鴨着く島

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木曽三川を「ブラタモリ」

2023-07-02 10:26:29 | 災害
昨日の午後7時半からあったNHKの「ブラタモリ」では、タモリは愛知県と岐阜県にまたがる木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の合流地帯を歩いていた。

東から長野県の山奥から流れて来る木曽川、真ん中に奥飛騨地方からの長良川、そして一番西は白山山地に端を発する揖斐川、これら大きな三つの川が今にも合流しようかという岐阜県海津市を中心とする一帯こそが有名な輪中地帯である。

河口近くになって合流するというのならいわゆる「三角州」であり、それはそれでさほどの人的被害は発生しないのだが、海津市あたりはまだ河口までは相当に距離があり、水が豊富なため田んぼが作られる環境にあった。

そのため江戸時代よりはるかに古くから人々が移住し、定住して来たのだが、問題は合流しようかという三つの川は、実は同じ海抜を流れてはいないのであった。

木曽川の川床が一番高く、次いで長良川、そして西側の揖斐川の川床が最も低く、木曽川の水が溢れれば長良川へ流れ込み、長良川が溢れればその水は揖斐川へと流れ込む。結果として揖斐川が最も溢水の被害を被る仕組みであった。

タモリ一行はとある高台にある滑り台のてっぺんから、三川の西側を仕切る「養老山地」を眺めながらその成因をゲストの学者と語っていた。それによると養老山地はかつては海の中にあった地層が隆起して出現したこと、そしてそのために山地に近い麓を流れる揖斐川は逆に沈下して来たそうである。

その結果、揖斐川の川床は最も低くなったのだが、東の木曽・長良の川水が溢れて流れ込んで来ると土砂の中に含まれる養分が肥沃な土壌を生み、田畑耕作にとっては好都合になったという。

この解説をしていた大学の先生はタモリの博識と勘の良さにはしばしば絶句していたが、自分も見ていて感心しきりであった。

さて、では溢水の被害は揖斐川沿いの輪中に集中しているのかというと、事はそう簡単ではなく、木曽川と長良川との間にも、長良川と揖斐川との間にも米作りのための「輪中集落」が多数発達していたのである。

しかしどの輪中集落も、雨の多い季節になるとあちこちで溢水し、輪中を囲む堤が切れてしまうのであった。それが江戸時代以降は幕府にとっても大きな問題であった。

特に海津市の油島という地点ではすぐ上流で木曽川と長良川が合流しており、その合流した川と、西側を流れる揖斐川とがほぼ平行に流れ、川床の低い揖斐川の輪中集落は毎年多大の損害を被るということで、油島から南へ木曽川と揖斐川とを完全に分ける「油島締め切り堤」(のちの「千本松原」)が必要で、その工事が最大の難工事であった。


写真の左手の川が揖斐川、真ん中下へ流れる川が長良川、右手の川は木曽川。ちょうど写真の中ほどに見える少し左へ湾曲した堤が、長良川と揖斐川とを完全に仕切る「油島の締め切り堤(千本松原)」である。

この工事は江戸時代の宝暦4(1854)年の2月から5(1855)年の5月に掛けて、幕命により薩摩藩の「お手伝い普請」によって行われた。

「お手伝い普請」と言っても、幕府が資金と人員を手配するのではなく、薩摩藩が一切を負担する工事であった。これは要するに外様の大大名の資金力(藩力)を削ごうという画策であった。当時の貨幣で当初は7万両から9万両(約40億円)が予算として上げられた。

この幕命が知らされた時、藩内の論議は一時沸騰し、干戈を交えようかという意見も出たらしいが、家老の平田靱負は粛々と約1000名の藩士を率いて三川に向かった。

そして、慣れない人夫仕事や幕府の検分役人の業腹に堪えきれず自害する藩士や伝染病などによる死者併せて86名という命と引き換えに宝暦5年の5月に完成させた。

しかし資材費の見積もり違いや、現地農民への手間賃など余分な出費が積もり積もって約30万両にもなり、統率者の平田靱負は完成後、幕府の役人による検分を済ませると、自刃して果てたという。予算の多大な出費と、86名という藩士たちを死なせた責任を負ってのことだろう。

このブラタモリでは副題に「暴れ川VS人間 激闘の歴史」とありながら、薩摩藩のこの「義挙」について詳しく語られることはなかった。

地元の学芸員という女性が「治水神社」を案内し、祭神が島津藩の諸士90名と掲げられた神社の由緒書き看板を示したのだが、タモリはただ見て頷くばかりだったのは残念であった。