鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

幻と化した大隅線

2023-11-19 15:12:50 | おおすみの風景

今朝の新聞に旧国鉄(現在はJR九州)の「肥薩線の開業120周年、指宿枕崎線60周年」という記事があった。

九州でもかなり古参の肥薩線が日露戦争の頃(1904~5年)に開業されたということは知っていたが、指宿枕崎線が1963年(昭和38年)に全線開通を見たというのは知らなかった。

120周年を迎えた肥薩線はもともと鹿児島本線の一部だった。熊本県の八代市から海辺を離れて球磨郡の人吉から南へ峠を越えて鹿児島県に入り、栗野町・湧水町・霧島市を通って錦江湾沿いに鹿児島市へとつながていたのである。

現在の鹿児島本線からしたら随分と山中を遠回りしていたのだが、なぜ山中を迂回したかというと、それは日露戦争が関係しているという。

それはロシアの海軍(バルチック艦隊)は当時世界でも最優秀の性能を持っており、日本近海にまでやって来ることが可能だったことにある。

その艦隊が東シナ海に到達した時、海辺を走る鉄道では「艦砲射撃」の餌食になるという心配があった。そんなことあるものかと思いがちだが、事実、東郷平八郎率いる日本艦隊がバルチック艦隊と衝突したのは、九州北部の対馬海峡だったのだ。

運よく対馬沖のバルチック艦隊はほぼ壊滅したのだが、もし向こうが勝っていたらかの艦隊は九州の沿岸部を砲撃して回ったかもしれない。その際、真っ先に攻撃されるのは都市部(の兵器工場など)だろうが、沿岸部の輸送動脈である鉄道も寸断されていたに違いない。

そのことを考えての人吉周りの鹿児島本線全線開通だったのだそうだ。120年前の明治人は読みが深かったというべきだろうか。

一方で指宿枕崎線は昭和11年(1936)までに指宿市の山川駅まで開通していたのだが、さらに今の終着駅である枕崎駅までの区間を戦後になって延伸し、ついに昭和38年(1963)の10月に開通した。始発の西鹿児島駅(現在は鹿児島中央駅)から枕崎駅まで36駅、87、8キロもある。

令和5年(2023年)現在、指宿枕崎線は全線が開通してちょうど60周年となる。

その一方で、大隅半島を走っていた旧国鉄「大隅線」は昭和62年の3月に全線が廃止となった。

大隅線の鹿屋市の古江駅から志布志駅までの区間48キロは、先に昭和13年に「古江線」として開通していた。この古江線は、大隅半島を東の外れの志布志港から西の外れの古江港までを走る大隅半島の大動脈と言える存在だった。

古江線は錦江湾沿いに延伸され、昭和36年には垂水市の海潟温泉駅に至り、古江線は「大隅線」と改称された(志布志-海潟間64キロ)。これで大隅半島の主要都市である志布志市・鹿屋市・垂水市が一本の路線でつながり、住民の公益に大いに資することになった。

指宿枕崎線が全線開通したのはその2年後の38年で、枕崎市は県都鹿児島市と直接つながることになったのだが、これを知った大隅の住民の中に「大隅も県都と直接つながるべきだ」と考える向きがあったのだろう、「延伸して国分までつなげよう」との声が大きくなった。

これを受けて海潟温泉駅からの延伸工事が始まったのである。この工事が実に難工事であり、国分駅までの33キロ余りの距離に鉄路を敷くのに9年の歳月を要している。指宿枕崎線では山川駅から枕崎駅までの同じ30キロ程度の工事期間がわずか2年だったのに比べると雲泥の差である。

垂水市から国分市までの区間は鹿児島湾沿いの海に面したカルデラの淵を通ることになり、トンネルの数がわずか33キロの距離にたいして19か所もあったのが工期が長期にわたった最大の要因だろう。

ともあれ昭和47年(1972)には、薩摩半島側でも大隅半島側でも県都鹿児島市への鉄道利用が可能となったわけである。

しかしこの時代頃から、鉄道輸送はトラック輸送にとって代わられつつあったこともあり、もともと大隅の各市から鹿児島市や国分市(現・霧島市)への旅客需要が極めて少ないこともあって、赤字路線になるのに時間はかからなかった(国分方面に延伸した時点で赤字になったとも考えられる)。

15年後の昭和62年(1987)、ついに大隅線(98キロ、33駅)は廃止のやむなきに至った。同時にまた志布志市と都城市を結ぶ志布志線も廃止になった。

大隅半島から鉄路が消滅し、大隅線は幻と化した。あれから36年、いまだに大隅線を惜しむ人たちがいるのは事実である。

旧大隅線「吾平駅」の跡はちょっとした公園になっている。まだ鉄路が敷かれたまま残り、そこに当時の車両(ディーゼルカーと車掌車)が乗っているのは大隅線の駅跡としては珍しい。

車両の左側が旧プラットホーム。駅舎はさらに左手の広場にあったが、駅舎の跡を思わせるものはない。

ただし吾平駅から志布志側(写真では手前)に二駅行った「高山駅」跡には駅舎がそのまま残されている。


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