容を紹介して下さっています。
一木さん、
とても意義のある内容をご紹介いただき、
興味深く、読ませていただきました。
昨年に続き今年も、一緒に硫黄島訪問をしていただき
ありがとうございました。
いろいろな思い、願いをこめて、大きな声で、
「故郷の廃家」を歌うことは、とても大切なことだと考えています。
写真は、今年撮影した、祈念公園からの海と係留中のおが丸。
そこには、「故郷の両親を思い合わせ」と、書かれてます。
この1年間、この歌詞を読んで、いろいろと考えるところがありました。
オリジナルは、My Dear Old Sunny Homeという、ヘイズというアメリカ人
が作詞・作曲した曲です。
日本語に訳詩をしたのが、犬童球渓です。
元の英語の詩もホームページで検索をして
調べて、読むことができました。、鳥や植物の名前が出てきます。
私たちがよく知っている、故郷を懐かしむ内容の唱歌としては、
「うさぎ追いし、かの山、、」の「故郷(ふるさと)」があります。
誰もが歌ったことがあると思います。
「故郷の廃家」も、音楽の教科書に載っていた頃には、
誰もが知っていて歌ったことがあった、曲だったのかもしれません。
二つの歌詞の内容を比べてみると、
「故郷(ふるさと)」が、
・今も故郷はある。
・今はその場所を離れていて、遠くから懐かしんで、いつか帰りたいと
願っている。
「故郷の廃家」は、
・今は荒廃してしまっている。
・今、その場所にいて、目の前に荒廃した姿を見て、過去を懐かしんで
嘆いている。
大きな違いがあります。
前者が「空間の隔たり」に対する郷愁であるのに対して、
「故郷の廃家」は、「時間の隔たり」に対する郷愁です。
故郷を離れて、南洋の島に派遣されて、その戦いが激化していく中で、
「少年たちが歌うのを見て、市丸少将が、涙を浮かべた。」
少年兵たちが、「故郷の廃家」を、歌った時の心はどんなだったのでしょう。
「帰れないかもしれない故郷を懐かしんで、帰りたいと
願い、歌った。」のでしたら、
その気持ちに合う、歌詞の内容は、「遠く離れた故郷を思う」
「故郷(ふるさと)」の方が、あてはまる歌詞の意味内容で、
「故郷の廃家」の方ではないと思います。
「故郷の廃家」の歌詞では、「故郷」の方が、荒廃して「見る影もない。」
になってしまっているのですから、懐かしんで帰りたいと
願うという気持ちとは、ずれがあります。
「故郷が見る影もない」と嘆いている歌を、
どうして、「故郷を離れて、さびしい思いをして、激戦の地に
やられてしまった少年兵たちが歌ったのだろうか?」という点が、
不思議だと思い、あれこれ、考えるようになっていました。
私の、思うところとしてですが、
唱歌の歌詞と「帰れるか分からない激戦地の少年兵についての
パンフレットの紹介」とから、勝手なこじつけ になってしまいますが、
ひょっとすると、、と思ったのは
「帰れないと分かった。帰りたい故郷。家族に会いたい。
南洋の戦場での様子から、帰れそうだとは思えない。」と、
兵士たちが思っていたとしたら、
「既に帰れない故郷として、思い出される。」
という、「時間の隔たりへの郷愁」を、うたった
「故郷の廃家」の歌詞が、その時の少年兵たちの思い、無念さに
ぴったりだったのかもしれません。
以上は、私の勝手な、歌詞に触発されての、想像の世界でした。
もっと、普通に考えれば、
当時は唱歌として、皆がなじんで、口ずさんでいたであろう
この「故郷の廃家」を、声を合わせて、大きな声で
歌っていたと考えれば、自然です。
皆が共通で知っている歌を、声を合わせて歌えば、
元気が出るのは誰もが知っていることです。
むしろ、
「懐かしい故郷が、荒れて、往時の面影もない。」と
嘆くという歌詞の内容は、
墓参訪島で、硫黄島に行っている
硫黄島に戦前に在住していた島民には、そのまま
ぴったり、しっくりきます。
帰りたくても帰ることが許されていない故郷の島を
訪問しています。
歌詞では、「自分の家」が荒れた様子を「今」見ているのに
対して、戦前在住の島民は、家屋敷そのものを見ることはできません。
戦前にあった場所が特定できて、その場所に行ける人がいます。
およそ、「このあたりだろう。」という場所に行ける人がいます。
家のあっただろう場所に行けない人もいます。
戦前の島では一番、住民が多く繁華街だった、
祖父が商店をしていた元山は、現在の空港なので、
入ることができません。
硫黄ヶ丘近くの森が、旧村役場と学校のあった場所らしく
そこは、今の空港にかかっていないようです。
昨年も、今年も、「ひょっとすると、ぎりぎり、祖父母、
母たちが暮らした家は、空港には、かかっていないのでは?」
(最初の訪問の時に、母の兄弟の長兄、次兄の伯父たちは、
「このあたりだろう。」と、空港になっていない森の
あたりを、自分たちの住んでいた家のあった場所らしい、
と言い合っていました。) と、昔と今に詳しい人に訊いたりしていますが、
やっぱり、空港になってしまっているようです。
それでも、まだ、「このあたりなのではないのだろうか。」と、
近くを歩いたり眺めたりしました。
父島では 返還記念パレード が行われたそうです。
また、小笠原村議会の一木重夫議員がブログ
「小笠原村議会議員 一木重夫の政治日記」で、
「硫黄島と小笠原をめぐる日米関係」というタイトルで、
とてもためになる興味深い内容を紹介して下さっています。
一木さん、
とても意義のある内容をご紹介いただき、
興味深く、読ませていただきました。
昨年に続き今年も、一緒に硫黄島訪問をしていただき
ありがとうございました。
いろいろな思い、願いをこめて、大きな声で、
「故郷の廃家」を歌うことは、とても大切なことだと考えています。
写真は、今年撮影した、祈念公園からの海と係留中のおが丸。