鴨着く島

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伊勢神宮の創設(1)

2023-07-11 09:35:07 | 邪馬台国関連
7月7日のブログ『夏の大三角形と石棺の蓋』の最後の方で、崇神天皇が開いた纏向の王権はそれまでの南九州投馬国由来の橿原王権に取って代わったが、次代の垂仁天皇の時代に皇女ヤマトヒメが伊勢神宮創始のもとを作ったのは南九州由来の王権では成し得なかったことだ――と書いた。

今回はその点について、日本書紀の垂仁天皇紀から記事を抽出し、考察しておきたい。

垂仁天皇は崇神天皇の皇子で和風諡号を「イクメイリヒコイソ(五十)サチ」といい、父の和風諡号「ミマキイリヒコイソ(五十)ニヱ」とは「イソ(五十)」が共通である。

この「イソ」の「五十」とは福岡県糸島市のことで、九州説にせよ畿内説にせよ多くの邪馬台国論者が糸島市を「伊都国」と比定している。しかしそれだとまず末蘆国(佐賀県唐津市)からの方角が合わず、また糸島市なら壱岐国から直接船が着けられるのにわざわざ唐津から海岸沿いの悪路を迂回する必要はないことから、それが誤りであることは常識的に考えれば誰もが分かりそうなものだ。

糸島地方がもともとは「五十(イソ)」だったことは、仲哀天皇紀と筑前風土記逸文に「イソ(伊蘇=五十)が正解で、イト(伊覩)は後世の転訛である」とちゃんと断ってあるのだが、無視されている。また糸島市(旧前原町)の旧社「高祖(たかす)神社」に祭られているのは「高磯媛(たかいそひめ)」であり、美称の「高」を外せば「イソヒメ」で、やはり糸島地方は「イソ」だったことが分かる。

だが伊都国糸島説は本当に根強く、江戸時代から連綿と続く邪馬台国論において真理とされ、疑問を持っても改変しようという勇気ある論者はほぼ皆無である。ここを改正しないと邪馬台国論は水掛け論が際限なく続く(現実に続いている)。

この五十(イソ)地方を根拠地として発展したのが半島からの崇神王権で、やがて北部九州(筑前)をほぼ糾合し、「大倭」と称された。倭人伝に記載の「大倭をして監せしむ」とある「大倭」である。

これに対して八女市を本拠地として筑前と筑後をまとめていた邪馬台国連盟21か国の中心である八女女王府に「伊支馬(イキマ=イクメ)」という名の「1等官」として赴任していたのが崇神の皇子垂仁こと「イクメ(活目)イリヒコ」であった。

しかしながら五十(イソ)由来の崇神王権が「大倭」(大倭国)と称されるまでになった頃、半島における魏王朝の圧力の高まりを受け、崇神(五十)王権こと大倭は北部九州を離れることを決意する。行き先はかつて南九州投馬国が入部していた畿内であった。

三年余りという短期間で畿内の大和纏向に入った崇神王権は、大和にとってはよそ者であるがゆえに、崇神の皇女ヌナキイリヒメは土地神の最高位である「倭大国魂神」を祭ることができなかった(これが崇神王権の大和自生でない大きな証拠だ)。

その一方で天照大神については皇女トヨスキイリヒメによって無事に祭ることができていた。ということは天照大神についてはすでに崇神天皇が北部九州の五十(糸島)に王宮を構えていた頃には祭っていた可能性が高い。

天照大神は高天原の存在でミスマルの玉こそが神宝であったのだが、地上において祭るには「ご神霊を鏡に写して祭る」のが祭祀の方法であった。糸島の弥生甕棺墓からもだが、考古学者原田大六によって「弥生古墳」と名付けられた平原古墳からは大量の鏡が被葬者に添えられていた。

その数何と40面。特筆すべきは「八咫鏡」と言われる伊勢神宮の神宝(御正体)と同じ「八咫」(八咫とは鏡面の周囲の長さ。直径は約46㎝)の大きさの巨大な鏡が4面あったことだ。皇室祭祀に連なる伊勢神宮神宝の八咫鏡信仰は糸島こと「五十(イソ)」から始まったと考えらてよいのではないか。

崇神(五十)王権こと「大倭(国)」が畿内纏向に東征したあと、トヨスキイリヒメが天照大神を祭り続けられたのも、すでに糸島において鏡の祭祀に習熟していたがゆえに、途切れることはなかったのだろう。

ただし天照大神は天皇の宮殿内に祭られる「同床共殿」を嫌がられたので、垂仁天皇の時代になって皇女ヤマトヒメがトヨスキイリヒメと交代してから祭祀の適地を求めることになったのであった。・・・(2)へ続く