「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

昨夜のフジテレビ「栄光なき天才たち」はいい番組でしたね。

2016年08月14日 19時04分22秒 | テレビ番組

現在テレビでは、リオ五輪サッカー男子準々決勝ブラジルvsコロンビア戦の再放送らしき試合をやっています。

これまでゴールのなかったネイマールがFKを叩き込み、スタジアムが盛り上がっています。放送の途中で他会場の結果をアナウンサーが伝えて、ホンジュラスが韓国に勝ったという情報も知りました。

これで準決勝はブラジルvsホンジュラスになるのかなと思いながら書いています。

昨夜21時からフジテレビ系列で放送された「栄光なき天才たち~名も無きヒーローに学ぶ幸せの見つけ方~」を見ました。2時間10分もの時間枠で、3組の「光のあたった成功者」と「その成功者の陰に隠れてしまった名も無きヒーロー」を対比させた番組でした。

「光のあたった成功者」として中田英寿氏、故・スティープ・ジョブズ氏、羽生善治氏を取り上げ、彼ら以上の天才と言われたにもかかわらず、彼らのような成功者になれなかった「栄光なき天才たち」にスポットをあてているわけです。

番組の中で最初に取り上げられたのが中田英寿氏で、その陰に隠れてしまった「栄光なき天才」とは財前宣之氏だったのです。

中田英寿氏と財前宣之氏、2人の歩んだ道のりについて45分ぐらいにわたって描いていましたので、かなり濃密な内容でした。

番組のサブタイトルに「名も無きヒーローに学ぶ幸せの見つけ方」とあるように、栄光なき天才・財前宣之氏の歩みが挫折と屈辱に満ちたサッカー人生だったのではなく、彼なりの幸せな今につながっているという締め方になっています。

最初のほうで、1993年に日本で開催されたU-17世界選手権での日本代表が紹介されました。この大会で10番を背負って、見事チームを決勝トーナメントに導いたエースが財前宣之選手でした。

この大会に中田英寿選手も出場していましたので、彼のヒストリーが紹介される時は必ずこの大会のことも触れられますが、この時はまだチームへの貢献度が高い攻撃陣の1選手という程度で、圧倒的な主役は財前宣之選手だったのです。(8月15日追記)

私は、1976年生まれのこの世代に、なぜこうも日本代表の中核となるような逸材がキラ星のように多かったのか、これまで特に理由のようなものを考えたことはなかったのですが、今回番組を見て、一つの仮説のようなものに思い至りました。

中田英寿氏を筆頭に、宮本恒靖氏、故・松田直樹氏、戸田和幸氏ら、のちの2002年日韓W杯日本代表の前線から最後尾まで並んだ人材が、U-15代表チームから、ずっと切磋琢磨して、しかもほとんどがU-17、U-19、五輪代表として世界大会を経験しているわけですが、なぜ彼らは、育ったのかということです。

それは、若い時期、チームメイトに飛び抜けた天才をもっていた場合、周りが引っ張られるようにレベルをあげていくという仮説です。

この世代の「飛びぬけた天才」こそが財前宣之氏でした。番組で中田英寿氏も宮本恒靖氏も口を揃えて当時の財前について「彼は別格、彼が日本サッカーを引っ張っていく」と言っています。

この仮説は1979年組にも当てはまると思います。稲本潤一選手、高原直泰選手、遠藤保仁選手、中田浩二氏、小笠原満男選手、本山雅志氏・・・、まさにキラ星とはこの世代のことを呼ぶかのような逸材揃いです。(8月16日,「選手」「氏」を追記)

1999年ワールドユース選手権決勝に駒を進めるという金字塔を打ち立てた世代ですが、彼らの世代の「飛びぬけた天才」とは小野伸二選手です。彼らもまた小野伸二選手に引っ張られるようにレベルをあげていった例です。

