9月11日に行われた沖縄県知事選挙で、オール沖縄が推薦する現職の玉城デニー氏が再選を果たした。
争点だった名護市辺野古への米軍基地移設については、反対派のオール沖縄が勝利したことになる。
これで沖縄では、前々回に反対派である翁長雄志氏が当選してから3回連続して、宜野湾市の普天間基地を名護市辺野古沖に移設することに反対する民意が示されたことになる。
しかも2019年には移設をめぐって県民投票が行われ、その時は約70パーセントもの県民が「ノー」を突き付けている。
これに対して日本政府はそれにはお構いなしに名護市辺野古沖を埋め立て続けている。
その民意無視の強引なやり方は安全保障上の上位概念である「日米安全保障条約(1960年6月23日締結の新安保)」に基づく。その第6条よれば日本政府は米国による日本の安全保障および極東での平和を維持するために、米国の陸海空軍が日本国内の施設や区域を使用できるのである。
つまり日本及び極東の安全と平和を維持するために必要と米国が判断すれば、日本政府にはお構いなしに(ただし事前通告と形式的な協議は行う)、国内の施設を利用したり、変更したりすることができるのだ。
宜野湾市普天間基地の危険性が増してきたために、日本政府と米国が協議した結果、普天間基地は返還すると決められたのが1996年であった。(※直接の理由は前年の1995年に起きた米兵の少女暴行事件であった。)
その代替地(移設先)は名護市辺野古沖であった。この決定は日本政府だが、もちろんアメリカの意向を下敷きにしている。
同時に反対運動が県下で広がり、辺野古海岸での測量も阻止されたりしたが、政府はそれにもめげず、着々と事業を進め、今日の埋め立てに至っている。
現在は軟弱地盤を残して大方埋め立てられたようだが、問題は軟弱地盤である。玉城デニー知事はこの点を論点にし、県に与えられた権限である埋め立て許可を出さないでいるが、政府はやはり米軍に忖度して強行せざるを得ないのだ。
今回の県知事選の民意は辺野古への米軍基地移設は反対なのだが、日米安保がある限り、日本政府の強硬姿勢は続く。「防衛問題」は政府の専管事項であるというのが理屈だが、その土台である日米安保条約(第6条)によれば、アメリカが日本と極東の安全と平和を担っており、そのためなら日本国内に米軍を駐留する施設が必要とあらば、ほぼ日本政府の追認で済む。
この日本政府の「軍事的専管事項上の米国追認(というより追随)」が地方では分断を生んでいる。
ここ数年で海上自衛隊鹿屋航空隊基地で米軍の「空母艦載機離着陸訓練(FLCP)」や「空中給油訓練」が行われるようになり、そして今度はMQ9という「無人飛行機」の配備の実施が予定され、市民の不安が醸成されている。
同じ事は種子島の離島「馬毛島」でも行われようとしている。馬毛島に自衛隊基地を造成し、そこを米軍の訓練場にしようというのである。
もちろん中国の海洋進出と軍備の増強に対処するための施設であり訓練であることは了解できるのだが、いたずらに不安を煽るのはどうか。日本は中国とは外交上政経分離策を採り、経済的な結びつきは極めて大きくなっているのだ。お互いの国柄を相互に尊重しなければ足元をすくわれる可能性が高い。
アメリカは自由と民主主義を頑なに「アメリカファースト」的に守ろうとしているのだが、どの国にもその国の歴史に見合った自由があり、民衆がいる。そんなのは自由でも民主主義でもない――と決めつけるのは高飛車すぎる。
その点、日本は西洋的な自由と民主主義を明治以降少しずつ取り入れ、戦後はアメリカの自由と平等を導入し、そこに自国の歴史を織り込んで特有の自由と民主主義国家を形成しつつ今日に至っている。結果としてはアメリカ型の自由と民主主義ではなく、日本型の自由と民主主義になった。
これはこれでよいと思う。ただ、日米安保がある限り、日本独自の外交にはならない。安倍元首相があれだけ世界を歴訪し、親善に努めてきたにもかかわらず、北方領土問題も北朝鮮による拉致被害者問題も一向に進展しなかったのはそのためだったと言える。
沖縄の米軍基地問題は実は1949年に中国共産党政府が成立したのを受けて、GHQが1950年2月10日に「沖縄に恒久的な基地を建設する」と表明したことにさかのぼる。要するに沖縄を米国の属領的な軍事基地と見做したことが、今日もあれだけ巨大な基地の数々が置かれた原因なのである。
さらに1951年9月に約定された旧安保、及び1960年6月に結ばれた新安保によって沖縄の過大な基地は固定されてしまった。
沖縄の米軍基地の状況をなくすには、日米安保条約を廃止するのが根本である。その上で、日本は「永世中立国」を宣言すべきだ。(※先に永世中立を宣言するのには、日米安保がネックになる。)
日米安保を廃止したら、日本は憲法9条により対外戦争はしない上、戦力も保持しないから、中国が攻めて来て蹂躙される――という考えは間違いである。どの独立国家も自衛のための武力を保持することは認められている。これはおよそ独立国家である以上、どの国も有する個別的自衛権なのだ。
9条は第一項で対外戦争はしないとし、第二項でそのための戦力は保有しないとある。つまり対外的な戦争をするための戦力は持たないのだが、自衛的武力(戦力)を禁止してはいない。そう解釈すべきである。(※ただし、自衛隊という文言は必要である。)
専守防衛力を持った永世中立国を日本は目指すべきだ。その時、日米安保という「二国間軍事同盟」は必要なくなり、米軍基地がもたらす市民的分断もなくなる。沖縄の米軍基地の一部は自衛隊の基地として再利用されるかもしれないが、多くの米軍基地は沖縄人のもとに返されるはずである。
