今年の何月の放送かは分からないのだが、NHKの『歴史探偵』という番組では「縄文時代の定住は1万年以上前から確認できる」という趣旨で放映していた。
それを今日、NHKオンデマンドで視聴したのだが、鹿児島県霧島市上野原遺跡の縄文時代早期の多様な出土品や定住跡については触れられずに終わっていた。
代わりに番組では同じ鹿児島県の種子島にある「三角山遺跡」を紹介していた。
三角山遺跡は上野原遺跡よりさらに古い13000年前の遺跡で、そこからは二基の定住跡が検出され、「隆帯文土器」という縄文時代草創期の指標土器が発掘された。
上野原遺跡が10500年前の定住跡を示しているのは前のブログで紹介したが、この三角山遺跡はそれより2500年も前のもので、そこに定住跡が検出されたのだから、定住はまず種子島で始まったことに異論はない。
ただし、二基の竪穴住居跡の大きさは直径が2mほどの円形で、上野原遺跡のが4mなのに比べると床面積では4分の1でしかない。しかも上野原遺跡では4m×4mの住居跡が全部で52基も発掘されているのだ。
もちろん定住の最初の姿は種子島の三角山遺跡の方にあるので、定住の始まりを告げるのは三角山遺跡だが、上野原遺跡の出土品の多種多様性は群を抜いている。しかし三角山より2500年も後なので、定住の最初期には該当しないと考えられ、取り上げることはなかったのだろう。
ところが南九州の縄文草創期から早期の文化が壊滅したのは、海底火山の噴火によるものだという説明がなされ、その噴火の様子を描いた絵(おそらく上野原縄文の森で放映されているミニシアターからの切り取り)が取り上げられていた。
「海底火山噴火」とタイトルにあるが、これは正式には「鬼界カルデラ噴火」で、薩摩半島から60キロほど南の海上にある薩摩硫黄島を外輪山とする有史以来最大という海中カルデラ噴火である。その瞬間を上野原の縄文早期人が呆然と眺めている映像がこれで、上野原人の定住地は火山灰や火山礫で完全に埋もれてしまった。7300年前のことである。
(※画像が上野原遺跡の定住地跡であることは、4m×4mの独特の竪穴式住居がいくつも立ち並んでいることで分かる。)
せっかくこの映像を紹介したのだから、上野原遺跡にも触れて良さそうなのだが、それはなかったのは返す返すも残念なことである。
思うに上野原遺跡の縄文早期10500年前の大集落はもとより、縄文早期出土土器の「円筒形・平底・薄手・貝殻文」というデザインが余りにも他の縄文土器とは似ても似つかない。また縄文早期の壺がツインで出土したりと、縄文早期時代の常識を覆すことばかりなので、考古学者の手に余るか手を焼くか、そんな塩梅なのだろう。(※オーパーツ的な扱いなのかもしれない。説明のしようがない遺物というわけだ。)
もっともこの放映の今回の眼目は、コクゾウムシであった。コクゾウムシが種子島出土の「隆帯文土器」の胎土に練り込まれていることが分かり、13000年の当時にコクゾウムシがいたというこれまた常識外れの発見があったという。
コクゾウムシは普通はコメを食べる害虫として、弥生時代にコメの生産が盛んになってからの出現と見做されていたから驚きであった。
だが1万年前の遺跡にみられるからと言って、当時コメが作られていたわけではなく、おそらくドングリのようなデンプンの多い堅果類を食害していたのだろうということであった。そのことは同時に人々の定住を示唆しており、九州の数々の遺跡で見られることから、定住は九州で始まったと考えられるという説である。
13000年前の三角山遺跡の土器にコクゾウムシの圧痕があったので、種子島ではその当時に既に人々は定住していたわけで、その点だけを考えれば上野原の定住集落跡についてはあえて言及しないでよいことになる。
何にしても、鬼界カルデラ噴出以前の南九州の先進性は他に類を見ないことは間違いない。
それを今日、NHKオンデマンドで視聴したのだが、鹿児島県霧島市上野原遺跡の縄文時代早期の多様な出土品や定住跡については触れられずに終わっていた。
代わりに番組では同じ鹿児島県の種子島にある「三角山遺跡」を紹介していた。
三角山遺跡は上野原遺跡よりさらに古い13000年前の遺跡で、そこからは二基の定住跡が検出され、「隆帯文土器」という縄文時代草創期の指標土器が発掘された。
上野原遺跡が10500年前の定住跡を示しているのは前のブログで紹介したが、この三角山遺跡はそれより2500年も前のもので、そこに定住跡が検出されたのだから、定住はまず種子島で始まったことに異論はない。
ただし、二基の竪穴住居跡の大きさは直径が2mほどの円形で、上野原遺跡のが4mなのに比べると床面積では4分の1でしかない。しかも上野原遺跡では4m×4mの住居跡が全部で52基も発掘されているのだ。
もちろん定住の最初の姿は種子島の三角山遺跡の方にあるので、定住の始まりを告げるのは三角山遺跡だが、上野原遺跡の出土品の多種多様性は群を抜いている。しかし三角山より2500年も後なので、定住の最初期には該当しないと考えられ、取り上げることはなかったのだろう。
ところが南九州の縄文草創期から早期の文化が壊滅したのは、海底火山の噴火によるものだという説明がなされ、その噴火の様子を描いた絵(おそらく上野原縄文の森で放映されているミニシアターからの切り取り)が取り上げられていた。
「海底火山噴火」とタイトルにあるが、これは正式には「鬼界カルデラ噴火」で、薩摩半島から60キロほど南の海上にある薩摩硫黄島を外輪山とする有史以来最大という海中カルデラ噴火である。その瞬間を上野原の縄文早期人が呆然と眺めている映像がこれで、上野原人の定住地は火山灰や火山礫で完全に埋もれてしまった。7300年前のことである。
(※画像が上野原遺跡の定住地跡であることは、4m×4mの独特の竪穴式住居がいくつも立ち並んでいることで分かる。)
せっかくこの映像を紹介したのだから、上野原遺跡にも触れて良さそうなのだが、それはなかったのは返す返すも残念なことである。
思うに上野原遺跡の縄文早期10500年前の大集落はもとより、縄文早期出土土器の「円筒形・平底・薄手・貝殻文」というデザインが余りにも他の縄文土器とは似ても似つかない。また縄文早期の壺がツインで出土したりと、縄文早期時代の常識を覆すことばかりなので、考古学者の手に余るか手を焼くか、そんな塩梅なのだろう。(※オーパーツ的な扱いなのかもしれない。説明のしようがない遺物というわけだ。)
もっともこの放映の今回の眼目は、コクゾウムシであった。コクゾウムシが種子島出土の「隆帯文土器」の胎土に練り込まれていることが分かり、13000年の当時にコクゾウムシがいたというこれまた常識外れの発見があったという。
コクゾウムシは普通はコメを食べる害虫として、弥生時代にコメの生産が盛んになってからの出現と見做されていたから驚きであった。
だが1万年前の遺跡にみられるからと言って、当時コメが作られていたわけではなく、おそらくドングリのようなデンプンの多い堅果類を食害していたのだろうということであった。そのことは同時に人々の定住を示唆しており、九州の数々の遺跡で見られることから、定住は九州で始まったと考えられるという説である。
13000年前の三角山遺跡の土器にコクゾウムシの圧痕があったので、種子島ではその当時に既に人々は定住していたわけで、その点だけを考えれば上野原の定住集落跡についてはあえて言及しないでよいことになる。
何にしても、鬼界カルデラ噴出以前の南九州の先進性は他に類を見ないことは間違いない。