鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

「大隅の鴻儒・九華と足利学校」について

2019-11-13 09:59:05 | おおすみの風景
10月26日に東京都にお住いの嶺井正也さんという方から標記の「大隅の鴻儒・九華と足利学校」という大隅史談会会誌『大隅』の第一号に掲載された論考のコピーを送っていただいた。

この論考は大隅史談会の初代会長・永井彦熊先生が書かれたもので、大隅出身の「九華」(きゅうか=これは僧侶で言えば出家名だが、儒者なので若干意義は違うけれどもペンネームというべきか)という人物が当時の学問所として最高峰の「足利学校」の校長になり、それも門弟3千人というほど学識に優れた人であったそうである。

嶺井さんからは最初私のところにお問い合わせがあり、『大隅』第一号に永井先生の論考があるがこちらでは手に入らないとお答えしたら、何と鹿児島県立図書館に聞いたら第一号がありますとなり、コピーを分けてくださったのであった。

嶺井さんには読んでから返事を差し上げようと思い、読んではみたものの難解この上なく、九華の学問(儒学と易学)はもとより解説を施して下さっているはずの永井先生の論考そのものに悪戦苦闘することになってしまい、お礼の返信もままならぬまま3週間が過ぎてしまった。

論考の中でもっとも知りたいのは九華の出自で、大隅出身とあるにしてもいったいどこのどの家柄の出自なのかが、まずは知りたいところである。

以下に書き連ねたことは実は嶺井正也さんのブログにコメントとして書き込もうとしたもので、何回やってもブログのコメントに繋がらないので、嶺井さんも見に来て下さっているという当ブログ「鴨着く島」に掲載してみました。


まず九華の出自に関して永井先生は「九華は明応7(1498)年、我が大隅の伊集院氏の支族に生まれた。生年の月日は判明せぬが、大隅の伊集院氏であるから当時の大隅における伊集院は垂水か加治木か判明しないが、現在伊集院の姓の垂水方面に多いところから見て、或いは同地方であったかも知れず、或いは伊集院の姓でなかったなかったかも知れない。名は瑞古、玉崗と号する。」

としています。伊集院姓だったようだが、そうではないかもしれないーーとやや矛盾した見解を示していますが、伊集院氏だという根拠は出されていません。論考の中に「足利学校由来記」とか「足利学校由略記」のような文献が挙げてあり、そこにそう記載されていたのかもしれません。

一応私は「火の無いところに煙は立たず」と思い、伊集院氏の出自だとして考えてみることにしました。ここからはあくまでもそれを前提とした愚考です。

伊集院氏は島津氏初代忠久の嫡孫忠時の傍流から始まり、そのまた子の世代が伊集院を所領したことから伊集院姓を名乗り、五代目の忠国という人物が傑物で男子二人が出家して当時屈指の高僧(禅宗)になっています。

ところが7代目の伊集院頼久が島津家9代目の相続問題にあたって、叔父で福昌寺住持だった石屋真梁の子を本家9代目に据えようとして悶着を起こします。これは島津久豊の早い対応で久豊側に軍配が上がりひとまずは和解します。

伊集院氏8代目を継いだ煕久(ひろひさ)がまた悶着を唱え、今度は殺害事件を起こしたのでとうとう追放(というより逃走)の憂き目に遭います。この時、伊集院嫡流は断絶します。これが1450年頃です。

嫡流(本家)は無くなりますが、傍流は何とか生き残ります。もっとも、嫡流に近い傍流などは咎を受けて領地没収などを食らい、姻戚(特に母方)などを頼ってあちこちに分散したものと思われます。

この流れは大隅半島にも及んだのではないでしょうか。やはり母方が大隅の豪族であればそこを頼りにするのがもっとも安泰を得られる落ち方でしょう。

そして九華ですが、この人が大隅の伊集院氏の出自とあれば、以上のような経緯で大隅にやって来た伊集院氏の一族の生まれだと思います。父か祖父かはわかりませんが、1450年頃に落ちてきた当時は伊集院氏を名乗れず、当初は母方の姓を名乗り、1~2代のちに傍流の伊集院氏が島津家の家臣として目覚ましい働きをするようになるとやっと伊集院氏を名乗れるようになったのだと思います。

