OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

「島民」の世代の数え方について

2009年06月06日 | 硫黄島・小笠原村
小笠原村父島の皆さんが、私たち硫黄島在住だったメンバーを「旧島民」と
呼んでくれている、ということは、先日、書きました。

私どもは、「島民の集い」と、自分たちを「島民」と呼んでいます。

「とうみん」と言っても、
住んでいたのは、戦争が激しくなり昭和19年に強制疎開で
硫黄島を離れる時まででしたので、もう60年以上も
在住「島民」はいない島が硫黄島です。

「戦前在住島民(と戦後生まれた人)」 「旧島民二世」 などと
いろいろな呼び方に関して、考えることが多いのですが、
私は、「戦前に住んでいた世代」 「強制疎開後の帰れない島に
なった後で生まれた世代」 と、大きく二つに分けて考えることが
多いです。

ところが、
「戦前島世代、二世、三世、、」という呼び方について、
考えてみると、ちょっと、おかしな具合になることに気がつきました。

「戦前在住島民」を一世と数えてしまう場合です。

私の母(故人)は、昭和11年生まれで8歳まで硫黄島に住んでいましたので、
母を「戦前在住島民一世」とすると、私たち兄弟の世代が二世、その子供たちの
世代が三世、となります。

今年、亡くなった祖母は、硫黄島を離れてからも、母の弟、妹を
産みましたので、「硫黄島に住んだことがない」叔母たちがいます。
祖母も「戦前在住島民」ですので、祖母も「在住島民一世」とすると、
内地に疎開後に生まれた、母の妹である私の叔母も 二世となり、
その子供(私の従兄弟)が三世の世代となります。

「住んで(産まれて)いた人を一世と呼ぶ。」とすると、
世代と、二世・三世・・という呼び方に、ずれが起きてくるのです。


別の「呼び方」の考え方として、「戦前に既に子供を硫黄島がいて
家計を営んでいた世代を一世とする」だと、ずれは起きません。
母も、戦後生まれの叔母も二世ですし、私も従兄弟も三世という具合に、
世代と、呼び方が一致してきます。

「戦前に既に子供を硫黄島で育てていた世代」は、
私の祖母も96歳で4月に亡くなり、もう、本当に少なく
ほとんどいないと思います。

島で青年、少年期、子供時代を過ごしてから、内地に疎開させられた
在住島民だった世代と、硫黄島に住んだことはない、疎開後生まれの
世代と、その子供の世代が、
間もなく、来週の金曜 6月12日出航の小笠原丸で
年に一度の帰島墓参に出発します。

それらの皆で協力して、これからも、「島民として」、つながっていて、
帰島の実現などの、夢についても、皆で考えながら、
「硫黄島」の「島民」で、あり続ける必要があります。
時間が経過して、世代がかわったことで、硫黄島「島民」の
存在を薄めてしまっては、いけないと思います。


今年はの、帰島訪問のメンバーは多くて、
全員が硫黄島の宿泊できる施設「祈念館」に泊まれません。
一昨年も昨年も、全員宿泊は祈念館でしたので
祈念館が出来てからでは、
最も多い参加人数なのかもしれないです。
若い人たち中心に、小笠原丸に戻って船中泊して翌朝また上陸
という人たちがいます。

宿泊場所が分かれてしまうのは、残念なことですが、
多くのメンバーで行けることは嬉しいことです。

一昨年、昨年は、いらっしゃることができなかった方で
今年参加の方もいます。親戚もいます。
「島民の集い」の会長、役員の方のご参加も
一昨年、昨年より多いので、
今年は慰霊祭での「故郷の廃家」は、これまでになく
うまく歌えると思います。

写真は、擂鉢山 山頂から海側真下を撮影したものです。(2008年の訪問の時)


(ここから「ランニング」の速報)
・2009年6月7日(日)横田駅伝に参加しました。
参加人数が多かったです。とても暑くて、きついコンディションでした。
チーム、自分が、事故や故障なく、無事に走れて良かったです。
成績・結果は後日に知らされます。5キロ×4人の20キロ
手許の計測とおよそのゴールタイムは、TopGearチームは
1時間23分。3区の私の5キロは22分45秒。
(4区のランナーへのたすき渡しでミスをしました。詳細は
成績が届きましたら、報告します。
苦しいコンディションでへばりましたが、駅伝はやっぱり
楽しかったです。)
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チャリティマラソン大会の 「パラカップ2009」のその後 

2009年06月06日 | ランニング
(チャリティ、ボランティアについて少し考える)

4月29日のパラカップ2009の興奮さめやらぬ
5月16日(土)に、同じ、多摩川丸子橋川崎側を会場に、
「裏パラカップ」というイベントが、開催されました。

パラカップ2009のお疲れ様会 
であり、関わったメンバーが集まって、
親交を深める場として企画して下さったもので、
パラカップ(表)当日に、ボランティア・スタッフを
して下さった方たち希望者が、コースの一部を走って、
ランナー参加者が、ボランティア・スタッフ役のまねごとをしたりして、
参加者みんなで、バーベキューを楽しむという会でした。

