「一日(ついたち)参り」は正月元旦くらいしか出かけたことがないが、今日は6月1日で、ここ3日は上天気が続いており、参拝日和ということで、近所の岩戸神社というかつての大姶良の村社に参拝した。
岩戸というからには「天の岩戸」つまりアマテラス大神の籠ったという岩屋を連想するが、ここの岩戸は本物の岩そのものである。この神社の南の山中に高さ幅、共に20mもある大岩があり、それがご神体なのである。余りの山中なため老人婦女子の参拝に便ならず、里宮としてここに遥拝所を建立したというのが由緒だ。
御祭神は「天日別命」(天日鷲命ともいう)で、忌部氏の祖先に当たる。忌部は斎部とも書き、『古語拾遺』を著した斎部広成は四国の阿波忌部の家門である。鳥居の横の看板には「疱瘡(天然痘)が流行すると人々が沢山参拝に来る」とあり、ここは「疱瘡の神」だそうで、今流行の新型コロナ禍にも良いのかもしれないが、たくさんお参りに来ている風ではない。原因が分かってしまっているから仕方あるまい。
この神社の創建は不明だが、棟札に「永禄二年(1559年)、願主 鳥越刑部左衛門藤原岩吉」とあるので、戦国時代末期には建てられていたのは確かである。1559年と言えば、フランシスコザビエルが薩摩出身の従者ヤジロ―の導きで鹿児島に着船したのが1549年だから。ちょうどその10年後である。
当時まだ島津氏は鹿児島を完全に掌握してはおらず、伊集院の一宇治城に居住していた島津貴久(義久・義弘の父)に面会し、鹿児島でのイエズス会布教の許可を得ている。
この時代はキリスト教もだが、南蛮文化、特にポルトガルが貿易に乗り出し始め、薩摩半島の山川や大隅の根占の港にポルトガル船が投錨している。また禰寝氏が山を越え、大姶良地方を肝付氏から奪おうとして一線を交えたのもこの頃である。
1559年から15年後の天正2年には肝付氏も島津氏の前に屈服し、大隅地区の豪族(禰寝氏・伊地知氏)も前後して降伏している。
また、近くの大姶良城には南北朝の頃、島津氏6代目の氏久が入城しており、7代目元久はここの生まれである。産湯を甲斐甲斐しく準備したというので土地の者が「繁昌」という姓を貰ったというエピソードがあり、今日でも繁昌氏が大姶良に残っている。
ところで、この大姶良麓の隣の集落を「獅子目」というが、ここはかつては「志々女」とも書いた。風変わりな地名だが、続日本紀に登場する奈良時代の「岐直シジウシ」はここの豪族(ウシ)だったと考えられる。獅子目田んぼの間にせり出している丘陵の上には「獅子目城」があった。
さて里宮の参拝を終え、ご神体だという山中の大岩に行った(舗装の林道があり里宮から車で15分くらい)のだが、あいにく林道から歩いて行く登山道が草がぼうぼうで登り切れず、引き返したが、一度は拝んだことがあるので、今日は里宮からの「遥拝」ということで収めることにした。
【追 記】
鹿児島県史料シリーズ『名越時敏 史料10』をぱらぱらと捲っていたら、岩戸神社に関する興味ある記述に出くわした。
それは肝属郡の岩戸大明神(大姶良の岩戸神社)と川上大明神(大根占の川上神社)についてのもので、御祭神の「御嫌物」(お嫌いになる物)により、「当氏子たちは正月が明けて2月の初午・初卯の祭礼が済むまでは、決して田畑を耕作せず、井戸を掘ったりもせず、縫物も仕立てたりしない」というそれぞれの宮司の「覚書」を報告させた肝属郡郡奉行「平田直次郎」の上申書が藩全体の神社を統括する大宮司(本田氏)に対して行われた(天保9=1838年)――というものである。
一回読んだだけでは意味が呑み込めなかったが、数回読んでいるうちに、「御嫌物」とはいわゆる「禁忌」に当たることが分かった。つまり二つの神社の御祭神が「こうしたことを嫌う」、その「こうしたこと」の中身が、「二月の初午や初卯の祭礼(おそらく祈年祭だろう)の前に田畑や何かれと氏子が仕事をするということ」で、それが御祭神には気にくわない。だから神社の氏子たちは何もできない、というのである。
これは当然、封建時代の道徳に反することで、氏子(百姓)が年が明けて2月の半ばまで田畑や縫物の仕事までやらないということは「職場放棄」に等しい。
そこで藩の大宮司は、国の大宮司すなわち「京都の吉田家」にお伺いを立てた。すると吉田家とそれを取り巻く神道界の大御所たちの采配で、御嫌物(禁忌)を解くべく、「幣帛とお告げ文」が送られて来た。それを二社それぞれに奉斎して「御祭神をなだめ奉ればよい」ということで一件落着したようである。
その代金が、幣帛とお告げ文代が「7両2分」、吉田家へは「白銀2枚」、神道界の大御所たち9名へ「10両」だったそうである。「地獄の沙汰も金次第」というが、この場合、「神様事も金次第」。当時の一両は今日の10万円に当たるそうだ・・・。
同じ肝属郡の花岡村の当座大明神(現・高千穂神社)は同じように「御嫌物」による支障があり、こちらは享保11年(1726年)に上伸して「正一位」の神階を授けられたとも書いてある。
こっちはいくら上納したのだろうか?
