初代藩主、加藤嘉明、2代藩主、蒲生忠知は外様大名であったが、3代目松平定行から親藩として伊予松山藩は藩政を一新した。伊予松山藩主松平定行の血は第3代目で絶え、第4代藩主は、今治藩主、松平美作守定時の子、定直が藩主となる。定直の父は定房で今治藩初代藩主であり、伊予松山藩主松平定行の実弟である。その後4代継承するが、嫡男が出来ず再び養子を迎える。第9代は、徳川御三卿の一つ田安宗武の次男、定国が藩主となる。
田安宗武は、第8代将軍徳川吉宗の次男で、田安家の初代当主である。伊予松山藩は益々親藩として色濃くなっていく。その後3代続くが血は絶える。
定国の実弟が有名な松平定信(江戸幕府老中・白河藩主)である。
第12代藩主となる定穀(さだよし)は、薩摩藩主、島津斉宣の11男が養嗣子となる。
この時代第13代将軍に徳川家定が職に就き、伊予松山藩主、松平定穀は、名を勝善と改名
これは徳川家定に遠慮しての事だ。
勝善もまた子宝に恵まれなかった。田安徳川家当主、徳川斉匡の子、錦之丞を養子とすることが内定していたが福井藩主、松平斉善が突然死去したので、将軍徳川家慶の意向により錦之丞はそちらの跡取りとされてしまい、勝善との養子縁組話は解消されてしまった。この錦之丞がのちの幕末の名君として知られる松平春嶽である。
このため讃岐高松藩主、松平頼恕の6男、増之助(のち勝成)を婿養子とし第13第松平勝成が誕生。
勝成もまた子宝に恵まれず、先代勝善の娘(貞恭院殿)を養女とし、伊勢津藩主、藤堂高猷の5男練五郎を養子とし、そして第14代で定を復活させ、松平定昭とした。
明治以降伊予松山松平は、本姓である久松姓に戻した。
松平定昭も子宝に恵まれず、旗本、松平勝実の3男が伊予松山久松家を継ぎ第16代当主、久松定謨(ひさまつ さだこと)となり、以後、久松定武(愛媛県知事5期歴任)久松定成(初代靖国神社崇敬奉賛会会長)現在は、第19代久松定智氏である。
伊予松山藩主は松平定行が第3代目藩主となり、その後他家から婿養子を迎えながら存続して来た。そして城を護って来た。天明4年落雷で焼失、安政元年天守再建、その後昭和8年7月9日放火により画像のごとく本壇の建造物は焼失した。国宝天守は何とか残った。
明治政府は、明治6年廃城条例を発布、各地から存続請願がだされ、伊予松山城は、市民の憩いの場(公園)としての存続を大久保利通内務卿に請願、木戸孝允内務卿から存続の許可が下りた。その許可証は愛媛県立図書館に保管されている。
明治新政府は、各地方から天守存続願いが出され19の天守の存続を許可した。
しかし先の大戦で、広島、福山、岡山、和歌山、名古屋、大垣は戦災で焼失、そして松前天守は不審火で焼失した。現在12の天守が現存する。(弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、松江、備中松山、丸亀、高知、宇和島、伊予松山)で伊予松山天守が一番新しい。
昭和8年7月9日放火され、暫く復元工事着手出来なかった。昭和41年本壇小天守の復元工事に着手、同43年5月に竣工し画像のごとく旧状に復した。その後本丸の復元を行い平成2年、太鼓門西塀を復元し計画していた伊予松山城本丸復元工事は完了した。
故、坂東三津五郎さんお好みの天守の一つ伊予松山城で、「日本の城ミステリー紀行」の案内人として放映されたバックの画像が伊予松山城天守であった。坂東三津五郎さんのお蔭で多くの方々が松山城に来て頂いている。
坂東三津五郎さんが特にお勧めの松山城の景観の場所です。
坂東三津五郎さんが特にお勧めの松山城の景観の場所、それは、乾門を出てから望む所で、屏風折れの石垣に続塀がありその後ろに本壇の建造物を望む松山城一番の見所です。
此処での撮影は、午後がよく、午前中は逆光になる。
此方の絵は、俳優の榎木孝明さんが描かれた松山城で、榎木孝明さんお勧めの場所です。
場所は、大手門跡から隘路をみて、石垣の奥に太鼓櫓を望み一番奥に天守を望むいい場所です。
俳優の榎木孝明さんお勧めの所です。
俳優の榎木孝明さんが描かれた伊予松山城天守です。
写真で撮るとこんな感じです。榎木孝明さんが描かれた時期は12月だったので落葉樹の葉は落ち天守がよく見通すことが出来た。
三越松山店で、平成24年12月25日~平成25年1月6日迄開催された「榎木孝明絵画展」。
