鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

古日向域の巨大古墳②

2023-07-28 17:46:38 | 邪馬台国関連
【男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳】

古日向域(鹿児島県と宮崎県を併せた領域)の中でも宮崎県側には前方後円墳はじめ円墳や方墳などでも大型のものが多く、県域でこれら土を盛った「高塚古墳」は3000基は下らないとされている。

この数は高塚古墳の本場大和地方と、関東の両毛(上野・下野)地方と並び、全国でも屈指の数を誇っている。

中でも西都原古墳群に所在する「男狭穂塚」と「女狭穂塚」(以下「古墳」を省略)は最大の高塚古墳で、ほぼ同時に造営されたと言われ、被葬者が誰なのかに関心が集まっている。

宮崎県当地では並んで造られたこの二つの古墳の被葬者を(1)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメ説と、(2)諸県君牛諸井と娘で仁徳天皇の后妃に入内した髪長姫説、とに分かれている。

まず(1)の説だが、これは日向神話(天孫降臨神話)から比定された説で、いわゆる「神代」と言われる時代にこのような高塚古墳があったとは認めがたいので、即時に否定される。

次に(2)の諸県君牛諸井(うしもろい)を男狭穂塚にあて、娘の髪長姫を女狭穂塚に当てる説であるが、牛諸井が大和王権に仕えていたが年老いたため娘の髪長姫を代わりに差し出し、自分は本国に帰った(応神天皇13年条の割注による)とあるので、牛諸井が男狭穂塚の被葬者である可能性はゼロではないが、大和に上がった娘の髪長姫の墓が女狭穂塚である可能性はゼロである。

以上から男狭穂塚と女狭穂塚の被葬者についての地元宮崎の伝承は受け入れがたい。

ただ諸県君牛諸井の支配領域は「諸県(もろかた)」であるので、西都原よりも南の今日の都城市一帯からさらに南部の鹿児島県大隅半島部の大崎町・志布志市がこれに相当し、その領域内にある大型古墳なら牛諸井の陵墓として該当するかもしれない。

【狭穂彦と狭穂姫】

そこで視点を変えてみる。

垂仁天皇の后に「狭穂姫」がいた。この女性の出自は垂仁天皇紀では記されないのだが、実兄に「狭穂彦」がおり、この人物は開化天皇紀によると皇子の日子坐(ヒコイマス)王の子であるから、第9代開化天皇の孫に当たっている。垂仁天皇も開化天皇の子である崇神天皇の皇子であるから、やはり開化天皇の孫世代に当たる。

したがって垂仁天皇と狭穂姫の婚姻は世代的には整合性のあるカップルである。

ただし、どのような経緯で婚姻に至ったかの付いての記述はなく、垂仁天皇の2年に「狭穂姫を立てて皇后とす。后、ホムツワケノミコトを生みませる。」といきなり紹介されているだけである。

ところが4年になると急転直下、狭穂姫の兄狭穂彦が謀反を起こすよう狭穂姫をそそのかすのだ。

「なあ狭穂姫よ、垂仁と俺とどっちが好きなんだ。俺が好きだったら垂仁を殺せ。俺が天下を治めるのだ。」

こう姫に迫ったのである。

姫は兄の方を選んだのだが、垂仁を殺すことができず、かえって狭穂彦が謀反を起こしたとして天皇側から攻撃される。

この一件が垂仁天皇紀には「狭穂彦の反乱」として一項目を当てられ、かなり長い記述になっている。

だが、その内容が単純そのものなのである。サホヒコとサホヒメは堅固な稲城を作って、防戦したというのだが、その稲城がどこに造られたのか、防戦の仲間(配下)はいたのかいなかったのか、などについては全く書かれていないのである。

この点では同じ天皇に対する謀反でも、崇神天皇の時にあった「タケハニヤスとアタヒメの反乱」とは全く違う。こちらは官軍のヒコクニブクが奈良山に登って陣を敷いたこと、タケハニヤスに矢を射って殺したこと、多くの敵軍の首を斬り「はふりぞの」に捨てたことなど、争乱の姿が実に具体的であった。

ところがサホヒコの反乱には全くそれがないのだ。果たして奈良のどこで起きた叛乱なのか首を傾げるのである。

そこで私はどうもこの反乱は大和地方で起きたものでないのでは?――という疑問に逢着したのだ。

【キーパーソンは八綱田(やつなだ)】

垂仁天皇は鎮定将軍に「八綱田」という人物を起用する。

これに対してサホヒコは稲を積んで堅固な「稲城」を作って籠城した。妹のサホヒメも「兄を失ってはともに天下を治めることはできない」と皇后の身を捨てて兄のいる稲城に、皇子ホムツワケを抱いて入った。

