一昨日の大崎町総合体育館での「カブトムシ相撲大会」で、参加した孫たちの2回戦、3回戦の順番待ちをしている間、館内は暑いので入り口のロビーに行くと、そこには工業用扇風機が回っており、かなり涼しかったのでしばらく休憩を兼ねて待つことにした。
と、隣のベンチを見ると、どこかで会ったことのある高齢者がやはり暑さを避けて座っていた。
孫たちがベンチから離れて館内に行ってしまうと、その高齢者を間近に見ることになった。
ああ、もしかして――と気付き、意を決して高齢者に挨拶した。
「Tさんですよね?大隅史談会にいた松下です。」「ああ、松下さんか」
というわけで、もうかれこれ6、7年ぶりになるだろうか、当時の面影がそのままはっきりと思い出された。
「御無沙汰してます。」「いや、いや、こちらこそ」
T氏は私より11歳上の84歳だという。矍鑠としているが、「実は胃がんの手術後でね」には驚いた。
「そうなんですか。でもお元気そうですよ」「いや、いや。まあ、何とか」
口振りなどは当時と変わらず、穏やかな人である。
「Tさん、7年かそのくらい前に、この体育館で、大崎町の横瀬古墳のシンポジウムがありましたよね」
「そうだったね、ゲストに著名人が来てくれてね」
T氏は大崎町の文化財審議委員をされていたから、その当日はゲストの人たちを出迎えていたようだ。
横瀬古墳とは前方後円墳で長径が140m近くもある巨大古墳で、しかもシンポジウムの前に「二重の周濠のある畿内型前方後円墳」ということが確認され、大きな話題になっていた。
鹿児島県内では前方後円墳は少ないと思われがちだが、少ないのは薩摩半島側で、大隅半島側では140m級の2基を含めて30基ほどは確認されている。
古墳群としては「飯隈古墳群」「神領古墳群」(大崎町)、「岡崎古墳群」(串良町)、「唐仁古墳群」(東串良町)、「塚崎古墳群」(肝付町高山)などが挙げられ、この中でも「唐仁古墳群」最大の前方後円墳「大塚古墳」は全長が148mという南九州でも屈指の大きさである。
南九州のうち鹿児島と宮崎両県域を併せた領域を私は「古日向」と呼んでいるが、この古日向域で最も大きいのは宮崎県西都市に所在する「男狭穂(おさほ)塚古墳」と「女狭穂(めさほ)塚古墳」で両者はほぼ全長が180mと共通である。
この2古墳を別格として、次に位置するのが唐仁大塚古墳で、それに次ぐのが横瀬古墳であるという。
これら4つの古墳のうち男狭穂(おさほ)塚古墳と唐仁大塚古墳はどちらも前方部が貧弱(?)という特徴を持ち、女狭穂(めさほ)塚古墳と横瀬古墳は定型的な前方後円墳の形状をしている。
横瀬古墳の場合はさらにかつては周濠を二重に巡らせており、その点では形状が似ているとはいえ女狭穂(めさほ)塚古墳とは大きく異なっている。
ただし女狭穂(めさほ)塚古墳は西都原古墳群のある西都原台地の中でもやや小高い地点に築かれているから、そもそも周濠を巡らすための水利がないのは当然と言えば言える。もし台地の上ではなく低地に築かれていたら、周濠があったのかもしれない。
その条件は西都原台地の男狭穂(おさほ)塚古墳にも当てはまる。その一方で肝属川の河口に近い低地にある唐仁大塚古墳には一重だが立派な周濠がある。
「松下さん、横瀬古墳の被葬者は誰だと思う?」T氏は難しい質問をして来た。
「うーん、横瀬古墳には畿内型の2重の周濠があるということだから、畿内と強い関係のある人物でしょうね。それから古墳の前方部の一角に賀茂神社が祭られているようで、そうなると古日向の鴨族の首長で畿内大和で活躍した人物。もしかしたら半島に渡りながら向こうで勝手な振る舞いをしたので王権から叱責されたという葛城襲津彦なんかどうでしょう?」
「いや、それは考えたことがないな」
T氏の困惑顔を目の当たりにしながら、それ以上の考えは引っ込めたが、はてさてこれから考えを深めてみよう。