世界はそれを待っている。
争点だった名護市辺野古への米軍基地移設については、反対派のオール沖縄が勝利したことになる。
これで沖縄では、前々回に反対派である翁長雄志氏が当選してから3回連続して、宜野湾市の普天間基地を名護市辺野古沖に移設することに反対する民意が示されたことになる。
しかも2019年には移設をめぐって県民投票が行われ、その時は約70パーセントもの県民が「ノー」を突き付けている。
これに対して日本政府はそれにはお構いなしに名護市辺野古沖を埋め立て続けている。
その民意無視の強引なやり方は安全保障上の上位概念である「日米安全保障条約(1960年6月23日締結の新安保)」に基づく。その第6条よれば日本政府は米国による日本の安全保障および極東での平和を維持するために、米国の陸海空軍が日本国内の施設や区域を使用できるのである。
つまり日本及び極東の安全と平和を維持するために必要と米国が判断すれば、日本政府にはお構いなしに(ただし事前通告と形式的な協議は行う)、国内の施設を利用したり、変更したりすることができるのだ。
宜野湾市普天間基地の危険性が増してきたために、日本政府と米国が協議した結果、普天間基地は返還すると決められたのが1996年であった。(※直接の理由は前年の1995年に起きた米兵の少女暴行事件であった。)
その代替地(移設先)は名護市辺野古沖であった。この決定は日本政府だが、もちろんアメリカの意向を下敷きにしている。
同時に反対運動が県下で広がり、辺野古海岸での測量も阻止されたりしたが、政府はそれにもめげず、着々と事業を進め、今日の埋め立てに至っている。
現在は軟弱地盤を残して大方埋め立てられたようだが、問題は軟弱地盤である。玉城デニー知事はこの点を論点にし、県に与えられた権限である埋め立て許可を出さないでいるが、政府はやはり米軍に忖度して強行せざるを得ないのだ。
今回の県知事選の民意は辺野古への米軍基地移設は反対なのだが、日米安保がある限り、日本政府の強硬姿勢は続く。「防衛問題」は政府の専管事項であるというのが理屈だが、その土台である日米安保条約(第6条)によれば、アメリカが日本と極東の安全と平和を担っており、そのためなら日本国内に米軍を駐留する施設が必要とあらば、ほぼ日本政府の追認で済む。
この日本政府の「軍事的専管事項上の米国追認(というより追随)」が地方では分断を生んでいる。
ここ数年で海上自衛隊鹿屋航空隊基地で米軍の「空母艦載機離着陸訓練(FLCP)」や「空中給油訓練」が行われるようになり、そして今度はMQ9という「無人飛行機」の配備の実施が予定され、市民の不安が醸成されている。
同じ事は種子島の離島「馬毛島」でも行われようとしている。馬毛島に自衛隊基地を造成し、そこを米軍の訓練場にしようというのである。
もちろん中国の海洋進出と軍備の増強に対処するための施設であり訓練であることは了解できるのだが、いたずらに不安を煽るのはどうか。日本は中国とは外交上政経分離策を採り、経済的な結びつきは極めて大きくなっているのだ。お互いの国柄を相互に尊重しなければ足元をすくわれる可能性が高い。
アメリカは自由と民主主義を頑なに「アメリカファースト」的に守ろうとしているのだが、どの国にもその国の歴史に見合った自由があり、民衆がいる。そんなのは自由でも民主主義でもない――と決めつけるのは高飛車すぎる。
その点、日本は西洋的な自由と民主主義を明治以降少しずつ取り入れ、戦後はアメリカの自由と平等を導入し、そこに自国の歴史を織り込んで特有の自由と民主主義国家を形成しつつ今日に至っている。結果としてはアメリカ型の自由と民主主義ではなく、日本型の自由と民主主義になった。
これはこれでよいと思う。ただ、日米安保がある限り、日本独自の外交にはならない。安倍元首相があれだけ世界を歴訪し、親善に努めてきたにもかかわらず、北方領土問題も北朝鮮による拉致被害者問題も一向に進展しなかったのはそのためだったと言える。
沖縄の米軍基地問題は実は1949年に中国共産党政府が成立したのを受けて、GHQが1950年2月10日に「沖縄に恒久的な基地を建設する」と表明したことにさかのぼる。要するに沖縄を米国の属領的な軍事基地と見做したことが、今日もあれだけ巨大な基地の数々が置かれた原因なのである。
さらに1951年9月に約定された旧安保、及び1960年6月に結ばれた新安保によって沖縄の過大な基地は固定されてしまった。
沖縄の米軍基地の状況をなくすには、日米安保条約を廃止するのが根本である。その上で、日本は「永世中立国」を宣言すべきだ。(※先に永世中立を宣言するのには、日米安保がネックになる。)
日米安保を廃止したら、日本は憲法9条により対外戦争はしない上、戦力も保持しないから、中国が攻めて来て蹂躙される――という考えは間違いである。どの独立国家も自衛のための武力を保持することは認められている。これはおよそ独立国家である以上、どの国も有する個別的自衛権なのだ。
9条は第一項で対外戦争はしないとし、第二項でそのための戦力は保有しないとある。つまり対外的な戦争をするための戦力は持たないのだが、自衛的武力(戦力)を禁止してはいない。そう解釈すべきである。(※ただし、自衛隊という文言は必要である。)
専守防衛力を持った永世中立国を日本は目指すべきだ。その時、日米安保という「二国間軍事同盟」は必要なくなり、米軍基地がもたらす市民的分断もなくなる。沖縄の米軍基地の一部は自衛隊の基地として再利用されるかもしれないが、多くの米軍基地は沖縄人のもとに返されるはずである。
世界はそれを待っている。