ブログ『伊勢神宮の創設1・2』で、北部九州の「大倭王」である糸島の五十(イソ)国出身の崇神天皇の娘であるトヨスキイリヒメが王権の宮殿内で、天照大神の御正体である八咫鏡を祭ることができたと書いた。
その一方で、倭(大和)の地主神の最高位「倭大国魂神」を別の皇女のヌナキイリヒメが「髪落ち痩せて」祭ることができなかったのは、そもそも崇神王権は土着のつまり大和地方自生の王権ではなかったことの大きな証拠であるーーとした。
天照大神を祭ることができたトヨスキイリヒメの出自は記紀ともにもちろん崇神天皇の皇女であり、古事記では「豊鉏入日売命」書紀では「豊鍬入姫命」と書くが、共に兄にトヨキイリヒコがいる。
兄と妹の名に共通の「豊(トヨ)」が気になるところで、「豊」とは国生み神話で言う九州島の「豊国」であれば兄のトヨキは「豊城」で豊国の王城、妹のトヨスキは「豊津城」と書ける。
どちらも崇神五十(イソ)王権が糸島を本拠地として勢力を伸ばしていた時代(弥生時代後期)に豊国までその傘下に入れたことの象徴的な皇子(トヨキイリヒコ)・皇女(トヨスキイリヒメ)の名ではないかと思いたい。
ところで私は国生み神話による九州島(筑紫)の4つの国(筑紫国・肥国・豊国・熊曽国)のうち、豊国の「豊」の名の由来は八女邪馬台国の2代目の女王「台与(トヨ)」から来たと考えている。
247年頃に女王卑弥呼が死に、一時の混乱後にその後を継いだのが卑弥呼の宗女(一族の娘)台与であった。このトヨが女王に就任後は崇神五十(イソ)王権こと北部九州「大倭」の庇護の下、280年代までは比較的平和な時代が続いたが、崇神王権が畿内へ東征を果たすとにわかに風雲急を告げることになった。
八女女王国南部の菊池川以南に威を張っていた狗奴国の侵攻が始まったのだ。
狗奴国は菊池川以南の今日の熊本県域を勢力範囲とする男王国で、卑弥呼の時代から敵対関係にあったが、女王国内部に崇神王権から派遣されていた監督官「生目(イキメ・イキマ)」が崇神の畿内東遷に付いて行ってしまうと、狗奴国はしめたとばかり北進を開始した。
「生目(イキマ)」は倭人伝にあるように女王国の4等官のうち最上位の「伊支馬」のことである。この1等官「伊支馬」に当時就任していたのが崇神の皇子であるイクメイリヒコ(のちの垂仁天皇)だったであろう。
崇神五十(イソ)王権こと「大倭」が東遷し、その庇護を失った八女邪馬台国は狗奴国の侵攻にあえなく崩壊の危機を迎え、女王の台与(トヨ)は亡命を余儀なくされた。八女の東側に聳える九州山地の奥深いルートを移動し、険しい山岳を超えて今日の豊前へと落ち延びた。そしてそこで現地の崇神王権と親交の深い豪族によって保護された。
保護されたと言ってもあの邪馬台国の女王である。新しい王宮を提供され、言わば邪馬台国の亡命王権が始まった。そこで現地を女王台与(トヨ)に因んで、「トヨ国」要するに「豊国」となったのだろう。
私はこの台与(トヨ)こそが崇神の皇女として書かれている「トヨスキイリヒメ」(豊国の王城に入った姫)だとも考えている。
トヨスキイリヒメが女王トヨその人であれば、アマツヒツギから邪馬台国という漢字名称が生まれたことからして「アマツヒツギ」すなわち天照大神の「日継(ヒツギ)」に関する祭祀には習熟しており、そのことを奇貨とした崇神王権が大和へ台与(トヨ)こと「トヨスキイリヒメ」を纏向の王宮に招聘した可能性が考えられる。
女王台与(トヨ)ことトヨスキイリヒメがその招聘に応じて九州の豊国から出かけたのは、崇神王権が畿内纏向に王権を樹立して間もない頃とすれば、280年代の後半から290年代前半のころだろうか。この頃の台与の年齢は、仮に卑弥呼の死んだ247年に卑弥呼同様に13歳ほどで女王に立ったとすれば、55歳くらいである。
それから崇神の後継垂仁天皇の皇女ヤマトヒメに天照大神の祭祀を引き継ぐまで、果たして何年経たかは書紀の紀年からは正確に読み取ることは不可能だが、15年から20年は祭祀を継続したと考えると70歳から75歳であろうか。
随分歳のようにも思えるが、卑弥呼が247年に亡くなった時の年齢が、卑弥呼が擁立されたとされる後漢王朝の桓帝・霊帝時代の末期の188年頃とすると、当時13歳だったから175年の生まれであり、247年から差し引くと死亡時の年齢は72歳となり、台与(トヨ)が祭祀を75歳まで担当していたとしても有り得ることになる。
