その5 浄土寺山門前の遍路石
西林寺を出立して遍路石の道案内を得ながら浄土寺に無事着いた。
久米地区の真ん中を南から北に遍路する道である。
最近は外国人のお遍路さんが目立ち、四国遍路も国際化されて来た。
今年終戦後70年になる。
外国人のお遍路さんに、英語でのお接待が出来る様にと徳島市では、四国遍路のお接待についての講習会を開催さし心からのお持て成しをすることが主旨。
四国霊場第49番浄土寺の山門前の石段を上がると左側に建っている。
大きさは縦31cm・横31cm・高さ125cm。
文字は、東面に、南を指す指印、下に「四十八番へんろみち」。
南面は、西を指す指印。下に「五十番へんろ道」。
西面は、横に「施主」、その下に二段に分けて「重松伝蔵・三好甚八・仙波良次郎」「高市重蔵・高市吉儀・安永儀太郎」。
北面に、「明治四十五年三月」「世話人安永儀太郎」。と二行書きされている。
今から103年前に建立された。
西面で、横に「施主」、その下に二段に分けて「重松伝蔵・三好甚八・仙波良次郎」「高市重蔵・高市吉儀・安永儀太郎」と書かれてある。
北面で、「明治四十五年三月」「世話人安永儀太郎」。と二行書きされている。
北西からの遍路石。
山門前、東北斜めからの遍路石。
東面の、南を指す指印、下に「四十八番へんろみち」が見える。
お寺さんが竹で柵を造ったので字が柵に隠れて所々見ぬくい。
四国霊場第49番浄土寺の山門前の石段を上がると左側に建っている。
四国霊場第49番浄土寺の境内。
左から、本堂、大師堂、庫裏(納経所)、右端に鐘楼がある。
49番浄土寺の本堂。本堂に国指定重要文化財「空也上人の立像」がある。
画像が、昭和28年国指定の重要文化財「空也上人像」。
霜月の空也は骨に生きにける 子規の句は有名である。
空也上人は、平安中期(903~973)の僧で、20歳の頃尾張の国分寺で剃髪出家、自ら空也と名乗った。乞食とも思われる姿で全国を行脚、民衆の為に道路を開き、橋を架け、井戸を掘るなど社会に貢献した。浄土寺の寺伝では、空也上人がこの地に巡錫中、(天徳年間957~960)住民の希望により自刻の木像を残したのがこの像である。
画像は、三輪田米山の墓で、浄土寺にある。
米山と言えば酒がすぐ連想される。自宅(日尾八幡神社の神官自宅)の前には、後藤酒造「久米の井」がありよく酒を飲みに行ったそうだ。後に面白可笑しく大分拡張だれ伝えられているが、酒がお好きであった事には間違いなく、酔われてから筆をとられた事も事実、飲まないで書かれた事も事実である。多くの名筆を残し明治41年11月3日、88歳の高齢で生涯を閉じた。
米山は、王義之の粋を学び取り独特の書風を体得、その書風は米山流と称された。
墓碑銘の文字は、門弟の懇望によって「米山三輪田先生墓」と、米山が生前揮毫していたものを使用した。表面が、米山三輪田先生墓、裏面に、教正自取筆、明治廿七年甲午冬十一月習書、明生中建之 明治四十一年十一月三日逝去 年八十八・・と書かれている。
松山市指定文化財となっている。
西林寺を出立して遍路石の道案内を得ながら浄土寺に無事着いた。
久米地区の真ん中を南から北に遍路する道である。
最近は外国人のお遍路さんが目立ち、四国遍路も国際化されて来た。
今年終戦後70年になる。
外国人のお遍路さんに、英語でのお接待が出来る様にと徳島市では、四国遍路のお接待についての講習会を開催さし心からのお持て成しをすることが主旨。
四国霊場第49番浄土寺の山門前の石段を上がると左側に建っている。
大きさは縦31cm・横31cm・高さ125cm。
文字は、東面に、南を指す指印、下に「四十八番へんろみち」。
南面は、西を指す指印。下に「五十番へんろ道」。
西面は、横に「施主」、その下に二段に分けて「重松伝蔵・三好甚八・仙波良次郎」「高市重蔵・高市吉儀・安永儀太郎」。
北面に、「明治四十五年三月」「世話人安永儀太郎」。と二行書きされている。
今から103年前に建立された。
西面で、横に「施主」、その下に二段に分けて「重松伝蔵・三好甚八・仙波良次郎」「高市重蔵・高市吉儀・安永儀太郎」と書かれてある。
北面で、「明治四十五年三月」「世話人安永儀太郎」。と二行書きされている。
北西からの遍路石。
山門前、東北斜めからの遍路石。
東面の、南を指す指印、下に「四十八番へんろみち」が見える。
お寺さんが竹で柵を造ったので字が柵に隠れて所々見ぬくい。
四国霊場第49番浄土寺の山門前の石段を上がると左側に建っている。
四国霊場第49番浄土寺の境内。
左から、本堂、大師堂、庫裏(納経所)、右端に鐘楼がある。
49番浄土寺の本堂。本堂に国指定重要文化財「空也上人の立像」がある。
画像が、昭和28年国指定の重要文化財「空也上人像」。
霜月の空也は骨に生きにける 子規の句は有名である。
空也上人は、平安中期(903~973)の僧で、20歳の頃尾張の国分寺で剃髪出家、自ら空也と名乗った。乞食とも思われる姿で全国を行脚、民衆の為に道路を開き、橋を架け、井戸を掘るなど社会に貢献した。浄土寺の寺伝では、空也上人がこの地に巡錫中、(天徳年間957~960)住民の希望により自刻の木像を残したのがこの像である。
画像は、三輪田米山の墓で、浄土寺にある。
米山と言えば酒がすぐ連想される。自宅(日尾八幡神社の神官自宅)の前には、後藤酒造「久米の井」がありよく酒を飲みに行ったそうだ。後に面白可笑しく大分拡張だれ伝えられているが、酒がお好きであった事には間違いなく、酔われてから筆をとられた事も事実、飲まないで書かれた事も事実である。多くの名筆を残し明治41年11月3日、88歳の高齢で生涯を閉じた。
米山は、王義之の粋を学び取り独特の書風を体得、その書風は米山流と称された。
墓碑銘の文字は、門弟の懇望によって「米山三輪田先生墓」と、米山が生前揮毫していたものを使用した。表面が、米山三輪田先生墓、裏面に、教正自取筆、明治廿七年甲午冬十一月習書、明生中建之 明治四十一年十一月三日逝去 年八十八・・と書かれている。
松山市指定文化財となっている。