私は、代表 森村さんたちと、スタートから700メートル地点での
給水所担当チーム の一員をつとめました。

裏パラカップのランニングは、
パラカップ2009本番のような、ハーフや、10キロを
思い切り走るランナーも大勢出場するというものでもなく、
走った方々の距離も短かったので、本当に給水が必要な「ラン」だったと
は思いません。

「ボランティア・スタッフと、出場ランナー、逆も体験してみよう。」と
いう主旨で企画していただいた、「給水所役」でした。

声をかけながら、カップを渡すのは、案外と難しいものでした。
(受け取るのより難しいかも。)
ましてや、本番の先頭グループは、裏パラカップとは比較にならない
スピードで走っていたはずなので、本番当日の給水をして下さった方々の
ご苦労を垣間見た思いがしました。

曇りでしたが雨に降られることもなく、
懇親バーベキューは楽しく和やかに会話も弾みました。

パラカップの、幹事、役員スタッフ、ボランティア・スタッフの
おもだった方々が参加していましたが、
その皆さんを見て、感じたことは、
「とても、楽しそうで、面白いことを考えて、表現して
ということを、本当に好きでたまらないという様子で、
明るくなさっているな。」ということでした。

5回目のパラカップ2009は、あれだけの大規模な大会として開催
されましたので、代表、それぞれのスタッフの皆さんの、
企画力、計画立案力の高さは、並大抵のものではないことは
知っていました。

もちろん、開催までに何度も、企画会議、準備活動を
丹念に、根気強く、重ねてくださった積み重ねが、今年のパラカップという
結果になったと思いますので、その過程では、真剣な検討、協議、
困難な時には、苦渋の表情もあったかもしれません。

ですが、スタッフの皆さんは、練習会の時から裏パラカップまで、
皆さん、「楽しませよう。楽しもう。出場者には、
楽しんでやっている姿を見せよう。」としてくれていたと
思います。

裏パラカップでの、司会進行、会話などにも、
「楽しませて、笑わせよう。」というのが、随所にあり、
愉快で和やかなひと時を過ごしました。


パラカップ2009に出場して、二度の練習会から
参加して、
TopGear(6月7日に、TopGear登録チームのメンバーとして、
白方コーチ、田中(幸)コーチたちと、横田駅伝に出場してきます。)や、
ランニングのケア、スポーツアロマオイルマッサージのプレミナの
トレーナーの方などパラカップがなかったら知ることがなかった出会いが
ありました。

裏パラカップの時に、予告がありました。
「パラファーム」というお米作り(お借りした田んぼに
田植えから収穫まで、活動するというもの)の、イベントの
ご案内もいただき、参加することにしました。


チャリティやボランティアというと、
「真顔で眉間に皺を寄せてやっていて、表現する言葉が悪いが、「どことなく、自己犠牲、自己満足、独善的」な活動のイメージがある。」と、
これまで、漠然と思っていましたが、
パラカップのスタッフの皆さんとお会いできて、そのようなマイナスの
イメージは、全く吹き飛びました。

代表や幹事スタッフの皆さんが明るく楽しそうでないと
あのような多くのメンバーが、ボランティア・スタッフとして
協力者、出場者として参加する規模のイベントをリードすることは
できないのだろう、と感じました。


そして、
「硫黄島島民の集い」を毎年、回を重ねて開催して下さっている
幹事スタッフの皆さんの姿が、パラカップのスタッフの皆さんとだぶりました。
「島民の集い」も、大変な準備を、毎年、「どうして、あそこまでして
下さるのだろう。」と思うほどの企画、活動を、スタッフの皆さんが
ボランティアでして下さっているおかげで、楽しい意義のある会が
開かれ続けています。
同じように、ご苦労も多い幹事一同の活動を、明るく楽しそうに
やり続けて下さっています。


いよいよ来週の金曜12日に、竹芝出航の小笠原丸で
今年の、硫黄島帰島に発つ日が近づいてきました。
通算で5回目の硫黄島、船では3年続けて4回目の参加になります。
今年もしっかり見て参加して、意義深いものにしたいと思っています。



写真は、
サロモンというメーカーの ハイドレーション・パック内蔵ザックです。
ハイドレーション・パックは、この写真のように取り出せます。
前に モンベルの物の「今年、装備として調達した。」と書きましたが、
今年、なぜ、
一度に背負えるのは一つなのに二個買ったのか
というと、
小笠原での水分補給対策には役立つものですし、
「旧島民のメンバー」には、
「何でも挑戦したがりで、凝り性」という
共通点があるので、予備も持って行きたい、と思ったからです。
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