年明け後、初の史話の会が17日に開催された。
新年を迎えて今年も新たな気持ちで学習に取り組みたい(脳トレを兼ねている)。
さて今回は魏志倭人伝の最後の読み取りである。
この部分は西暦238年から同247年までの足掛け10年ではあるが、ほぼ同時代史と言ってよく、その当時の倭国内の具体的な様子が描かれている稀有の史料なのである。
ではその様子を眺めてみよう。
① 景初2年(西暦238年)から正始8年(247年)の倭国
景初2年(238年)
6月、卑弥呼が魏王朝に生口10名及び班布遣使した。使者は難升米(なしめ)と都市牛利(としなり)。
12月、魏の明帝は詔書及び金印紫綬を授けた。難升米と都市牛利には銀印青綬を授けた。
※卑弥呼からの朝貢品は「生口6名」と「班布2匹2反」
※魏の明帝からの返礼品は「親魏倭王の金印紫綬」など大量。
正始元年(240年)
1月、魏の明帝が死に、子の斎王が即位する。
正始4年(243年)
・倭王が貢献する。使者は大夫・伊聲耆(いしおき)、掖邪狗(わきやこ)ら8人。率善中郎将の爵位を受ける。
※卑弥呼からの朝貢品は「生口、倭錦、丹木、短弓矢」など。
正始6年(245年)
・難升米が黄幢を授かる。
正始8年(247年)
・倭の載斯烏越(さいしうえ)が帯方郡に行き、狗奴国との戦闘を訴える。
・郡から張政らが詔書と黄幢を携えて到来し、難升米に手渡して檄を飛ばし、告諭する。
・卑弥呼死す。後継として男王が立つも国中が従わず争乱となり千人が死す。
・卑弥呼の一族から「台与(とよ)」が擁立され、ようやく収拾する。
・張政は布告して台与を告諭する。
・台与は掖邪狗(わきやこ)ら20人を遣わして張政らを送り、同時に魏へ朝貢する。
※台与からの朝貢品は「生口30名、白珠5千、孔青大勾珠(ヒスイ製の勾玉)2枚、異文雑錦20匹」。
以上のような魏王朝とのやり取りがあり、中国の正史に記されたことによって、3世紀の倭国の状況が克明とまでは行かないにせよある程度臨場感を持って理解できるのは稀有のことに違いない。
さて、卑弥呼がなぜ魏への遣使をしたかについては諸論があるが、私は邪馬台国の南にある狗奴国が北進し侵略しようとして来たからだと考えている。
要するに大陸王朝の魏の庇護(お墨付き)を得たいがためであったとみる。かなり切羽詰まって遣使したことは朝貢品の余りに貧弱なことで見て取れる。正始8年の台与からの朝貢品と比べるとまさに雲泥の差である。
これに対し、東海の姫国からの貢献に明帝はいたく感興を催したのだろう、返礼の品々の豪華な内容をみるとそれが分かる。なにしろ女王が国政のトップに立つなどということは大陸では有り得ないことだったのだ。
② 卑弥呼の死
卑弥呼は正始8年、帯方郡からの使者・張政の関与で死亡する。卑弥呼の死についても諸論があるが、私は張政によって「詰め腹を切らされた」と解釈する。要するに狗奴国との交戦に「神意を聴く」などという悠長なことでは対処できないとの判断を下したのだろう。もちろん「自死」という形式をとったに違いないのだが・・・。
(※卑弥呼の墓について倭人伝では「径百余歩」の円墳としている。この「歩」だが中国の一歩は倭国の二歩に当たり、そのまま解釈すると直径が144mもあるような巨大円墳になってしまうが、私は造った倭人が倭人の「歩」で測ったのを張政に伝えたと思うのでその半分の直系72mと見る。私の考える邪馬台国は福岡県八女市であり、卑弥呼の墓は「岩戸山古墳」の後円部に比定する。)
