JR福知山線の尼崎付近で起こった脱線・転覆事故で107名が死に、562人が重軽傷を負った事故から早くも3年が経った。
その年は、我が娘が関西地方の専門学校に入学した年であり、宝塚ファンなので、福知山線(宝塚線とも言う)も良く利用していたから、他人事ではなかった。
私や妻も宝塚観劇の折は、宝塚線を利用していたので、事故を重く受け止めた。
その日の昼休みには、娘のケイタイに電話を掛けて安否を確認したのは言うまでもない。娘もそのニュースにとても驚愕していた。
この死傷者の数は、鉄道事故では近年未曾有のものであった。
交通機関の事故での多数の死者が出たのは、日航機が御巣鷹山に墜落して500名以上が死亡した事故以来の事態であった。
事故の主たる原因は、運転手の焦りから来る速度オーバーであったが、そこに至る心理的圧迫感がJRの「儲け第一主義」にあることは確かであった。当時のJR西日本の営業目標の第一が「稼ぐ」であったことが象徴的にその体質を顕していた。
「儲け第一主義」のため、設備投資に多額の費用が掛かる列車の自動制御装置ATCの導入を先送りにしていたことも事故を防げなかった大きな原因である。
平行して走る阪急宝塚線は当時既にATCを完備していたことから考えると、国が責任を負うJRがこれを怠っていたことは重大な問題であった。
その後の、事故調査や事故の犠牲者や家族への説明の状況を見ていると、JR西日本の体質が根本的に改まった様子は今もない。
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募る悲しみ、苦しみ抱え 尼崎JR脱線事故から3年(神戸新聞) - goo ニュース
2008年4月25日(金)23:45
百七人が死亡、五百六十二人が負傷した尼崎JR脱線事故は二十五日、発生から丸三年を迎えた。遺族らは発生時刻の午前九時十八分、尼崎市久々知の事故現場などで、最愛の家族や友人らの冥福を静かに祈った。同市総合文化センターでは追悼慰霊式が開かれ、計千二百七十二人が参列。JR西日本の山崎正夫社長(64)は「悲惨な事故を二度と起こすことのないよう、不退転の覚悟で取り組んでいく」と誓った。
■献花台
事故が起きた現場のマンション北側に設けられた献花台には、家族や知人を亡くした人らが次々と訪れた。今も残る衝突の生々しい傷跡をじっと見つめる人、こらえきれずにその場でうずくまる人、惨事の現場に今年もさまざまな思いを刻んだ。
妻の博子さん=当時(54)=を亡くした川西市の山田冨士雄さん(58)は「献花台に来て、遺体安置所の光景がよみがえった。きょうは、あの日のことを思い出してあげないといけない日。彼女のために思い出をいっぱいはき出したい」とかみしめるように語った。
■慰霊式
追悼慰霊式には、遺族八十五組三百九十三人、負傷者百四十三組二百六十二人が参列。事故が起きた午前九時十八分、全員で黙とうをささげた。
冬柴鉄三・国土交通相の追悼の言葉に続き、JR西の山崎社長が壇上へ。謝罪の言葉とともに「企業体質や風土を変革していくため、先頭に立って取り組んでいく」と決意を述べた。
遺族を代表し「慰霊のことば」を述べた伊丹市の大前万喜さん(65)は「乗客は、運賃で安全も買っている。それを忘れずにいてほしい」とJR西に訴えた。
■電車内
午前八時五十八分。脱線事故発生時と同じ時間帯の同志社大前行き快速電車が、宝塚駅をゆっくりと出発した。
がらんとした一両目は伊丹駅を過ぎるころ、会社員や学生らで埋まった。いったん上がった速度は、カーブ手前で時速約三十キロまで減速。
車内にアナウンスが流れた。「わたしたちはこの事故を決して忘れることなく」「お客さまから高い安心と信頼を…」。
警笛が鳴り響くと、自然とつり革を離す乗客が増えた。手を合わす先は事故現場のマンション。カーブを通り過ぎるまで、車内は静寂に包まれた。