その前に実は西都原古墳群の盟主「男狭穂(おさほ)塚」と「女狭穂(めさほ)塚」については、とある心当たりがあるのでそっちをまずは考えてみたいと思う。
と、隣のベンチを見ると、どこかで会ったことのある高齢者がやはり暑さを避けて座っていた。
孫たちがベンチから離れて館内に行ってしまうと、その高齢者を間近に見ることになった。
ああ、もしかして――と気付き、意を決して高齢者に挨拶した。
「Tさんですよね?大隅史談会にいた松下です。」「ああ、松下さんか」
というわけで、もうかれこれ6、7年ぶりになるだろうか、当時の面影がそのままはっきりと思い出された。
「御無沙汰してます。」「いや、いや、こちらこそ」
T氏は私より11歳上の84歳だという。矍鑠としているが、「実は胃がんの手術後でね」には驚いた。
「そうなんですか。でもお元気そうですよ」「いや、いや。まあ、何とか」
口振りなどは当時と変わらず、穏やかな人である。
「Tさん、7年かそのくらい前に、この体育館で、大崎町の横瀬古墳のシンポジウムがありましたよね」
「そうだったね、ゲストに著名人が来てくれてね」
T氏は大崎町の文化財審議委員をされていたから、その当日はゲストの人たちを出迎えていたようだ。
横瀬古墳とは前方後円墳で長径が140m近くもある巨大古墳で、しかもシンポジウムの前に「二重の周濠のある畿内型前方後円墳」ということが確認され、大きな話題になっていた。
鹿児島県内では前方後円墳は少ないと思われがちだが、少ないのは薩摩半島側で、大隅半島側では140m級の2基を含めて30基ほどは確認されている。
古墳群としては「飯隈古墳群」「神領古墳群」(大崎町)、「岡崎古墳群」(串良町)、「唐仁古墳群」(東串良町)、「塚崎古墳群」(肝付町高山)などが挙げられ、この中でも「唐仁古墳群」最大の前方後円墳「大塚古墳」は全長が148mという南九州でも屈指の大きさである。
南九州のうち鹿児島と宮崎両県域を併せた領域を私は「古日向」と呼んでいるが、この古日向域で最も大きいのは宮崎県西都市に所在する「男狭穂(おさほ)塚古墳」と「女狭穂(めさほ)塚古墳」で両者はほぼ全長が180mと共通である。
この2古墳を別格として、次に位置するのが唐仁大塚古墳で、それに次ぐのが横瀬古墳であるという。
これら4つの古墳のうち男狭穂(おさほ)塚古墳と唐仁大塚古墳はどちらも前方部が貧弱(?)という特徴を持ち、女狭穂(めさほ)塚古墳と横瀬古墳は定型的な前方後円墳の形状をしている。
横瀬古墳の場合はさらにかつては周濠を二重に巡らせており、その点では形状が似ているとはいえ女狭穂(めさほ)塚古墳とは大きく異なっている。
ただし女狭穂(めさほ)塚古墳は西都原古墳群のある西都原台地の中でもやや小高い地点に築かれているから、そもそも周濠を巡らすための水利がないのは当然と言えば言える。もし台地の上ではなく低地に築かれていたら、周濠があったのかもしれない。
その条件は西都原台地の男狭穂(おさほ)塚古墳にも当てはまる。その一方で肝属川の河口に近い低地にある唐仁大塚古墳には一重だが立派な周濠がある。
「松下さん、横瀬古墳の被葬者は誰だと思う?」T氏は難しい質問をして来た。
「うーん、横瀬古墳には畿内型の2重の周濠があるということだから、畿内と強い関係のある人物でしょうね。それから古墳の前方部の一角に賀茂神社が祭られているようで、そうなると古日向の鴨族の首長で畿内大和で活躍した人物。もしかしたら半島に渡りながら向こうで勝手な振る舞いをしたので王権から叱責されたという葛城襲津彦なんかどうでしょう?」
「いや、それは考えたことがないな」
T氏の困惑顔を目の当たりにしながら、それ以上の考えは引っ込めたが、はてさてこれから考えを深めてみよう。
その前に実は西都原古墳群の盟主「男狭穂(おさほ)塚」と「女狭穂(めさほ)塚」については、とある心当たりがあるのでそっちをまずは考えてみたいと思う。