鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

南九州隼人と水運

2021-05-10 10:49:26 | 古日向の謎
二週間ほど前の新聞記事だが、南さつま市金峰町の「中津野遺跡」で2008年度に出土したカヤの木製の板材が、準構造船の部材としては日本最古で、約2500年前の物であることが判明した。

板材は長さ2.7m、幅30センチ、厚さ5センチで、これまで他の地方で出土した準構造船の部材よりも100年から200年古いという。

この部材は準構造船の側板として使われ、これがあることで運搬船としての容量がぐっと増す。

この地はまさに阿多隼人の本貫地で、南海産のゴホウラなどの貝の加工品(仕掛り品も)が多量に出土した弥生時代の高橋貝塚にも近い。

また南九州と言えば日向神話の舞台であり、ニニギノミコトの皇子たちの中で「ホデリ}(古事記)、「ホスセリ」(日本書紀)は隼人の始祖であり、かつ「海幸彦」でもあった。

海幸彦は自分の愛用していた釣り針を弟の山幸彦(ホホデミ)に貸し、それを失くされたので弟を責め立て、ついに弟は海の中の「竜宮」に行き、そこでトヨタマヒメと出会った上で、兄の釣り針を取り戻す。最後は結局、無理難題を吹っ掛けた兄のホデリの方が、困難を乗り越えた弟(ホホデミ)に臣従する――という筋書きである。

神話学の分野では、のちの天皇家となるホホデミは「山幸彦」という名で「陸の王者」を表しているのだが、その上さらに「海幸彦」を従えることで、「陸と海の両方の王者」になった。そして、もともと「天孫」なので、「天」の支配も兼ね合わせており、ここに「天、陸、海」の三界にわたる支配権を確立したことを表明したと考えている。

そのような構造を示す神話は世界的にかなり普遍的であり、日本の神話も特別にユニークというものではない、というような結論を導くわけだが、あまり構造云々に囚われると神話時代が単に「神話の時代だから歴史とは無縁だ」という心理に陥ってしまう。やはり神話には事実の反映があるとした方が理解が進む。

そこでホデリ(ホスセリ)だが、このネーミングは南九州が火山島と言われる日本列島でも格別に多いカルデラ火山群を視野に入れたものと考えた方が良い。また、ホデリ・ホホデミ・ホアカリの三皇子を産む際に、母のカムアタツヒメが「産屋に火をつけた中で産んだ」という描写もそれと重なるのだ。

「神話の構造の共通性」だけで律してしまっては、その神話の背景に在るものが隠されてしまう。

例えば「海幸彦」(海の男)と「釣り針」は太平洋全域で見られる「神話の構造」だが、釣り針だけを取り上げると海幸彦の生業は漁業であるとしか見えない。しかし上で触れた「高橋貝塚」を形成した南九州人は、今度発見された部材を持つ準構造船で南の島々まで出かけ、そこで採取されたゴホウラ海などを「買い付けた」のかもしれない。

つまり準構造船を多量の物資を運ぶ「交易船」として使用していた可能性も考えないといけないのだ。

この2500年前よりもさらに1000年も古い時代に、南九州から九州北端の伊万里(腰岳)や大分の姫島に出かけ、そこの特産品である「黒曜石」を交易品として招来していた縄文後期の南九州人がいた事実もある。この時に果たして準構造船が使われていたかどうか、証拠は出ていないが、仮に丸木舟(刳り船)だったとしても、それはそれで当時立派な「交易船」であったことに変わりはない。

ましてや先日「秦氏と隼人」(正・続)で書いたように、弥生時代の後半になると西九州を介して南九州から半島を往来する航海民(鴨族)がおり、彼らが半島から列島へ渡来した秦氏(の基になる弓月君など)を運搬したのではないか。だから隼人が小子部連(ちいさこべのむらじ=太臣と同じカムヤイミミの子孫)の指揮のもと、畿内に散らばっていた秦氏一族を探し出すのに一役買った、いや買うことができたのだ。

神話で海幸彦が登場すると「浦島太郎」のような印象を懐いてしまうのだが、実は漁業ではなく交易に従事していた面をしっかり捉えておかないと見えるものも見えなくなるのである。

『隼人』~日本古代文化の探求~(大林太良編・社会思想社・1975年)の中の、「民俗に見る隼人像」(小野重朗)に書かれている次の内容はそのあたりのことと通底しているので、ここに掲げておきたい。 (※省略がある)

