鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

古日向論(3)神武東征と古日向④

2019-06-18 03:31:03 | 古日向論

この④は「神武東征」とは直接のかかわりはないのだが、もう一つあった東征すなわち「崇神東征」(「大倭東征」と言い換えてもよい)の崇神天皇にかかわることなので付論しておきたい。

崇神天皇の時代に「疫病や抵抗勢力などの勃発で世情が大いに乱れ、人民が半減するような状況になったので、神々に安寧を祈り、とくにアマテラス大神と大和大国魂とを別々に祭ることにした。

アマテラス大神を皇女トヨスキイリヒメに祭らせ、大和大国魂(やまとおおくにたま=大和地方の土地神=国津神)を同じく皇女のヌナキイリヒメに祭らせた。しかしヌナキイリヒメは髪が抜け落ち、やせ細って祭ることができなかった。」(※崇神紀5年条から6年条を簡略化した)

このヌナキイリヒメが土地神である大和大国魂を祭れなかったという事態は、もし崇神王権が大和発生の土着の天皇であればあり得ないことで、これを崇神王権の「外来性」の一つの証左としたことは前項③で指摘した通りである。

さてここからはもう一人の皇女トヨスキイリヒメのことである。

トヨスキイリヒメはアマテラス大神を祭ることができたのだが、そもそもアマテラス大神という神名が登場するのは人皇時代になって初めてのことである。

大和王朝初代と記紀ともに記す神武天皇時代には無かった神名であり、神武天皇が橿原宮で即位する二年前、大和の諸族を平らげ終わった時に詔した中で、「上は乾霊の国を授け給いし徳に答え、下は皇孫の正しきを養い給いし心を弘めん」と、「乾霊(ケンレイ=あまつかみ)」なる用語を使用しており、まだ最高神をアマテラス大神とはしていない。

九州北部出身の崇神天皇は第10代とされているが、古日向出身の神武天皇とは出自が違い、皇統譜の上では古日向出身の神武(タギシミミ)王統にうまく接合して(というより、いわゆる「欠史8代」でぼかしてしまって)いるが、10代およそ150年の間に「天津日の神」だったのが「アマテラス(天照)大神」に落ち着いたのだろう。

この10代150年間、西暦で言えば140年頃から300年頃の間に倭人最高の女王がいた。それが九州邪馬台国の首長ヒミコである。ヒミコの女王としての在位は西暦180年代から247年までの約60年間で、ヒミコという名からして「日御子」(日の巫女)であるから、「日(太陽)の大神を祭っている、祭れる」女王ということに他ならない。

つまりヒミコはトヨスキイリヒメと同様アマテラス大神を祭れたと考えられる。アマテラス大神を体得できたがゆえに戦乱を収め、最高の女王(かつ日の巫女)に成り得たのである。この後継者がヒミコの一族の娘で13歳の台与(トヨ)であった。

トヨの時代は魏の使者が到来してからのヒミコの死があり、後継を巡って女王国内で争乱があったりしてなかなか難しい時代であった。中でもヒミコの時にそうであったように南の大国「狗奴国」の北上進攻に悩まされ、ついに西暦260年代には侵略を許したようである。

その後狗奴国は八女の邪馬台国を併合したが、トヨは併呑される前に逃げおおせたと考える。その行き先は「豊国」であった可能性が高い。

というのも時代は250年ほど下るが西暦527年の頃、八女を本拠地としていた「筑紫の君・磐井」が半島の新羅と組んで官軍にあらがった際、〈筑後風土記逸文〉によれば、官軍にはかなわぬとみた磐井は「ひとり豊前国の上膳県(かみつめのあがた)にのがれ、南山の険しい嶺の曲(くま)に終わりき」と、八女から豊前にまで逃亡し、山中に行方知れずになったというのである。

トヨも筑紫の君・磐井同様の経路で奥八女から豊後と豊前の間にそびえる山中を越えて豊前方面に逃れたと考えておかしくない。

現在の大分県と福岡県の一部が昔の「豊国」だが、この「豊」は邪馬台国女王であったトヨを迎え入れたがゆえに「トヨ」(豊)の国と呼ばれるようになったのではなかろうか。

さてトヨスキイリヒメも実は名を分析してみると「豊の城に入ったヒメ」となるので、こちらも豊国とのかかわりを濃厚に持っていることが分かる。

トヨスキイリヒメは崇神の皇女となっているが、血筋のつながらない者を系譜上に組み込むことは容易であり、トヨスキイリヒメが崇神天皇の皇女である確証はない。

ここでトヨスキイリヒメと邪馬台国女王トヨとを同一人物としたらどうか、というアイデアが浮かんでくる。

どちらも「トヨ」名を負っているうえ、どちらも「アマテラス大神」を祭ることができる。(※トヨもヒミコの後継者であれば、アマテラス大神を体得しているはずである。)

時代的にも邪馬台国女王トヨはヒミコの死(247年)の直後に後継した時の年齢が13歳であるから、西暦235年頃の生まれ、またトヨスキイリヒメは崇神天皇の皇女ではないが年齢的には親子関係に当たるとして同じく230年代の生まれとなるので、ほぼ合致する。(※崇神天皇の在位を私見では264年~282年頃と考えている。)

※(追記)宇佐神宮は応神天皇と神功皇后を祭るいわゆる「八幡様」の総本宮だが、もう一柱の神「ヒメノ神」をも祭っていることでも知られている。このヒメノ神の正体がよく分からないでいるようだが、トヨスキイリヒメこと邪馬台国女王トヨではないだろうか。

延喜式神名帳によれば、筑後国の三井郡に「豊比咩(とよひめ)神社」があり、豊前国の田川郡にも「豊比咩神社」がある。これらの祭神「トヨヒメ」は宇佐神宮のヒメノ神の勧請なのではなかろうか。あるいは八女邪馬台国に近いことから女王台与(トヨ)の一族が逃れて来てそこにトヨを「豊比咩」として祭ったのだろうか。

いずれにしても「台与(トヨ)=豊」は動かせない史実であろうと考える。