山田洋次監督の御存じ『男はつらいよ』は、映画として第一話が公開されてから2019年で50年になったという。
1969年の春だったか、テレビで『負けてたまるか』という渥美清好演のドラマがあり、それを受けて今度は渥美清主演で『男はつらいよ』が始まったのだが、最終回で渥美清扮する主人公が奄美大島に出かけ、そこでハブに咬まれて死んでしまうという幕切れとなった。
そうしたらテレビの視聴者から「なんで死なせてしまうんだ」とたくさんのクレームが来たそうである。
山田洋次監督は本当は「家族」をテーマにした本格的な映画を作りたいと思っており、喜劇的な要素の強い『男はつらいよ』は余技的なものと考えていたらしい。しかし評判がいいので映画会社も力を注ぐよう要請があり、こっちに本腰を入れだしたようだ。
それでもまさかこんなに長く撮り続けるとは思ってもみなかったと思う。
やはり主人公役の渥美清に負うところが多いのだろう。渥美清というと「寅さん」がはまり役過ぎてその余は考えにくいが、一筋の役とはいえマンネリに陥らないのは数多くのマドンナ役の登場もだが、渥美清の持つ演技の多様性(喜劇性・悲劇性の両面プラスα)に帰せられる。
さて、車寅次郎は柴又の団子屋のせがれで、死んだ兄と妹のさくらとは腹違いという設定である。本人の母は京都か大阪から東京に出稼ぎに来た芸者で、寅次郎を産んで間もなく帰ってしまう。
恋焦がれたフーテンの寅次郎は今は京都の連れ込みホテルを経営している母に会いに行くのだが、まさに長谷川伸の『瞼の母』の番場の忠太郎と同じで、「ちょっと金でも持っていそうになると、そう言ってタカリに来るんだよ。そうなんだろ」と取り付く島なく、カーッとなった寅次郎はけんか別れをする。これが記念すべき初公開の第一話のあらすじである。
番場の忠太郎は母とそのまま袂を分かち、瞼の裏で母を偲ぶことだけはしたが、寅次郎の場合はこれ以降「母を偲んで云々」は一切なく、旅道中のテキヤ商売と柴又の実家とを行ったり来たりの人生を送る。
この50周年記念映画では、妹さくらと印刷所の社員ひろしとの間の一粒種甥っ子の満男が、夢の中で、高校1年生の時の初恋の相手泉と、どこか砂丘のような海辺で出会うシーンから始まる。
そのあとはさくらやひろしの回想を中心に話が進み、若き日のマドンナたちとのシーンが多く挿入されていて懐かしい。
満男は小説家になっていて、とある出版社から新しい小説を出版したとかで大きな書店でサイン会があった。そこへ何とあの初恋の泉が現れる。本の表紙の裏に「諏訪満男」とサインをした時に、「その横に泉と書いて下さい」と言った購読者の顔を不審気に見上げた時の満男の驚き!
泉は今はジュネーブの国連難民高等弁務官事務所に勤めており、久しぶりの休暇を3日間貰えたので日本に帰り、うち1日は別れた父親の入所している施設へ見舞に行くことにしていた。
サイン会ののちに二人はカフェに行き話し合う。そのカフェのオーナーは実は寅さんのマドンナの一人リリーだった。りりーはようやく泉のことを思い出す。
リリーは寅さんには本当に惚れていて、また寅さんも満更ではなく、沖縄でリリーが倒れた時には一時一軒家を借りて同棲していたのだ(が、抱き合うことはなかった)。
リリー役の浅丘ルリ子はやはり持ち前の明るさが画面を引き立てていた。昔も今も変わらないのはさすがだ。
しかしまだ光っていたのは泉の母役の夏木マリだ。
夏木マリの母役は見かけはややあばずれて派手目の女で、口から出まかせではないかと思うほどよくしゃべるが、旦那に浮気をされ逃げられてしまうという役柄である(娘の泉にとっては父親が不在のまま成長することになった)。
一見するとよくある、旦那が浮気したならあたしもという女ではなかったようだ。結局離婚をして女手一つで泉を育て上げるが、今度の設定では浮気をして女のもとに走った旦那(橋爪功。浮気の相手だったのは確か宮崎美子)は今は三浦半島の施設にいるという。
「あたしはもう離婚しているからあんな男とは縁がないんだよ。あんたは血の繋がりがあるんだから最後は面倒見なさいよ」とは言うのだが、そもそも手配して施設に入れるようにしたのは母親だったのだ。
満男の車で施設に行った帰り道の車中のシーンである。このあたりの夏木マリの演技は見ものだった。興奮して途中で車から降りてしまうが、結局、旦那が施設で死ぬまで面倒を見るのは母親だろうという予感がするシーンだった。