岩戸というからには「天の岩戸」つまりアマテラス大神の籠ったという岩屋を連想するが、ここの岩戸は本物の岩そのものである。この神社の南の山中に高さ幅、共に20mもある大岩があり、それがご神体なのである。余りの山中なため老人婦女子の参拝に便ならず、里宮としてここに遥拝所を建立したというのが由緒だ。
御祭神は「天日別命」(天日鷲命ともいう)で、忌部氏の祖先に当たる。忌部は斎部とも書き、『古語拾遺』を著した斎部広成は四国の阿波忌部の家門である。鳥居の横の看板には「疱瘡(天然痘)が流行すると人々が沢山参拝に来る」とあり、ここは「疱瘡の神」だそうで、今流行の新型コロナ禍にも良いのかもしれないが、たくさんお参りに来ている風ではない。原因が分かってしまっているから仕方あるまい。
この神社の創建は不明だが、棟札に「永禄二年(1559年)、願主 鳥越刑部左衛門藤原岩吉」とあるので、戦国時代末期には建てられていたのは確かである。1559年と言えば、フランシスコザビエルが薩摩出身の従者ヤジロ―の導きで鹿児島に着船したのが1549年だから。ちょうどその10年後である。
当時まだ島津氏は鹿児島を完全に掌握してはおらず、伊集院の一宇治城に居住していた島津貴久(義久・義弘の父)に面会し、鹿児島でのイエズス会布教の許可を得ている。
この時代はキリスト教もだが、南蛮文化、特にポルトガルが貿易に乗り出し始め、薩摩半島の山川や大隅の根占の港にポルトガル船が投錨している。また禰寝氏が山を越え、大姶良地方を肝付氏から奪おうとして一線を交えたのもこの頃である。
1559年から15年後の天正2年には肝付氏も島津氏の前に屈服し、大隅地区の豪族(禰寝氏・伊地知氏)も前後して降伏している。
また、近くの大姶良城には南北朝の頃、島津氏6代目の氏久が入城しており、7代目元久はここの生まれである。産湯を甲斐甲斐しく準備したというので土地の者が「繁昌」という姓を貰ったというエピソードがあり、今日でも繁昌氏が大姶良に残っている。
ところで、この大姶良麓の隣の集落を「獅子目」というが、ここはかつては「志々女」とも書いた。風変わりな地名だが、続日本紀に登場する奈良時代の「岐直シジウシ」はここの豪族(ウシ)だったと考えられる。獅子目田んぼの間にせり出している丘陵の上には「獅子目城」があった。
さて里宮の参拝を終え、ご神体だという山中の大岩に行った(舗装の林道があり里宮から車で15分くらい)のだが、あいにく林道から歩いて行く登山道が草がぼうぼうで登り切れず、引き返したが、一度は拝んだことがあるので、今日は里宮からの「遥拝」ということで収めることにした。
【追 記】
鹿児島県史料シリーズ『名越時敏 史料10』をぱらぱらと捲っていたら、岩戸神社に関する興味ある記述に出くわした。
それは肝属郡の岩戸大明神(大姶良の岩戸神社)と川上大明神(大根占の川上神社)についてのもので、御祭神の「御嫌物」(お嫌いになる物)により、「当氏子たちは正月が明けて2月の初午・初卯の祭礼が済むまでは、決して田畑を耕作せず、井戸を掘ったりもせず、縫物も仕立てたりしない」というそれぞれの宮司の「覚書」を報告させた肝属郡郡奉行「平田直次郎」の上申書が藩全体の神社を統括する大宮司(本田氏)に対して行われた(天保9=1838年)――というものである。
一回読んだだけでは意味が呑み込めなかったが、数回読んでいるうちに、「御嫌物」とはいわゆる「禁忌」に当たることが分かった。つまり二つの神社の御祭神が「こうしたことを嫌う」、その「こうしたこと」の中身が、「二月の初午や初卯の祭礼(おそらく祈年祭だろう)の前に田畑や何かれと氏子が仕事をするということ」で、それが御祭神には気にくわない。だから神社の氏子たちは何もできない、というのである。
これは当然、封建時代の道徳に反することで、氏子(百姓)が年が明けて2月の半ばまで田畑や縫物の仕事までやらないということは「職場放棄」に等しい。
そこで藩の大宮司は、国の大宮司すなわち「京都の吉田家」にお伺いを立てた。すると吉田家とそれを取り巻く神道界の大御所たちの采配で、御嫌物(禁忌)を解くべく、「幣帛とお告げ文」が送られて来た。それを二社それぞれに奉斎して「御祭神をなだめ奉ればよい」ということで一件落着したようである。
その代金が、幣帛とお告げ文代が「7両2分」、吉田家へは「白銀2枚」、神道界の大御所たち9名へ「10両」だったそうである。「地獄の沙汰も金次第」というが、この場合、「神様事も金次第」。当時の一両は今日の10万円に当たるそうだ・・・。
同じ肝属郡の花岡村の当座大明神(現・高千穂神社)は同じように「御嫌物」による支障があり、こちらは享保11年(1726年)に上伸して「正一位」の神階を授けられたとも書いてある。
こっちはいくら上納したのだろうか?
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