引退後のトヨスキイリヒメの境遇は、亡くなったのか、それとも豊国に帰ったのか、一切不明である。
その一方で、倭(大和)の地主神の最高位「倭大国魂神」を別の皇女のヌナキイリヒメが「髪落ち痩せて」祭ることができなかったのは、そもそも崇神王権は土着のつまり大和地方自生の王権ではなかったことの大きな証拠であるーーとした。
天照大神を祭ることができたトヨスキイリヒメの出自は記紀ともにもちろん崇神天皇の皇女であり、古事記では「豊鉏入日売命」書紀では「豊鍬入姫命」と書くが、共に兄にトヨキイリヒコがいる。
兄と妹の名に共通の「豊(トヨ)」が気になるところで、「豊」とは国生み神話で言う九州島の「豊国」であれば兄のトヨキは「豊城」で豊国の王城、妹のトヨスキは「豊津城」と書ける。
どちらも崇神五十(イソ)王権が糸島を本拠地として勢力を伸ばしていた時代(弥生時代後期)に豊国までその傘下に入れたことの象徴的な皇子(トヨキイリヒコ)・皇女(トヨスキイリヒメ)の名ではないかと思いたい。
ところで私は国生み神話による九州島(筑紫)の4つの国(筑紫国・肥国・豊国・熊曽国)のうち、豊国の「豊」の名の由来は八女邪馬台国の2代目の女王「台与(トヨ)」から来たと考えている。
247年頃に女王卑弥呼が死に、一時の混乱後にその後を継いだのが卑弥呼の宗女(一族の娘)台与であった。このトヨが女王に就任後は崇神五十(イソ)王権こと北部九州「大倭」の庇護の下、280年代までは比較的平和な時代が続いたが、崇神王権が畿内へ東征を果たすとにわかに風雲急を告げることになった。
八女女王国南部の菊池川以南に威を張っていた狗奴国の侵攻が始まったのだ。
狗奴国は菊池川以南の今日の熊本県域を勢力範囲とする男王国で、卑弥呼の時代から敵対関係にあったが、女王国内部に崇神王権から派遣されていた監督官「生目(イキメ・イキマ)」が崇神の畿内東遷に付いて行ってしまうと、狗奴国はしめたとばかり北進を開始した。
「生目(イキマ)」は倭人伝にあるように女王国の4等官のうち最上位の「伊支馬」のことである。この1等官「伊支馬」に当時就任していたのが崇神の皇子であるイクメイリヒコ(のちの垂仁天皇)だったであろう。
崇神五十(イソ)王権こと「大倭」が東遷し、その庇護を失った八女邪馬台国は狗奴国の侵攻にあえなく崩壊の危機を迎え、女王の台与(トヨ)は亡命を余儀なくされた。八女の東側に聳える九州山地の奥深いルートを移動し、険しい山岳を超えて今日の豊前へと落ち延びた。そしてそこで現地の崇神王権と親交の深い豪族によって保護された。
保護されたと言ってもあの邪馬台国の女王である。新しい王宮を提供され、言わば邪馬台国の亡命王権が始まった。そこで現地を女王台与(トヨ)に因んで、「トヨ国」要するに「豊国」となったのだろう。
私はこの台与(トヨ)こそが崇神の皇女として書かれている「トヨスキイリヒメ」(豊国の王城に入った姫)だとも考えている。
トヨスキイリヒメが女王トヨその人であれば、アマツヒツギから邪馬台国という漢字名称が生まれたことからして「アマツヒツギ」すなわち天照大神の「日継(ヒツギ)」に関する祭祀には習熟しており、そのことを奇貨とした崇神王権が大和へ台与(トヨ)こと「トヨスキイリヒメ」を纏向の王宮に招聘した可能性が考えられる。
女王台与(トヨ)ことトヨスキイリヒメがその招聘に応じて九州の豊国から出かけたのは、崇神王権が畿内纏向に王権を樹立して間もない頃とすれば、280年代の後半から290年代前半のころだろうか。この頃の台与の年齢は、仮に卑弥呼の死んだ247年に卑弥呼同様に13歳ほどで女王に立ったとすれば、55歳くらいである。
それから崇神の後継垂仁天皇の皇女ヤマトヒメに天照大神の祭祀を引き継ぐまで、果たして何年経たかは書紀の紀年からは正確に読み取ることは不可能だが、15年から20年は祭祀を継続したと考えると70歳から75歳であろうか。
随分歳のようにも思えるが、卑弥呼が247年に亡くなった時の年齢が、卑弥呼が擁立されたとされる後漢王朝の桓帝・霊帝時代の末期の188年頃とすると、当時13歳だったから175年の生まれであり、247年から差し引くと死亡時の年齢は72歳となり、台与(トヨ)が祭祀を75歳まで担当していたとしても有り得ることになる。
引退後のトヨスキイリヒメの境遇は、亡くなったのか、それとも豊国に帰ったのか、一切不明である。