泉も何度か訪れた懐かしいとら屋(今は別人が経営しているようだ)には年取った満男の母役の倍賞千恵子と父役の前田吟がいた。
実はこことら屋の座敷で前日、満男の妻の7回忌法要が営まれたのだが、泉にそのことを知らせたのは、泉が休暇を終えて夫と二人の子供の待つヨーロッパへ飛行機で発つ間際だった。
驚いた泉は行こうとしていた身を翻し、満男に抱き付き熱く接吻を交わし、そして別れる。
この抱擁と接吻の意味は文字通り意味深だ。
泉にしてみれば本当ならば初恋の満男と結婚を考えていたのだけれども、寅さんに心理的には似ていて女性への引っ込み思案が激しい満男の煮え切らない態度に断念し、忘れようとヨーロッパの大学へ留学したのであった。
ここで映画は終わるが、最後のシーンは最初の夢の中で泉と出会うシーンとは真逆のようでどこか繋がりの余韻を残している。
このあと続きはあるのか――。
甥っ子の満男の役どころではもう考えられないが、泉を主人公に据えてみたらどうか。
泉は父親に去られるという不運に見舞われた。寅さんが母親に去られるのと条件は同じだ。寅さんには母親的な存在の妹さくらがいて、故郷に足を向けるよすがとなっているから、安心して旅回りのテキヤ商売ができる。
一方の泉は故郷九州に口うるさくあばずれ的な母親だが、気の置けない母がいる。母親の存在感というのは、たとえどんな出来の悪い母親でも、子にとっては格別なものだ。
故郷に帰ってきて最初はくつろげても、やがて口うるさい母親の存在が気障りになり、また出て行ってしまうという「女寅さん」のストーリーが描けぬものか。
しかしまあそれでも5話か6話がいいところだろうな。
山田洋次監督が「今まで観たことのない作品が出来た」と驚いたという『寅さん50』のチラシの中のセリフ。
1969年の春だったか、テレビで『負けてたまるか』という渥美清好演のドラマがあり、それを受けて今度は渥美清主演で『男はつらいよ』が始まったのだが、最終回で渥美清扮する主人公が奄美大島に出かけ、そこでハブに咬まれて死んでしまうという幕切れとなった。
そうしたらテレビの視聴者から「なんで死なせてしまうんだ」とたくさんのクレームが来たそうである。
山田洋次監督は本当は「家族」をテーマにした本格的な映画を作りたいと思っており、喜劇的な要素の強い『男はつらいよ』は余技的なものと考えていたらしい。しかし評判がいいので映画会社も力を注ぐよう要請があり、こっちに本腰を入れだしたようだ。
それでもまさかこんなに長く撮り続けるとは思ってもみなかったと思う。
やはり主人公役の渥美清に負うところが多いのだろう。渥美清というと「寅さん」がはまり役過ぎてその余は考えにくいが、一筋の役とはいえマンネリに陥らないのは数多くのマドンナ役の登場もだが、渥美清の持つ演技の多様性(喜劇性・悲劇性の両面プラスα)に帰せられる。
さて、車寅次郎は柴又の団子屋のせがれで、死んだ兄と妹のさくらとは腹違いという設定である。本人の母は京都か大阪から東京に出稼ぎに来た芸者で、寅次郎を産んで間もなく帰ってしまう。
恋焦がれたフーテンの寅次郎は今は京都の連れ込みホテルを経営している母に会いに行くのだが、まさに長谷川伸の『瞼の母』の番場の忠太郎と同じで、「ちょっと金でも持っていそうになると、そう言ってタカリに来るんだよ。そうなんだろ」と取り付く島なく、カーッとなった寅次郎はけんか別れをする。これが記念すべき初公開の第一話のあらすじである。
番場の忠太郎は母とそのまま袂を分かち、瞼の裏で母を偲ぶことだけはしたが、寅次郎の場合はこれ以降「母を偲んで云々」は一切なく、旅道中のテキヤ商売と柴又の実家とを行ったり来たりの人生を送る。
この50周年記念映画では、妹さくらと印刷所の社員ひろしとの間の一粒種甥っ子の満男が、夢の中で、高校1年生の時の初恋の相手泉と、どこか砂丘のような海辺で出会うシーンから始まる。
そのあとはさくらやひろしの回想を中心に話が進み、若き日のマドンナたちとのシーンが多く挿入されていて懐かしい。
満男は小説家になっていて、とある出版社から新しい小説を出版したとかで大きな書店でサイン会があった。そこへ何とあの初恋の泉が現れる。本の表紙の裏に「諏訪満男」とサインをした時に、「その横に泉と書いて下さい」と言った購読者の顔を不審気に見上げた時の満男の驚き!