ところがあに計らんや、卑弥呼の後継に立てた男王では国中が服さず、内乱状態になって収拾がつかなくなり、結局、卑弥呼の一族の中から13歳の台与が立てられなければ収まらなかったのであった。これには張政も想定外であったに違いない。
明帝が卑弥呼という女王がトップに立つ倭国へのある種の「畏敬の念」を懐いたのと同じような感慨を張政も持ったのではなかろうか。
とにもかくにも卑弥呼の後継に台与が立ち、邪馬台国は平静を取り戻し、南の狗奴国からの侵攻も収まったようである。
しかし倭人伝の記述はここで終わり、台与の時代がいつまで続いたか、その後継は誰だったかなどの情報は残念ながら中国の史料からは得られない。
しかし『晋書』の「四夷伝」にある次の記事により、台与の治政は少なくとも265年までは続いたようである。
【宣帝(注:晋の始祖の司馬懿)、公孫氏を平らげる(注:238年)や、其の女王(注:卑弥呼)使いを帯方に至らしめ朝見せり。その後、貢聘(注:貢は朝貢、聘は訪問・挨拶すること)絶えず、文帝(明帝の次の斎王)の相たるに及んでまた数至(何回か)あり。泰始の初め(265年)、使いを遣わし、訳を重ねて入貢せり。】
卑弥呼の後を継いだ台与はその後も何回か魏に変わった晋王朝に朝貢したようであり、また西暦265年の泰始元年にも代替わりを祝すの朝貢をしたらしい。この時台与はすでに40歳ほどの中年だったが、その後はどうなったかは不明とする他ない。
ただ私はその頃に南の狗奴国によって併呑されて滅び、台与は辛うじて落ち延び、現在の大分県の宇佐地方に到ってそこで新たな女王として擁立されたのではないかと考えている。
現在の大分県はかつては「豊の国」であったが、その豊(とよ)は台与に由来すると思うのである。
また宇佐神宮の三祭神のうち、「比女之神」とは台与を指しているとも考えている。
新年を迎えて今年も新たな気持ちで学習に取り組みたい(脳トレを兼ねている)。
さて今回は魏志倭人伝の最後の読み取りである。
この部分は西暦238年から同247年までの足掛け10年ではあるが、ほぼ同時代史と言ってよく、その当時の倭国内の具体的な様子が描かれている稀有の史料なのである。
ではその様子を眺めてみよう。
① 景初2年(西暦238年)から正始8年(247年)の倭国
景初2年(238年)
6月、卑弥呼が魏王朝に生口10名及び班布遣使した。使者は難升米(なしめ)と都市牛利(としなり)。
12月、魏の明帝は詔書及び金印紫綬を授けた。難升米と都市牛利には銀印青綬を授けた。
※卑弥呼からの朝貢品は「生口6名」と「班布2匹2反」
※魏の明帝からの返礼品は「親魏倭王の金印紫綬」など大量。
正始元年(240年)
1月、魏の明帝が死に、子の斎王が即位する。
正始4年(243年)
・倭王が貢献する。使者は大夫・伊聲耆(いしおき)、掖邪狗(わきやこ)ら8人。率善中郎将の爵位を受ける。
※卑弥呼からの朝貢品は「生口、倭錦、丹木、短弓矢」など。
正始6年(245年)
・難升米が黄幢を授かる。
正始8年(247年)
・倭の載斯烏越(さいしうえ)が帯方郡に行き、狗奴国との戦闘を訴える。
・郡から張政らが詔書と黄幢を携えて到来し、難升米に手渡して檄を飛ばし、告諭する。
・卑弥呼死す。後継として男王が立つも国中が従わず争乱となり千人が死す。
・卑弥呼の一族から「台与(とよ)」が擁立され、ようやく収拾する。
・張政は布告して台与を告諭する。
・台与は掖邪狗(わきやこ)ら20人を遣わして張政らを送り、同時に魏へ朝貢する。
※台与からの朝貢品は「生口30名、白珠5千、孔青大勾珠(ヒスイ製の勾玉)2枚、異文雑錦20匹」。
