OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

入間基地からの墓参訪島は年に2回です。

2007年07月04日 | 硫黄島・小笠原村
おがさわら丸係留の写真を紹介いたしました。6月に参加させていただいた硫黄島訪島事業は、小笠原村が主催して実施して下さっています。
二日間、硫黄島を回れますし、行きと帰りに父島に寄ることができる、たっぷり日数を取ったスケジュールです。

一方、東京都が、春と秋のお彼岸頃の2回、入間基地から日帰りでの、墓参訪島事業を実施して下さっています。

おがさわら丸の紹介だけでは不公平(?)ですので、入間基地から硫黄島に連れて行ってくれる自衛隊機も紹介させていただきます。

昨年の秋に抽選で当たって、参加させていただきました。予定された日が近づくにつれて、大きな台風が硫黄島、小笠原付近を直撃しそうなことが分かってきました。都のご担当職員の方と連絡を取らせていただき、様子を確認しながら、「台風のために飛行機が飛ばない場合には一週間延期になるが、当日まで分からない。」という状況でした。 が、台風直撃は明らかでしたので、休暇取得予定は一週間延期をして、延期になった翌週に、参加することができました。

朝、稲荷山公園駅に集合(遠くからの方で、朝、間に合わない方は、入間のホテルに前泊)で、入間基地から自衛隊の輸送機で、硫黄島に連れて行ってもらえます。
入間基地での、チェックイン(?)、の時に、入間基地お土産を買うことができます。

日帰りのスケジュールですが、硫黄島の主な、慰霊碑や、旧島民で軍属として残った方が所属した部隊跡、祖父母、母が戦前住んだ家がった元山集落から近い、硫黄ヶ丘などを見ることができます。

小笠原村主催のおがさわら丸による訪問は、6日間を要するので、仕事を持っている人などが参加をするのには難しい日数がかかるのですが、東京都主催の入間基地からの訪島は日帰りですので、参加しやすいという違いがあります。この入間基地からの訪問は、希望者が多く、抽選に当たると、参加させてもらえます。

写真が入間と硫黄島を私たちを乗せて往復してくれる自衛隊輸送機です。
入間基地に戻ったところです。
「民間航空機と比べて、どうですか?」と質問をしたところ、「高度も低く、
速度もやや遅い。」という、お答えでした。
自衛隊の方々はとても親切で、コックピット見学もさせていただけました。島に近づくと丸窓から上空からの島も見せてもらえました。

硫黄島の自衛隊の方もとても親切で、島の様子の解説も丁寧にしてくれます。
昨年の9月(入間から自衛隊機、東京都主催)と、この6月(おがさわら丸、小笠原村主催)の訪問の両方で、詳しく丁寧に説明をして下さるベテランの隊員の方がいらっしゃいました。「今年で定年なので、今回が、この説明の役割も最後です。」とのことでした。長い間、本当にありがとうございました。

旧島民が、硫黄島に帰ることは、実現されていませんが、自衛隊の方々を始めとすする、東京都と小笠原村の職員の方々など、いろいろな方々のお力添えがあって、墓参訪島をすることができます。
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まだ若いタコの木になっているタコの実

2007年07月02日 | 硫黄島・小笠原村
タコの木になっている、まだ青く若いタコの実です。
熟してくると房がオレンジ色になってきます。
そのうちに実が固まってくると、
一つ丸ごとではなくて、
各房が実から落ちて落下します。
落下した房も割って中の実を食べることがきできます。

まだ房の落下が始まる前、
この写真の実よりは熟してオレンジ色になってきた実は、
両手で左右にひねると、木からはずして取ることができます。

写真に写っている、このタコの木の葉っぱ「たこっぱ」は
家の屋根を葺葺く材料に使われていたそうです。

「たこっば葺き屋根の家」が普通だったようで、
さらに高級な屋根葺きに使われていた葉っぱに
「しろっぱ」という葉もあったそうです。

これらの「戦前の島の生活の様子」は、
お元気な島で生活をなさって、覚えて下さっている方々が
教えて下さいます。
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慰霊祭での献歌 「故郷の廃家」

2007年07月01日 | 硫黄島・小笠原村
( 前出の小笠原村 発行のパンフレット
「硫黄島 -硫黄島島民平和祈念墓地公園開設15周年記念- 」から
歌詞とコメントを引用させていただきます。)


故郷(故郷)の廃家(はいか)
                      犬童球渓
一 幾年(いくとせ)ふるさと 来てみれば
            咲く花鳴く鳥、そよぐ風、
       門辺(かどべ)の小川の、ささやきも、
              なれにし昔に、変らねど、
         あれたる我家(わがいえ)に、
                住む人絶えて無く。
二 昔を語るか、そよぐ風
            昔をうつすか、澄める水、
       朝夕かたみに、手をとりて、
              遊びし友人(ともびと)、いまいずこ、
         さびしき故郷や、
                さびしき我家や。
                                   」 

慰霊祭で、歌詞の印刷された紙が配られ、全員で歌いました。 

戦前に島で生まれて、帰る故郷がなくなった世代の方々には、思いがつまされる歌詞だと思います。
島で生まれていない、私のような年代の者でも「涙ぐまずに歌うことができなかった。」理由を紹介させて下さい。

小笠原村発行パンフレット「硫黄島」も、この歌詞を紹介して下さっていて、
さらにこの曲に関するエピソードも紹介されています。その部分も引用させていただきます。


「故郷の廃家」には、
  次のような話が伝えられています。
  硫黄島での先頭が激化する中、避難していた少年兵達が、壕から顔を出すと、 真っ赤な夕日が顔を染め、その夕日に故郷の両親を思い合わせ、この歌をひとり が歌い、ふたりが歌いするうちに、大勢の合唱となり、それを陰で聞いていた市 丸少将が「十五~十六歳のこの子らを、道連れにするしのびがたさに涙を浮かべ た」ということです。
                                    」

パンフレットは、出発前に小笠原村が郵送して下さっていて、目を通していました。

私の祖父の弟と甥(母の従兄弟)も、十代で、島に残って戦士しています。

軍属として島に残った人、各地から集められた少年兵の十代の少年達が、生きて帰れる見込みがない戦闘の島で「何を思いながらこの歌を合唱したのだろうか」と思い、合唱する少年達を眺めたという「市丸少将(多くのWeb,ブログにも紹介されています)の思いはどうだったろうか?」と思いながら歌いました。
 

作詞者の犬童球渓のウェブサイト 
http://www.city.hitoyoshi.kumamoto.jp/contents/7d390b0e260733c/7d390b0e260733c5.htm

この公園からは係留されているおがさわら丸が良く見えました。大きな船です。
おがささわら丸(小笠原海運)のウェブサイト
http://www.ogasawarakaiun.co.jp/index.html
コメント (5)
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