昨日の新聞だが、鹿児島県の有名な遺跡である種子島の南種子町には弥生時代から古墳時代にかけての広田遺跡があり、そこで発見されていた100体以上の人骨を先端技術の画像で再現したところ、それら頭蓋骨の特徴が明らかになった、という。
この遺跡に眠る集団は頭蓋骨を変形させており、同時期の弥生時代人骨と比べて明らかに大きな違いがある。
変形の仕方は明らかではないが、後頭部が絶壁のようになり、頭蓋骨そのものにも窪んだような跡があるそうだ。
3Dスキャンで立体的な画像に再現した九州大学の研究者は、「男女を問わず、赤ん坊の頃から頭に何かを巻いていたと考えられる。集団のアイデンティティーを示すためではないか」と言っている。
形質人類学では上の段の山口県出土の弥生人の頭蓋骨は「長頭」(前後に長い)に属すとし、下段の広田出土の頭蓋骨は縄文人に多い「短頭」のタイプだとしている。
縄文人はもともと広田遺跡の人骨ほどではないが、短頭に属するとされており、弥生時代から古墳時代になって長頭化が顕著になったというのが形質人類学の結論である。
その違いは何故なのかに関しては、弥生人の多くが半島由来の集団であり、彼らが長頭であったがゆえに、縄文人と混血をしたあとも、長頭の遺伝子が強く働いたのではないだろうか。
というのは魏志韓伝の「辰韓人」について彼らの風習の中で、次のような変わった習俗が見られると書いてあるのだ。
<児を生むや、すなわち石を以てその頭を圧す。その褊(ヘン=狭い)なるを欲すればなり。今、辰韓人みな褊頭(ヘントウ)なり。男女倭に近く、また文身せり。>
(訳)赤ん坊が生まれるとすぐに石を頭に押し当てるが、頭の幅を狭くする習俗なのである。狭い方がいいというのだ。たしかに辰韓人はみな頭の幅が狭い。彼らは倭人に近い集団である。文身(入れ墨)も施している。
辰韓人のこの習俗が列島の弥生人や古墳人に取り入れられたという証拠はないが、遺伝的な影響を受けた可能性は高いと思われる。
それでは広田遺跡の極端な「短頭」集団はどうして生まれたのか。これについての文献はないから、推測するしかないが、上の研究で明らかになったように、何らかの後頭部への圧迫が習俗としてあったのは間違いないだろう。
ただその理由がはっきりしない。単に他の集団と区別するためのアイデンティティー確保のための短頭化なのだろうか。
広田遺跡は砂丘の上にあったという。しかも遺跡からは有名な「貝符(かいふ)」が多数見つかっている。他にもイモガイ製の腕輪があるから、彼らの集団はいわゆる「海人」であり、南海産の貝を求めて船で縦横に往来していたのだろう。
南海産の貝殻は薩摩半島の金峰町に所在する高橋貝塚でも多数が見つかっており、しかもそこでは加工がなされていたようである。
これらの結びつきはもちろん文献では確認できないが、船のルートによれば比較的たやすく行き来ができるから、繋がりが無いと決めることはできない。
また人骨の身長は150センチメートル内外と低身長であるという。このことから思い出したのだが、魏志韓伝に戻ると、三韓人とは異質なタイプの島人がいるという記事がある。
<三韓の中の馬韓の海の中に大きな島があり、そこに住む「州胡」(島の蛮人、と貶めた言い方)は短躯であり、話す言葉が馬韓人とは違う。頭髪を剃ってしまい、鮮卑のようである。好んで牛と猪を飼いならす。(中略)船に乗って往来し、韓の中に行って物を売り買いしている。>
という集団がいた。この集団は具体的には済州島の住民だが、「短躯」(低身長)といい、「船で往来している」といい、広田遺跡人を彷彿とさせる。
済州島の同時代人の遺骨が発掘されればはっきりするのだが、今のところ見つかっていない。しかし同じ海人族であることは間違いないだろう。
さて「短頭」にしたのは宗教的な理由とも考えられるが、今回の研究によって赤ん坊の頃から何か頭に巻いていた可能性が指摘された。しかし単なるアイデンティティーつまり集団的なファッションではないだろう。
もしかしたら生涯にわたって頭に鉢巻のような物を巻き付ける日常があり、鉢巻がしやすく、ずれ落ちにくいよう頭にフィットさせるための「実用的な変形」だったのかもしれない。