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【関連記事】
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その年は、我が娘が関西地方の専門学校に入学した年であり、宝塚ファンなので、福知山線(宝塚線とも言う)も良く利用していたから、他人事ではなかった。
私や妻も宝塚観劇の折は、宝塚線を利用していたので、事故を重く受け止めた。
その日の昼休みには、娘のケイタイに電話を掛けて安否を確認したのは言うまでもない。娘もそのニュースにとても驚愕していた。
この死傷者の数は、鉄道事故では近年未曾有のものであった。
交通機関の事故での多数の死者が出たのは、日航機が御巣鷹山に墜落して500名以上が死亡した事故以来の事態であった。
事故の主たる原因は、運転手の焦りから来る速度オーバーであったが、そこに至る心理的圧迫感がJRの「儲け第一主義」にあることは確かであった。当時のJR西日本の営業目標の第一が「稼ぐ」であったことが象徴的にその体質を顕していた。
「儲け第一主義」のため、設備投資に多額の費用が掛かる列車の自動制御装置ATCの導入を先送りにしていたことも事故を防げなかった大きな原因である。
平行して走る阪急宝塚線は当時既にATCを完備していたことから考えると、国が責任を負うJRがこれを怠っていたことは重大な問題であった。
その後の、事故調査や事故の犠牲者や家族への説明の状況を見ていると、JR西日本の体質が根本的に改まった様子は今もない。
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百七人が死亡、五百六十二人が負傷した尼崎JR脱線事故は二十五日、発生から丸三年を迎えた。遺族らは発生時刻の午前九時十八分、尼崎市久々知の事故現場などで、最愛の家族や友人らの冥福を静かに祈った。同市総合文化センターでは追悼慰霊式が開かれ、計千二百七十二人が参列。JR西日本の山崎正夫社長(64)は「悲惨な事故を二度と起こすことのないよう、不退転の覚悟で取り組んでいく」と誓った。
■献花台
事故が起きた現場のマンション北側に設けられた献花台には、家族や知人を亡くした人らが次々と訪れた。今も残る衝突の生々しい傷跡をじっと見つめる人、こらえきれずにその場でうずくまる人、惨事の現場に今年もさまざまな思いを刻んだ。
妻の博子さん=当時(54)=を亡くした川西市の山田冨士雄さん(58)は「献花台に来て、遺体安置所の光景がよみがえった。きょうは、あの日のことを思い出してあげないといけない日。彼女のために思い出をいっぱいはき出したい」とかみしめるように語った。
■慰霊式
追悼慰霊式には、遺族八十五組三百九十三人、負傷者百四十三組二百六十二人が参列。事故が起きた午前九時十八分、全員で黙とうをささげた。
冬柴鉄三・国土交通相の追悼の言葉に続き、JR西の山崎社長が壇上へ。謝罪の言葉とともに「企業体質や風土を変革していくため、先頭に立って取り組んでいく」と決意を述べた。
遺族を代表し「慰霊のことば」を述べた伊丹市の大前万喜さん(65)は「乗客は、運賃で安全も買っている。それを忘れずにいてほしい」とJR西に訴えた。
■電車内
午前八時五十八分。脱線事故発生時と同じ時間帯の同志社大前行き快速電車が、宝塚駅をゆっくりと出発した。
がらんとした一両目は伊丹駅を過ぎるころ、会社員や学生らで埋まった。いったん上がった速度は、カーブ手前で時速約三十キロまで減速。
車内にアナウンスが流れた。「わたしたちはこの事故を決して忘れることなく」「お客さまから高い安心と信頼を…」。
警笛が鳴り響くと、自然とつり革を離す乗客が増えた。手を合わす先は事故現場のマンション。カーブを通り過ぎるまで、車内は静寂に包まれた。
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