5代目の伊集院忠国の傍流の中に「久」を冠した通り名の家系があり、もしかしたら九華の「九」は「久」の音読み「キュウ」の当て字かもしれません。

先に触れましたが、この伊集院忠国の男子のうち二人までが禅宗の高僧となりそれぞれ「広済寺」「妙円寺」という薩摩で屈指の大寺の開祖になっています。福昌寺というのちに薩摩藩最高の格式を有するようになった大寺の住持に傍流の出の石屋真梁がおり、この人のもとで学僧1500名が学んだなどと、『鹿児島県の歴史』(旧版・原口虎雄著・山川出版社)には書いてあります。

以上の伊集院氏出自の高僧たちはまだ8代目煕久の反乱の前だったのでその名を留めていますが、九華が学問に励んだ頃はまだ伊集院氏は島津にとっては「賊徒」であり、薩摩半島に渡って当時すでに高名だった桂庵玄樹学派の朱子学などを学ぶのが最良の道だったのでしょうが、出自のことがネックになり不可能だったか、あるいは九華自身が嫌って、足利学校に足を運ぶことになったのではないでしょうか。

伊集院氏は1500年代後半期には復活して島津家の家老職を担い、戦国末期の忠棟などという人物は天下の秀吉に取り入って、都城8万石を貰うという「快挙」を挙げ、このことがまた悶着となり、結局、忠棟とその子忠真は「叛徒」として誅伐され、再び本流は滅びてしまいます。

このこともまた伊集院氏の出自である九華が薩摩に高名を得なかった理由かもしれません。「敗者」「賊徒」は時代の陰に隠れてしまうのが世の常ということでしょう。


大隅出身の永井彦熊先生は若い頃、東京での修学ののちに一時栃木県の高校に勤務していたことがあったと聞いた(読んだ?)ことがあります。

その時代に足利学校を訪れた時、足利学校由緒記などの展示物を見て「ああ、7世の九華は大隅の出身だったのか」と驚嘆し、また欣喜されたに違いありません。

嶺井正也さんはウィキペディアによると大学の先生ということですが、同じような感慨を得られたのではないでしょうか。「埋もれた大学者・九華」をいつか『大隅』誌に載せていただくとありがたいです。私は現在大隅史談会を離れておりますが、先生のような地元出身の方がこういった歴史の掘り起こしをされたら、地元も目覚める(!)のではないかと思います。
/strong>

憲法改正と安保論議

2019-11-07 11:17:37 | 日本の時事風景
11月3日は日本国憲法公布の記念日で、昭和21年に公布されてからもう74年(記念日としては75回目)になる(来年の5月3日は実際に施行されて75回目の記念日)。

安倍首相には1955年の保守合同により自由民主党が生まれた際の党是である「自主憲法の制定」が頭の中にあるのだろうが、今の憲法を白紙に戻して新たな憲法を制定しようとまでの意思は持っていない。

9条の中に「自衛隊」の存在を明記しようというだけの「自主憲法制定」とは程遠い憲法の一部改正に過ぎないのだが、マスコミが安倍内閣の支持率とだき合わせで行う「改正は必要か否か」の世論調査では常に「否」のほうが賛成を上回っている。

しかし社会党を中心とする護憲革新勢力が世論をリードしていた時代を知っている人間からすれば、賛成が「否」のポイントに近づいてきたことに隔世の感を抱く。

ところがこのまま安倍政権のもとで賛成が「否」を上回っていくかと言えば、そういうことはないだろう。安倍政権のあの「安全保障関連法制」の審議成立では対米すり寄り(従属)の姿勢が露骨であったから、嫌味を感じた国民も多かっただろう。私もその一人だ。

一方でアメリカのトランプ大統領は「日米安保は片務的すぎる。日本が攻撃されたら米軍が助けるのに、アメリカが攻撃されても日本は助けに来ない。米軍を日本に駐留しておく経費も大変だ。いっそ安保をなくしてしまおうか」

などと漏らしている。

つまり「自分の国は自分で守れ」というごく常識的なことだ。そして日本の属している東アジアの平和は自らの外交と軍事で維持するべきだと言っているのだ。

米軍に守ってもらっているからこそ日本は軍隊を最小限に抑えて国としての安全を保障されているのだから、そんなことを言ってもらっては困るというのが保守層の「日米安保堅持論」だが、実はあの護憲革新勢力も考えは同じようなものだ(必要悪論)。

