鴨着く島

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ノーマザー、ノーライフ(再考)

2022-08-29 15:39:31 | 母性
昨日は読売テレビ(KYT)で放映の24時間テレビを観ていた。合間にいつも視聴する「笑点」があるから序でにというと叱られそうだが、タレントの誰かが走る「100キロランニング」という企画は楽しみではある。

今年は兼近という若いヤンキーっぽいタレントが走ったが、それよりも同時に少年少女の身体障碍者を含む3組がそれぞれの困難を乗り越えて好きなことに邁進する姿が放映されていたが、これには感動した。

51.5キロのトライアスロンに挑戦した小6の少女は、父母ともにトライアスロンの選手だそうだが、父親は本人が2歳の頃に他界しており、結局、直接的には母の影響下でトライアスロンに挑戦するようになったという。

兼近の100キロランと合わせて放映していたが、少女の方が早く、明るいうちに、どこかの河川敷に設けられたゴールに到着した様子が映された。

そこには母が待っていた。気付いた少女は母に飛びつき、しがみついた。幼児がよくする「子ども抱っこ」そのものだった。小6の少女にしては可愛いと言えば言えるが、普通はもうしない抱っこだろう。51.5キロを単独で走り切るという重圧から解放されたその瞬間だった。やはり母の存在感なのだ。

二番目の子は10歳の少女で、首から下がほとんど動かせず、口に咥えたサインペンのような物で紙に絵を描いたり、字を書いたりして意思を伝える他ない子であった。

6歳か7歳くらいまではごく普通の女の子だったのだが、突然脳脊髄に腫瘍が現れ、身体の運動が不可能になったそうで、首の後ろ側の太い脊髄に腫瘍があるので、手術で除去できないらしい。

それでも明るい子である。去年弟が生まれ、今は歩くようになって自分を姉と慕う姿にいたく感激しているのだそうだ。

「神さまがお父さんお母さんのもとへ生まれるのを許してくれた。弟もそうだよ」と言っている。

子どもは単刀直入だ。決められた両親のもとに生まれるのは宿命(命を宿す)である。

その宿命によって授けられた子を親がどう育てるか。これが運命(命を運ぶ)になる。

親は子の鏡だから、たいてい親は子に自分のやっていたことをさせたいと思うはずだ。子どもも親を選んできた以上、おおむねそれに異存はないだろう。

「子は親の背中を見て育つ」ということわざは、親が余りにもああしろこうしろと操縦してはいけない、かえって逆効果になるということの教えだが、姿(親の背中)を見せないようではまずい。子は自分の存在を無視されたようで困惑するほかない。

やはり家庭内のことは母親が、それ以外は主に父親の出番だろう。そこに役割分担があるのだが、当節は家庭に母親がいないことが多い。これが子どもを家庭から遠ざける原因で、「選んで生まれてきた」子どもからすれば当然の話である。

この10歳の少女の家庭は両親が揃っているのだが、やはり寄り添ってもらいたいのは母親だろう。同性ならなおさらだ。

それにしても明るい少女である。少女の夢がかなって欲しいものだ。(※母親の寄り添いをちゃんと得ていることで、もう半分かなっている!)

3番目は両足の無い14歳の少年の話であった。

生まれつき両足がないわけではなく、全く足として機能しない足に生まれついたこの少年のことは、かつてこの番組で取り上げたらしく、当時の少年の様子が放映されていた。

小学校に入る段階で、機能しない両足を切断するという大手術を受け、その後は上半身だけで順調に生育している。車いすバスケットにチャレンジし、上半身の身体能力だけで立派に競技に出たりしている。

健常児の兄がいて、弟と同じ車いすバスケットに取り組んでいるというから頼もしい。上の10歳の少女の見立てでは、同じ親のもとに生まれて来る兄弟はまさに運命共同体なのだろう。

そしてこの兄弟にも優しい母がいる。

これら3例とも、母の寄り添いは十分のようであった。

当たり前だが、子どもは母に宿ってこの世に生を享ける。母なくしていかなる子もこの世に生まれることはない。

「ノーマザー、ノーライフ」の第一義的な意味はそれである。これも以前言ったが、たとえ大富豪イーロンマスクが20兆円出そうと30兆円出そうと、ひとりの赤ん坊も造れないのだ。

「ノーマザー、ノーライフ」の二次的な意味は、「母の寄り添いなくして子は育たない」ということで、ここからは「運命」の範疇だ。生母がいなければ、それに代わる祖母や叔母の存在を必要とするだろう。もちろんそれが父親であってもよい。「寄り添うこと」が可能ならば・・・。

「ノーマザー、ノーライフ」は時代と状況によって濃淡はあるが、人種・民族・国家を超越する「道」、それももっとも宗教に近い道である。

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