まずは、枯山水庭園を堪能する
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📸2023年8月22日:作庭家・中島健の手に成る枯山水庭園。 (画像をクリックすると大きな画像が表示される。{戻る}ボタンで元のページに復帰)
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📸2023年8月22日:この石庭は眼下に流れる多摩川を表現しているのだとか。 (画像をクリックすると大きな画像が表示される。{戻る}ボタンで元のページに復帰)
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📸2023年8月22日:緑に染まる楓、眼下を流れる多摩の川面、その流れに抗うように峭立する巌。 (画像をクリックすると大きな画像が表示される。{戻る}ボタンで元のページに復帰)
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📸2023年8月22日:石庭の右手、第二展示室の先には当時の画室(随軒:ずいけん)が再現されている。 (画像をクリックすると大きな画像が表示される。{戻る}ボタンで元のページに復帰)
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📸2023年8月22日:多摩川を背に、美術館のエントランスに対す。 (画像をクリックすると大きな画像が表示される。{戻る}ボタンで元のページに復帰)
川合 玉堂(かわい ぎょくどう、1873年11月24日生~1957年6月30日没)は明治・大正・昭和の世を画業一筋に生き、日本の原風景をこよなく愛し、そこに溶け込むように生きる市井の民の姿をも活写することで知られた日本画家である。
先の大戦の折、疎開のため頻繁に訪れていた現・青梅市御岳に庵を結び、終戦後も「偶庵(ぐあん)」と号した庵に定住することとなる。
この 玉堂美術館は、当地御岳をこよなく愛した玉堂の偉業を顕彰しようとして建造された個人美術館とされる。
上記した第二展示室には玉堂の小品をはじめ、陶芸家であった次男川合修二の作品が展示されている。玉堂が筆を執り、修二が作陶した絵皿なども展示されていたよ。
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玉堂の絵を一つ、二つ、・・・
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📸2023年8月22日:『鮎釣』昭和21年作 (画像をクリックすると大きな画像が表示される。{戻る}ボタンで元のページに復帰)
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📸2023年8月22日:『鵜舟』昭和17年作 (画像をクリックすると大きな画像が表示される。{戻る}ボタンで元のページに復帰)
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📸2023年8月22日:若き日の写生『鳶』 (画像をクリックすると大きな画像が表示される。{戻る}ボタンで元のページに復帰)
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📸2023年8月22日:若き日の写生『紫鶺鴒』(ウグイス) (画像をクリックすると大きな画像が表示される。{戻る}ボタンで元のページに復帰)
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📸2023年8月22日:若き日の写生『魚狗』(カワセミ) (画像をクリックすると大きな画像が表示される。{戻る}ボタンで元のページに復帰)
最近の美術館や博物館では、作品を限定したり、フラッシュを使用しなければという条件付きでカメラ撮影OKですよってところが多くなってきた。
先日の日記にも記述したが、15年ほど前、僕が毎年のように青梅を訪れていた折りには、少なくともこの美術館でも撮影は許可されていなかったように思う。
もっとも、撮影はいいけど無断で写真を発表しちゃいけないよってところだってあるだろう。著作権ってやつはかくも面倒なものなのである。そこで、念の為、改めて電話で尋ねたところ、「結構ですよ」とのお返事を頂戴した。しかし、ガラス越しに撮影などしたことなど滅多になかったため、とてもご覧いただけるシロモノではない。まぁ、雰囲気だけでもお感じ頂ければ幸いである。
個人美術館を標榜するだけあって、滅多に他の作家の作品は展示されることはない。この美術館には、玉堂十代半ばの写生から84歳の絶筆に至る300点ほどの所蔵品があるという。美術館概要には、「展示替は年7回行われ、その季節に見合った作品が展示されています。」とある。確かに、『鮎釣』、『鵜舟』など、この季節に相応しい作品ではないだろうか。
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📸2023年8月22日:「猿芝居」大正3年作 (画像をクリックすると大きな画像が表示される。{戻る}ボタンで元のページに復帰)
最後に、この一点「猿芝居」と題された作品である。
これを見て、僕はこの美術館をさる。
お後がよろしいようでm(_ _)m
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玉堂氏は私の住んでる愛知県一宮市木曽川町出身
市の図書館のスグ近くが生家で何となく親しみが
湧き、好く展示会に見学に行きました。こんな有名
な人❓初めはトント知りませんでした。もう1人
目のコンタクト発明者さんも木曽川の人でした。
ついコメントしたくなりお邪魔してしまいました
川合玉堂(日本画家)
山口恵照(哲学研究者)
三岸節子(洋画家)
田中恭一(メニコン創設者)
:
のんこさん、こんにちは。
うわっ、木曽川町とは偉人を輩出する、そんな風土なのでありましょうか!
よい所にお住まいですね。
青梅・御岳は、拙宅より車で1時間ほどですので再々訪れました。
その名の通り、春ともなれば各所で梅がほころび、御岳では山野草が各所で咲き乱れます。
ただ、日記にも書いた通り、ウメ輪紋ウイルスの感染で梅が伐採されてから足が遠のいていましたので、15年ぶりの訪問となった次第です。
玉堂同様、作家の吉川英治も疎開を契機に戦中戦後の9年間ほどを青梅で暮らしたとのことです。
両者ばかりでなく、青梅は東京の奥座敷などと呼ばれ、往時の著名人が戦火を逃れて逗留した地として知られていたようです。
久しぶりの訪れた青梅でしたが、秋には御岳渓谷の紅葉も見応えがあり、(街の人々の話では)梅も復活したようですので、また再々訪れてみようと思っています。
コメント有難うございましたm(_ _)m
ウワ~~凄い~こんなにも偉人さんがお見えでした
のネ. 山口恵照(哲学研究者) この方は初めて?
知りました。
山内一豊 年1回一豊祭りのパレード;墓石も有り
三岸節子 ご夫婦の画材の資料館の展示設置が有り
田中恭一 生家跡の碑が有り
川合玉堂 生家跡の碑が有り
山口恵照 文学博士 大阪大学名誉教授
お陰様で少し勉強に成りました。縁もゆかりも無い
お方でも、なんとなく親しみを感じました。生まれ
故郷‽ふるさととは懐かしい所ですね。
青梅は東京の奥座敷 私の母親は群馬県高崎の生まれ育ちです。青梅の名前だけは良く聞いた覚えが有りますが、行ったことはないです.桐生;与野;へは
母と連れ立ち結婚前に挨拶がてら伺い、帰りにいろは坂をタクシーで下った昔の思い出が有ります。
今は年賀状のやり取りだけになってしまいました
ヒョンナ事から昔昔の思い出迄が浮かび有難う御
座いました。
本当にそうだったか、長じてからの獲得記憶か定かではありません。
のんこさん、こんにちは。
いきなり出てきた「桐生;与野;」との記述、桐生は群馬県、さて、この「与野」とは現・さいたま市の一部の与野かしら?
現在、埼玉・狭山に住まいして30有余年の歳月が流れましたが、それ以前は上記の与野に住まっていました。
懐かしい響きに郷愁を禁じえません。