番組の話しに戻りますが、財前宣之氏のサッカー人生も、中田英寿氏の近況も、あまり情報がなかったので、とても関心をもって見ました。

彼ら二人は、いみじくも同じイタリアの地で、その後のサッカー人生の分岐点となる体験をします。

1995年、ヴェルディ川崎のトップチームに昇格した財前選手は、イタリアセリエA・ラツィオに1年間サッカー留学という形で所属しますが、イタリア語をしゃべれないまま参加したことでコーチ陣とうまくコミュニケーションがとれず、ケガをしていてもムリを重ねてしまうという経験をしてしまうのです。

その結果招いたのが、選手生命にかかわるような大ケガでした。

一方の中田英寿選手、1995年にベルマーレ平塚に入団してから着々と実力をつけ、1997年に日本代表に招集されると、すぐチームの中核的存在になります。そして同年のフランスW杯アジア最終予選、いわゆる「ジョホールバルの歓喜」をもたらした試合ではピッチの絶対的王様として君臨し、文字通り日本のエースの座を不動のものにします。

明けて1998年、それこそ満を持してイタリアセリエA・ペルージャに移籍したわけです。財前宣之氏は、振り返りました。「自分は何の準備もせずにイタリアに渡ってしまった。ヒデは万全の準備をしてイタリアに渡った。ああいう人が成功するのかなと思った。ヒデは『準備の天才』だ」と。

もう一つ財前氏が悔やんだこと、それは長い時間をかけて治療とリハビリをすべき大ケガへの対応でした。完治しないままピッチに戻ってしまったのです。治療とリハビリのため1年以上にも及ぶブランクを作ることへの焦燥感は大変なものだと思います。

そこをどう乗り切るかで、その後の人生がかわってしまうのです。そういう場合、選手一人だけで乗り切れるものではありません。ドクターとの連携をもとに「安心して治療しろ」と言ってくれるチーム関係者からの支えなくして、とても完治までの期間を安心して過ごすことなどできません。

その意味で、財前選手は当時、所属していたチームに恵まれなかったと言わざるをえません。選手がケガをしたら、それは自己責任、チーム内には「誰かレギュラーがケガをしたら自分に出番が回ってくる」と常にチャンスをうかがっている選手が大勢います。ケガをした選手は顧みられないのです。(8月15日記述修正)

しかし全てのチームがそうかというと、決してそうではありません。むしろ「選手のケガはチームの損失であり、全力をあげてサポートしケアをする」そう考えているチームのほうが多数派ではなでしょうか。

現に彼は、後年、3度目の大ケガをした際に所属していたベガルタ仙台で、当時監督をしていた清水秀彦氏に「背番号10をあけていつまでも待つから」と言ってもらったおかげで、十分なリハビリと復帰へのプログラムをこなして見事復活しているのです。

財前選手にとって仙台が、かけがけのない地となったことは、現在の彼が物語っています。いま彼は、仙台の地に住み、自分の名前をスクール名にしたサッカー教室を主宰しているのです。(8月15日追記)

番組の最後のほうで、中田英寿氏が事あるごとに開催しているチャリティマッチを、2011年にタイで開いた時のことが紹介されています。この時、財前選手はタイのリーグでプレーしていたのです。すでに35歳近くになっていた財前をチャリティマッチに呼び、再会を果たしたわけです。

3度の大ケガに見舞われながらも35歳まで現役サッカー選手を続けられた財前選手、誰もが日本代表の絶対的エースとして今後も君臨し続けるだろうと思っていたのに29歳の若さであっさりとサッカー選手から身を引いてしまった中田英寿選手、番組のサブタイトルにある「名も無きヒーローに学ぶ幸せの見つけ方」の一つの答えでもあろうと思います。

中田英寿氏は引退を決めた動機について言いました。「誰かを目標に、うまくなろうとして自分を追い込んでいるうちは楽しかったが、自分がエースとして、チームを引っ張らなければならない立場になってしまったので、ちょっと狂ってしまったなぁ」と。

つまり、中田英寿選手の思いは「エースではあっても、チームを引っ張ったり、まとめたりすることまでは勘弁してほしいなぁ」ということではないかと思います。

中田英寿選手は、選手生活の中で過去一度だけ同じ立場にたったことがあります。それは山梨県・韮崎高校3年の時です。すでに1993年のU-17世界選手権代表であり、前年の高校選手権でも2年生ながら全国大会にその名を響かせていた中田選手です。