安政元年に再建された江戸時代最後の古城として最も新しく、完全な連立式天守が現存している。
画像は、本壇の中庭から見た天守です。日本三代連立式天守の一つです。(姫路城、和歌山城、伊予松山城)。
田安宗武は、第8代将軍徳川吉宗の次男で、田安家の初代当主である。伊予松山藩は益々親藩として色濃くなっていく。その後3代続くが血は絶える。
定国の実弟が有名な松平定信(江戸幕府老中・白河藩主)である。
第12代藩主となる定穀(さだよし)は、薩摩藩主、島津斉宣の11男が養嗣子となる。
この時代第13代将軍に徳川家定が職に就き、伊予松山藩主、松平定穀は、名を勝善と改名
これは徳川家定に遠慮しての事だ。
勝善もまた子宝に恵まれなかった。田安徳川家当主、徳川斉匡の子、錦之丞を養子とすることが内定していたが福井藩主、松平斉善が突然死去したので、将軍徳川家慶の意向により錦之丞はそちらの跡取りとされてしまい、勝善との養子縁組話は解消されてしまった。この錦之丞がのちの幕末の名君として知られる松平春嶽である。
このため讃岐高松藩主、松平頼恕の6男、増之助(のち勝成)を婿養子とし第13第松平勝成が誕生。
勝成もまた子宝に恵まれず、先代勝善の娘(貞恭院殿)を養女とし、伊勢津藩主、藤堂高猷の5男練五郎を養子とし、そして第14代で定を復活させ、松平定昭とした。
明治以降伊予松山松平は、本姓である久松姓に戻した。
松平定昭も子宝に恵まれず、旗本、松平勝実の3男が伊予松山久松家を継ぎ第16代当主、久松定謨(ひさまつ さだこと)となり、以後、久松定武(愛媛県知事5期歴任)久松定成(初代靖国神社崇敬奉賛会会長)現在は、第19代久松定智氏である。
伊予松山藩主は松平定行が第3代目藩主となり、その後他家から婿養子を迎えながら存続して来た。そして城を護って来た。天明4年落雷で焼失、安政元年天守再建、その後昭和8年7月9日放火により画像のごとく本壇の建造物は焼失した。国宝天守は何とか残った。
明治政府は、明治6年廃城条例を発布、各地から存続請願がだされ、伊予松山城は、市民の憩いの場(公園)としての存続を大久保利通内務卿に請願、木戸孝允内務卿から存続の許可が下りた。その許可証は愛媛県立図書館に保管されている。
明治新政府は、各地方から天守存続願いが出され19の天守の存続を許可した。
しかし先の大戦で、広島、福山、岡山、和歌山、名古屋、大垣は戦災で焼失、そして松前天守は不審火で焼失した。現在12の天守が現存する。(弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、松江、備中松山、丸亀、高知、宇和島、伊予松山)で伊予松山天守が一番新しい。
昭和8年7月9日放火され、暫く復元工事着手出来なかった。昭和41年本壇小天守の復元工事に着手、同43年5月に竣工し画像のごとく旧状に復した。その後本丸の復元を行い平成2年、太鼓門西塀を復元し計画していた伊予松山城本丸復元工事は完了した。
故、坂東三津五郎さんお好みの天守の一つ伊予松山城で、「日本の城ミステリー紀行」の案内人として放映されたバックの画像が伊予松山城天守であった。坂東三津五郎さんのお蔭で多くの方々が松山城に来て頂いている。
坂東三津五郎さんが特にお勧めの松山城の景観の場所です。
坂東三津五郎さんが特にお勧めの松山城の景観の場所、それは、乾門を出てから望む所で、屏風折れの石垣に続塀がありその後ろに本壇の建造物を望む松山城一番の見所です。
此処での撮影は、午後がよく、午前中は逆光になる。
此方の絵は、俳優の榎木孝明さんが描かれた松山城で、榎木孝明さんお勧めの場所です。
場所は、大手門跡から隘路をみて、石垣の奥に太鼓櫓を望み一番奥に天守を望むいい場所です。
俳優の榎木孝明さんお勧めの所です。
俳優の榎木孝明さんが描かれた伊予松山城天守です。
写真で撮るとこんな感じです。榎木孝明さんが描かれた時期は12月だったので落葉樹の葉は落ち天守がよく見通すことが出来た。
三越松山店で、平成24年12月25日~平成25年1月6日迄開催された「榎木孝明絵画展」。
安政元年に再建された江戸時代最後の古城として最も新しく、完全な連立式天守が現存している。
画像は、本壇の中庭から見た天守です。日本三代連立式天守の一つです。(姫路城、和歌山城、伊予松山城)。