泉は今はジュネーブの国連難民高等弁務官事務所に勤めており、久しぶりの休暇を3日間貰えたので日本に帰り、うち1日は別れた父親の入所している施設へ見舞に行くことにしていた。
サイン会ののちに二人はカフェに行き話し合う。そのカフェのオーナーは実は寅さんのマドンナの一人リリーだった。りりーはようやく泉のことを思い出す。
リリーは寅さんには本当に惚れていて、また寅さんも満更ではなく、沖縄でリリーが倒れた時には一時一軒家を借りて同棲していたのだ(が、抱き合うことはなかった)。
リリー役の浅丘ルリ子はやはり持ち前の明るさが画面を引き立てていた。昔も今も変わらないのはさすがだ。
しかしまだ光っていたのは泉の母役の夏木マリだ。
夏木マリの母役は見かけはややあばずれて派手目の女で、口から出まかせではないかと思うほどよくしゃべるが、旦那に浮気をされ逃げられてしまうという役柄である(娘の泉にとっては父親が不在のまま成長することになった)。
一見するとよくある、旦那が浮気したならあたしもという女ではなかったようだ。結局離婚をして女手一つで泉を育て上げるが、今度の設定では浮気をして女のもとに走った旦那(橋爪功。浮気の相手だったのは確か宮崎美子)は今は三浦半島の施設にいるという。
「あたしはもう離婚しているからあんな男とは縁がないんだよ。あんたは血の繋がりがあるんだから最後は面倒見なさいよ」とは言うのだが、そもそも手配して施設に入れるようにしたのは母親だったのだ。
満男の車で施設に行った帰り道の車中のシーンである。このあたりの夏木マリの演技は見ものだった。興奮して途中で車から降りてしまうが、結局、旦那が施設で死ぬまで面倒を見るのは母親だろうという予感がするシーンだった。
泉も何度か訪れた懐かしいとら屋(今は別人が経営しているようだ)には年取った満男の母役の倍賞千恵子と父役の前田吟がいた。
実はこことら屋の座敷で前日、満男の妻の7回忌法要が営まれたのだが、泉にそのことを知らせたのは、泉が休暇を終えて夫と二人の子供の待つヨーロッパへ飛行機で発つ間際だった。
驚いた泉は行こうとしていた身を翻し、満男に抱き付き熱く接吻を交わし、そして別れる。
この抱擁と接吻の意味は文字通り意味深だ。
泉にしてみれば本当ならば初恋の満男と結婚を考えていたのだけれども、寅さんに心理的には似ていて女性への引っ込み思案が激しい満男の煮え切らない態度に断念し、忘れようとヨーロッパの大学へ留学したのであった。
ここで映画は終わるが、最後のシーンは最初の夢の中で泉と出会うシーンとは真逆のようでどこか繋がりの余韻を残している。
このあと続きはあるのか――。
甥っ子の満男の役どころではもう考えられないが、泉を主人公に据えてみたらどうか。
泉は父親に去られるという不運に見舞われた。寅さんが母親に去られるのと条件は同じだ。寅さんには母親的な存在の妹さくらがいて、故郷に足を向けるよすがとなっているから、安心して旅回りのテキヤ商売ができる。
一方の泉は故郷九州に口うるさくあばずれ的な母親だが、気の置けない母がいる。母親の存在感というのは、たとえどんな出来の悪い母親でも、子にとっては格別なものだ。
故郷に帰ってきて最初はくつろげても、やがて口うるさい母親の存在が気障りになり、また出て行ってしまうという「女寅さん」のストーリーが描けぬものか。
しかしまあそれでも5話か6話がいいところだろうな。
山田洋次監督が「今まで観たことのない作品が出来た」と驚いたという『寅さん50』のチラシの中のセリフ。