「米軍の存在によって日本の安全は保障されている」ーーと考えるのが保守層であり、「米軍がいればこそ自衛隊がこれ以上大きくならないで済んでいる(かっての軍国主義に戻らないで済んでいる)」ーーと考えるのが護憲革新層で、どちらも米軍の存在を肯定している点では共通しているのだ。

まさに「呉越同舟」そのものではないか。

もうここらで本気にトランプが言うように「日米安保は是か否か」を問うてみたらどうだろうか?
日米安保がなくなったら東アジアにおける日本の立ち位置がどう変わるのか、日米関係がどう変わるのかをシミュレーションしてみる必要があるのではないのか。

いたずらに「日米安保が廃棄されたら、待ってましたと中国が尖閣諸島を取り、ロシアが北方領土に軍事基地を置き圧力をかける。そして北朝鮮がミサイルを撃ち込んでくる」ーーなどと日本が何の外交感覚も持たないかのようにマイナス思考的な怖気づいた考えは払しょくすべきだろう。

このような恐怖心をあおる論調を「親方星条旗論」と私は名付けるのだが、心の中の星条旗に支配されている旧時代の「アメポン人(アメリカ人とニッポン人のキメラ)」にはお引き取りを願いたい。日本には日本の軍事力に拠らざる外交というものがある。自信を持つべきだ。

世界はそれを待っている。

首里城炎上

2019-11-01 16:50:04 | 災害
昨日の朝6時台のニュースを見た時はショックだった。沖縄の近代以前の歴史を語る「首里城」が燃え盛っていた。

緊迫したアナウンスによれば、夜中の2時頃に出火したらしい。その1時間ほど前まで城内の中庭では「首里城祭り」の11月3日の本番に向けて準備作業が行われていたので、出火原因をそれに結び付ける見方も浮かんだが、作業関係者は出火元とみられる「正殿」には立ち入っていないという。

鎮火して一日たった今日の午後、調査関係者が入城しているので、原因についてはおいおい判明してくるだろう。

それにしてもあの焼け落ち方はすさまじいと言うに尽きる。多くの報道で言われているように、74年前の太平洋戦争時に米軍の艦砲射撃で焼け落ちた様とよく似ている。

戦時に破壊された首里城の跡地には琉球大学のキャンパスが置かれたというのは全くの初耳だった。当時は総合大学としての琉球大学ではなく、専門学校か師範学校のタイプの前身だったと思うが、よくぞそこで学んだものである。

その後県民の悲願でもあり、1980年代から再建(復元)が開始され、あの独特の朱塗りの正殿はじめ北殿、南殿など400年以上前の創建当時に近い姿に復元された。

ちょうど10年前、私の姪が沖縄人と結婚した際には家族4人と沖縄に行き、披露宴後に一泊して南部戦跡を見て回り、首里城にも立ち寄ったのだったが、そこで演じられていた沖縄舞踊を興味深く観覧したのを思い出した。

手元にある伊地知貞馨(いじちさだか)という沖縄置県前の薩摩藩に所属していた「琉球王国」時代に琉球詰めを経験した人が著した『沖縄志』の中の「首里城図」を見ると、報道で全焼したとされる「正殿・北殿・南殿」のうち、正殿という名称は当時のままだが、北殿は当時は「評定所」で、南殿は「藩王居所」となっている。

森首相時代の沖縄サミットの時に参加国の代表たちをもてなしたという北殿は当時の評定所だったので、確かに政治向きの会合にはうってつけだったわけだ。

その一方で南殿は藩王(琉球国王)の居所で、書院なども付属しており、まあ仮に琉球国王の子孫が存続していて現地を管理していたとしたら、各国首脳をお茶でもてなすくらいなことをしたかもしれないが、こうなってしまっては夢のまた夢。

上掲の『沖縄志』によれば「(首里城の)結構すべて明制に擬す」とあるから、中国王朝の明との往来があり明の皇帝の居城に模した城構えだったようだ。また「書院・燕室のごときは我が制を用ふ」ともあので、国王の居所は和風の書院造だったのだろう。和洋折衷ならぬ和明折衷である。


県民のだれもが我がシンボルと捉えていた首里城の再建を願っているが、政府もその意向を示しているので再建については心配はいらないと思う。

あれだけ台風による雨風にもまれながらも400年以上の時を経た首里城が、74年前の「戦火」で焼失し、今度また「失火」で焼失するという度重なる不幸は何としても今回で終わりにしたいものである