宮崎市生目にある生目古墳群も生目神社もかつてそれぞれ別個に訪れてはいるのだが、今回は同時に行ってみた。
付近を流れる一級河川大淀川が宮崎市街地に入る直前に少し北側に膨らみ、今度は上流から見て右回りに南に向きを変えてほぼ河口付近まで南流するその流れに囲まれた地域にあり、そこはかつての生目村であった。
その生目村の「生目(いきめ)」という地名の語源は生目神社のようだ。
生目神社を参拝した際に貰った「生目神社御由緒」によると、かつては生目八幡宮と言われたことがあり、明治維新以降は生目神社と改称された――とあり、さらにこの神社のことは『宇佐大鑑』によれば天喜時代(1053~1058年)のこととして八幡社の存在が見え、棟札には宝徳2年(1450年)5月に遷宮祭があったことが記されているという。
文書の上だけでもすでに約1000年前には創建されていたことが分かり、この神社(当時は生目八幡社)の「生目」から当地の広い範囲が生目の地名となったようである。
生目神社のある所は生目地区でも比較的高い丘の上にあり、神社の南側は「生目台」と呼ばれる住宅団地で、道路で分断されているが東側には「大塚台」という住宅団地がある。全体として丘陵地帯と言える。
そのシンボル的な中心が生目神社だ。国道10号線を宮崎方面に向かうと「浮田」という立体交差点があり、それを降りて道路一本を抜けて直進し、右折すれば神社のある丘陵の下に出る。
案内表示に従い、うっそうとした社叢の縁を撒くように上がると鳥居下の駐車場に至る。
階段の上の「一の鳥居」までの高さは4mほどだろうか。さほどの高低差ではないが、一般的な鳥居の位置としては高い方だ。
鳥居を上がると直線の長い参道で、50mではきかないかもしれない。
舗装はされているので歩きやすいが、真夏の日差しの強い時期だと照り返しに悩むだろう。
参拝者の駐車場は左奥の赤いポストの見える家の手前にあった。5,6台は停められそうである。
右手の見事な塀と植栽のある家は宮司さん宅で、表札には「高妻」とあり、「こうづま」とお呼びするのだろう。
二の鳥居の奥の拝殿は立派な造りで、由緒を偲ぶに十分だ。
さてこの不思議な「生目」という名称だが、先の由緒書きによると、説が3つあるという。
1、藤原景清が日向に下向した際にこの地に幽閉された。没後に景清の「活けるがごとき霊眼」を奉斎したため。
2、当地は昔から眼病患者を良くする霊験があり、庶人がその御神徳を尊んで「生目の神」としてあがめたため。
3、景行天皇の父に当たる「活目(イクメ)入彦五十狭茅尊」(垂仁天皇)を奉斎したお宮であるから。
このうち、1と2は「生目」の漢字からの当て推量に過ぎない。「志布志市」の「志布志」を「村人が志(こころざし)の布を天智天皇に捧げる志(こころざし)があった」ことから地名が生まれたという説があるが、これと似ている。
私は3の説が近いと思う。ただ、この説では古書から引用をしただけで歴史的な背景は全く考慮されていないのが残念である。(※私の考えは別稿で書いて行くことにする。)
さて生目神社から、元来た道を戻り、今度は「浮田」交差点を突き抜けて行く。県道9号線である。これを1.5キロほど行くと跡江交差点で、ここを左折して500m足らず、右手の田んぼの向こうにこれから行く「遊古館」の建物と後背の丘陵が見える。
(※この丘陵に生目古墳群があるので、この丘陵を「生目丘陵」と呼びたいところだが、ここは古来、跡江村に属しており、「跡江丘陵」が正確な呼び方である。跡江は跡江貝塚で有名で、縄文時代は丘陵の近くまでが海域であった。)
遊古館の開館は8時半と思っていたのだが9時からということで、駐車場に車を入れてから、先に丘陵上の「生目古墳群史跡公園」を見ることにした。
上るとすぐに平坦地が広がり、そこからは南北1キロ余り、東西0.5キロほどの台地の辺縁にポツンぽつんとある古墳を訪ねることになる。
史跡公園の案内図を眺めていると、何だか緑色の犬か何かに見えて来た。
頭に当たる所から、1号墳、2号墳・・・と号数の順番を決めて行ったようだ。
購入した解説書によると前方後円墳が3基あり、犬の頭のにあるのが全長130mの1号墳、胸にあるのが全長137mの3号墳、お尻にあるのが全長101mの22号墳で、園内にある前方後円墳8基のうち3基も100mを超える全長後円墳が見られるのは九州では随一だという。
しかも101mの22号墳が4世紀後半、130mの1号墳も4世紀後半、3号墳(137m)に至っては4世紀半ばの造成で、古墳前期の4世紀代だけに限れば、生目古墳群は当時九州最大規模の前方後円墳地帯であった。
生目古墳群中最大の3号墳の後円部。直径は77mあるとか。近くで写したので全体は入りきらない。山頂部の高さは比高で12mほど。
同じ九州宮崎の西都原にある男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳はともに176mと九州最大だが、時代は古墳時代中期なので約1世紀後の物。また大隅地区にある唐仁大塚古墳(148m)・横瀬古墳(140m)なども九州では屈指の大きさだが、どちらも5世紀代である。
残念なことに生目古墳群は昭和18年に国指定の史跡になっており、後円部墳丘の頂上を発掘することはできないそうである。
22号墳の頂上部をレーダー探索機で調査したところ、長方形の物が埋まっているとまでは観測できたのだが、それ以上の調査はできないという。
隔靴掻痒とはこのような状態をいうのだろう。発掘屋(考古研究者)が発掘できないとは気の毒千万。
この古墳群の被葬者たちはどんな人たちなのか、特に4世紀半ばに築造されたとされる当時の九州では最大の大型前方後円墳「3号墳」の被葬者は誰なのか、謎は深まるばかりだ。