これに対して天皇側は皇后と皇子の帰順を促すが、皇后は姿を現しながら結局従わなかったので将軍八綱田は稲城に火をつけて焼き払った。

(※この時皇子のホムツワケが救い出されたという記述はないが、23年条に30歳になっても言葉を話せなかったホムツワケが、空を飛ぶクグイを見て単語を発したため、アメノユカワダナに命じて取りに向かわせ、ついに但馬国で捕えた――という記事があるので、救い出されたのは確実である。古事記では稲城が焼き払われる前に赤子のホムツワケは天皇軍側に渡っている。)

稲城が焼き払われたことで首謀者のサホヒコとサホヒメが死んで「サホヒコの反乱」は一件落着となる。

この戦いで官軍を率いた八綱田は垂仁天皇から戦功を賞され、次の姓を貰うことになった。その性とは

<倭日向武日向彦八綱田>

で、これを多くの市販本の脚注は「やまとひむか・たけひむか・ひこ・やつなだ」と読むのだが、意味を採れ切れずにうやむやにしている。

この長い姓の中の「向」の解釈がなされていないことが最大のネックになっているのだ。

この「向」は「日向」という熟語として読んでは意味が分からないのである。「向かう」という述語として読まなければならないのだ。

そうすると次の解釈に至る。

<倭日(やまとひ)に向かい、武日(たけひ)に向かいし彦・八綱田>

倭日(やまとひ)とは、「あまつひ」からの転訛で、端的に言えば「邪馬台国」である。邪馬台国を私は「アマツヒツギのヒメミコの国」と考えており、アマツヒツギは漢字表現の邪馬台に、またヒメミコは漢字表現の卑弥呼にほかならない。

さらに武日(たけひ)とは古事記の国生み神話において筑紫(九州島)を構成する4つの国(筑紫国・肥国・豊国・熊曽国)のうち熊曽国がこれに該当している。熊曽国の別名が「建日別(たけひわけ)」であった。

以上から「彦(彦は本名のあとに付くのが普通だが、この場合「男の中の男」という強調表現だろう)八綱田」という人物は、九州の邪馬台国との戦いに従軍し(向かい)、さらに熊曽国との戦いにも従軍した(向かいし)軍士として一流の人物であったという属性が判明する。

こう解釈ができると、大和地域の内部(佐保地方)で起きたと一般に言われていることに対して大いに疑問符が付くのだ。大和地方の戦乱を鎮定したのならなぜそのような姓が与えられたのか、全く説明のしようがないのである。

【狭穂彦の反乱の性格】

サホヒコがいきなり皇后であった妹をそそのかして垂仁の天皇位を奪おうとしたのが、サホヒコの反乱の趣意であった。

しかしそれが大和地方で起きたようには感じられず、まして反乱を鎮定した将軍に対して「倭日(やまとひ)に向かい、武日(たけひ)に向かいし彦・八綱田」という賜姓が行われたことから考えると、実はサホヒコの反乱は崇神天皇時代に大和で起きた「タケハニヤスヒコの反乱」に呼応する叛乱ではなかったかと思われるのである。

要するにサホヒコは、タケハニヤスを最後の王権者とする南九州由来の「橿原王権」の南九州における近親者であり、遠く大和を治めていたはずの南九州由来の王権が北部九州から侵攻した「五十王権」こと崇神王権によって打倒されたという情報を得て、加勢すべく立ち上がったのだろう。

そこを足早に攻勢に出て来たのが八綱田を将軍とする官軍で、かつて南九州の投馬国王権が畿内大和へ向かったのとは反対に、海路攻め上って来た。

サホヒコは稲城を造って防戦したというが、南九州には「稲積」という地名伝承があり、防御施設としての稲城は普遍的であったのかもしれない。だが、サホヒコは敗れた。

妹のサホヒメが垂仁天皇の最初の皇后だったというのは、垂仁天皇こと「イクメイリヒコイソサチ」の時代、つまり「生目」(倭人伝では伊支馬)だった若き日に南九州(古日向)の投馬国から貰った嫁だったことを意味しているのだろう。

そのサホヒメも兄のサホヒコに殉じた。ただし垂仁(イクメイリヒコ)との子ホムツワケを残して。ホムツワケは稲城が燃え、すべてが火の中に崩れ落ちる前に救い出されたのだが、このシーンはカムアタツヒメ(コノハナサクヤヒメ)が「火中出産」したことを想起させるに十分だ。

かくて古日向のおそらく諸県地方から宮崎地方のどこかで、サホヒコとサホヒメは火の中で帰らぬ人となった。

これを悼んだ古日向人が西都原台地の奥津城に葬ったのではないだろうか。それこそが「男狭穂塚」と「女狭穂塚」であったとは考えられないだろうか。