醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  256号   聖海(白井一道)

2016-04-06 12:58:24 | 随筆・小説

 「春愁や恥ずかしながら腹が減り」 俳誌「野火」に掲載された主宰者、菅野孝夫氏の俳句について感じたこと

 俳誌「野火」四月号が送られてきた。ページを開き、声を出して笑った句があった。その句は「春愁や恥ずかしながら腹が減り」というものである。笑った。この笑いに俳句の伝統を感じた。
俳句は笑いである。談林の俳諧の中から芭蕉が唱えた蕉風の俳諧が生まれ、その発句が俳句になった。談林の俳諧から現代の俳句にいたるまで俳諧の本質、「笑い」は伝統として継承されてているのを俳誌「野火」の主宰者・菅野孝夫氏の句にあるのを感じた。
季語「春愁」は大きな大きな縦題季語である。『万葉集』編纂者だと云われている大伴家持の歌に有名な春愁三首がある。
「春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影にうぐひす鳴くも」
「わが宿のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも」
「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば」
大伴家持は今からおよそ一三〇〇年前にすでに春の愁いを詠い上げている。更に家持は書いている。「春の日はのどかで今しもひばりが鳴いている。愁い悲しむ心は歌を詠まないでは払うことができない。そこでこの歌を作って気分をはらすのである」と。
日本近代の詩人、萩原朔太郎は著書『郷愁の詩人・与謝蕪村』の中で次のような文章を書いている。
「遅き日のつもりて遠き昔かな」「
「春雨や小磯の小貝ぬるるほど」
「行く春や逡巡として遅桜」
「歩行(ありき)歩行(ありき)もの思ふ春の行衛かな」等の蕪村の句をあげ、その「句境は、万葉集の歌、[うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば]―中略―などと同工異曲の詩趣であって、春怨思慕の若々しいセンチメントが、句の情操する根柢を流れている」。
萩原朔太郎はこのように書き、大伴家持の詩趣は蕪村に継承され、朔太郎もこの詩趣を継承しているということであろう。万葉集から蕪村、朔太郎へ継承されてきているその詩趣とは「春愁」である。
天平に生きた若者も、明治に生きた若者も、その時代の先端を行った若者が持つ春の愁いを詠いあげている。春愁を詠いあげたのは若者なのだ。若者の愁いが「春愁」なのだ。
年が寄り付き、額に皴が刻み込まれてくると「春愁」は遠い過去のものになってしまっているのだ。若かったころ、一人前に春の愁いに苦しんだことなど微塵も心の中に残っていない。探そうにも探しようがない状況である。どうしてあんなつまらないものにくよくよしたのか、自分でも分からない。そんな自分を笑ってみたい。健気な自分だったじゃないか。
 「春愁や恥ずかしながら腹が減り」
 社会の底辺に生きる庶民は自分を笑って自分を生きる。芭蕉は身分制社会、江戸時代の底辺に生きた庶民、平民が自分を堂々と生きる術、自分を笑う文芸、俳諧を創造した。その俳諧は俳句として笑いの伝統が生き長らえている。そのような俳句の伝統が菅野氏の句にはあるのかなと感じて、私は笑った。