3年時はキャプテンとして山梨県予選に臨みましたが、韮崎高校は全国大会出場権を逃しています。

私は、これらのことを繋ぎ合わせて考えると、中田英寿選手はやはり「孤高の人」だと感じます。チームの輪の中心にいてリーダーシップを発揮して、周りの力も高めてしまう効果をもたらすタイプではないということです。

だからといって中田英寿選手の選手としての評価が、いささかも貶め(おとしめ)られるものではありません。人間には誰しもタイプというものがあり、得手不得手があるからです。

どういう集団でも、およそ集団というものは、その構成員によって、さまざまな様相を見せます。それがスポーツチームのような競技集団、勝負を決するための集団の場合は、指導者とチームリーダーによって、いかようにでも性格が変わってきます。

孤高のリーダーと、文字通りチームリーダーとではチームの性格がまるで違ってしまいます。孤高のリーダーを抱いたチームは、冷めた雰囲気のチームになり、文字通りチームリーダーを抱いたチームは、力のベクトルが同じ方向を向き、時として実力以上の力を発揮できることがあります。

したがって、チーム作りをする時は、エースが孤高の人である場合、その見極めなしにチームリーダーにしてしまうことは危険です。エースはエースなのですが、ほかに、チームの輪の中心にいるべき人物は誰なのか、誰をリーダーに据えればベクトルが同じ方向を向くのか、そうした洞察が求められると思います。

2006年ドイツW杯の日本代表では、キャプテンは宮本恒靖選手であり、彼は2004年のアジアカップでもキャプテンとしてレフェリーに掛け合いPK戦のエンドを変更させるなどの力を発揮していましたが、チームの輪の中心にいて鼓舞したり、実力以上のものを出させてしまうタイプではなかったと思います。

そういう意味では、つまるところ中田英寿選手の肩にチームの浮沈がかかってしまうという不幸な状況にしてしまった、チーム作りの失敗とみるべきだと思います。

私は中田英寿選手を、どこから見ても紛れもない成功者として見てきましたが、サッカー人生の集大成近くの段階で、大きな挫折に見舞われたのではないかと、ふっと感じました。

そういったことまで気づかせてくれたという意味でも、この番組はいい番組だったと思いますが、二つほど物足りない点を感じました。

一つは財前選手の生い立ちです。彼はお世辞にもサッカー先進地域とはいえない北海道室蘭の出身ですが、彼を彼たらしめたのは兄・恵一氏の存在だったろうと思います。財前恵一氏は室蘭大谷高校の選手としてチームを全国高校サッカー選手権でベスト4に導き、将来を嘱望されて日産自動車(のちの横浜マリノス)に入団しています。

弟・宣之少年にとっては、まさに憧れの兄であり、兄の背中を追ってサッカーボールに戯れ、テクニックに優れた選手になっていったことは想像に難くありません。その点にも触れて欲しかったと思います。

もう一つは、番組コメンテーターとして出演していた前園真聖氏に、もう少し中田選手のことを話すチャンスを与えて欲しかったことです。

放送では司会の「爆笑問題」田中さんが、「前園さんは財前選手のことはご存知ですよね」と振っていましたが「中田英寿選手とはどうだっんですか?」とは聞いてくれませんでした。

実は中田選手がまだJリーガーになりたての頃、前園氏がアトランタ五輪代表のキャプテンとして、まさにエースの座にあり、五輪代表に招集された中田選手にとっては、前園キャプテンのあとをついて歩く兄貴分と弟分という関係だったからです。

「日清ラ王」のCMに共演していた映像などを織り交ぜて紹介してくれればサイコーだったと思います。

番組は、冒頭でもご紹介しましたが、アップルコンピュータのスティーブ・ジョブズ氏、将棋の羽生善治氏にまつわる方の物語もあり、結局23時10分まで見てしまいました。それほど、いい番組でした。

いろいろな事を感じながら見たこともあり、書き込みもずいぶん長くなってしまいました。

 

 


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