以上のような魏王朝とのやり取りがあり、中国の正史に記されたことによって、3世紀の倭国の状況が克明とまでは行かないにせよある程度臨場感を持って理解できるのは稀有のことに違いない。
さて、卑弥呼がなぜ魏への遣使をしたかについては諸論があるが、私は邪馬台国の南にある狗奴国が北進し侵略しようとして来たからだと考えている。
要するに大陸王朝の魏の庇護(お墨付き)を得たいがためであったとみる。かなり切羽詰まって遣使したことは朝貢品の余りに貧弱なことで見て取れる。正始8年の台与からの朝貢品と比べるとまさに雲泥の差である。
これに対し、東海の姫国からの貢献に明帝はいたく感興を催したのだろう、返礼の品々の豪華な内容をみるとそれが分かる。なにしろ女王が国政のトップに立つなどということは大陸では有り得ないことだったのだ。
② 卑弥呼の死
卑弥呼は正始8年、帯方郡からの使者・張政の関与で死亡する。卑弥呼の死についても諸論があるが、私は張政によって「詰め腹を切らされた」と解釈する。要するに狗奴国との交戦に「神意を聴く」などという悠長なことでは対処できないとの判断を下したのだろう。もちろん「自死」という形式をとったに違いないのだが・・・。
(※卑弥呼の墓について倭人伝では「径百余歩」の円墳としている。この「歩」だが中国の一歩は倭国の二歩に当たり、そのまま解釈すると直径が144mもあるような巨大円墳になってしまうが、私は造った倭人が倭人の「歩」で測ったのを張政に伝えたと思うのでその半分の直系72mと見る。私の考える邪馬台国は福岡県八女市であり、卑弥呼の墓は「岩戸山古墳」の後円部に比定する。)
ところがあに計らんや、卑弥呼の後継に立てた男王では国中が服さず、内乱状態になって収拾がつかなくなり、結局、卑弥呼の一族の中から13歳の台与が立てられなければ収まらなかったのであった。これには張政も想定外であったに違いない。
明帝が卑弥呼という女王がトップに立つ倭国へのある種の「畏敬の念」を懐いたのと同じような感慨を張政も持ったのではなかろうか。
とにもかくにも卑弥呼の後継に台与が立ち、邪馬台国は平静を取り戻し、南の狗奴国からの侵攻も収まったようである。
しかし倭人伝の記述はここで終わり、台与の時代がいつまで続いたか、その後継は誰だったかなどの情報は残念ながら中国の史料からは得られない。
しかし『晋書』の「四夷伝」にある次の記事により、台与の治政は少なくとも265年までは続いたようである。
【宣帝(注:晋の始祖の司馬懿)、公孫氏を平らげる(注:238年)や、其の女王(注:卑弥呼)使いを帯方に至らしめ朝見せり。その後、貢聘(注:貢は朝貢、聘は訪問・挨拶すること)絶えず、文帝(明帝の次の斎王)の相たるに及んでまた数至(何回か)あり。泰始の初め(265年)、使いを遣わし、訳を重ねて入貢せり。】
卑弥呼の後を継いだ台与はその後も何回か魏に変わった晋王朝に朝貢したようであり、また西暦265年の泰始元年にも代替わりを祝すの朝貢をしたらしい。この時台与はすでに40歳ほどの中年だったが、その後はどうなったかは不明とする他ない。
ただ私はその頃に南の狗奴国によって併呑されて滅び、台与は辛うじて落ち延び、現在の大分県の宇佐地方に到ってそこで新たな女王として擁立されたのではないかと考えている。
現在の大分県はかつては「豊の国」であったが、その豊(とよ)は台与に由来すると思うのである。
また宇佐神宮の三祭神のうち、「比女之神」とは台与を指しているとも考えている。