【 阿多隼人の住んでいた南さつまの西海沿いの地に、二つの船の祭りが見られる。一つは吹上町の船木神社の旧2月2日の「トントラオ祭」(舟こぎ祭)である。(省略)もう一つは羽島崎神社の旧2月4日の春祭り「舟持ち行事」である。

「舟持ち」は「田打ち」に続いて行われる。船はおおむね1メートルくらいの大きさで、浦浜の人たちの奉納である。帆掛け船、米積み船、ダンべ船など色々で、五歳になった男の子と父兄が持って境内に出、掛け声を掛けながら櫓を漕ぐ真似をして一回りする。

「田打ち」は全国的に多くの例があるが、船始めの「舟持ち」(舟こぎ)祭は他の地方にその類例があるのを知らない。この祭りが南九州の浦浜地帯に鮮明な形で見られることは、この地方が古い船の文化の中心地であったことを物語っていよう。

大切なことは、この舟こぎ祭が「舟の祭」であって、漁業始めの祭ではない点である。浦浜は陸上の交通が盛んになるに伴って、海運業が衰えたため、漁業が専業のようになったけれども、これらの祭に登場する模型の船の多くが漁船ではなくて海上運搬の交易船であることでもわかるように、浦浜は海の交通・交易の中心として栄えたということである。この南薩の浦浜の地が、遠い海の向こうの国々と、これらの船によって繋がっていたということである。

「トントラオ祭」の行われる船木神社に残る刳り舟の模型とよく似た刳り船が、今も種子島や十島村の島々には見られ、それに乗って島から島へ往来するのが見られる。これらの刳り舟を見て、私は遠い隼人の時代の生活を思わせられる。 】(p302~304)

小野氏の考察した「舟持ち祭」のあるいちき串木野市の羽島崎神社には、2月の末頃に「薩摩藩英国留学生記念館」を見学した折に参拝したのだが、その境内には、1720年頃に江戸まで米を運搬するため、いちき串木野市のどこかの港から船出しながら、途中で嵐に遭遇し、カムチャッカ半島にまで流されたゴンザを祭る神社が併設されていた。

ゴンザともう一人の青年だけが助かり、ロシアのエカテリーナ女王の知遇を得て「露日辞典」を編纂するまでになったゴンザの例示した日本語が、実は「薩摩語」であったということで、古い薩摩語(鹿児島弁)を珍重する人たちからは神のようにあがめられているのがゴンザである。

ゴンザも海上運搬船で交易に従事していた古代南九州人「隼人」の後裔に他なるまい。


ぼったくり男爵

2021-05-08 15:24:10 | 日本の時事風景
アメリカの有力紙「ワシントンポスト」は東京オリンピックを中止したほうが良いという記事を書いているそうだ。

そしてIOCのバッハ会長を「開幕国を食い物にする悪癖がある」として、ニックネーム「ぼったくり男爵」を贈呈した。

大会をどうしても開催したいそのモチベーションはズバリ「金(マネー)」だという。

大会に必要な施設は開催国任せにし、イベントなども開催国の費用負担で行い、そこから上がった収益はIOCのものとしているそうである。

他のニューヨークタイムズやサンフランシスコクロニクル紙なども、感染拡大をもたらすものだとして東京オリンピックの中止を訴えている。

理屈の上ではその趣旨はよく分かる。これだけ世界で感染者が終息を見ない状況では当然の見解だ。

しかし「金(マネー)」に関しては、そもそもオリンピックを金まみれにしたのがアメリカなのだ。

1984年に開かれたロスアンゼルスオリンピックで、史上初めて「黒字」つまり儲けたのがアメリカ(のメディア)なのである。

その手法は今と同じ「放映権」によるコマーシャル収入だった。テレビで独占的に放映する代わりにその対価をIOCに払うのだが、その放映に関してスポンサー企業を募り、多額のスポンサー料をゲットするやり方である。(※ロス五輪では当時その額は450億円だったそうだ。)

今度の東京オリンピックが本来なら気候の良い秋に開催すればよいものを、真夏の超熱い時期に開催されるようになったのも、アメリカのテレビメディアの横槍であった。だからアメリカのメディアが「金食い虫のIOC」と揶揄するのには非常に違和感がある。「もとはあんただろう!」と叫びたい。

秋の一番儲かる放映時期(アメリカンフットボールや大リーグ最大の見せ場があって儲かる時期)をずらして真夏に持って行かせ、その代わり言う事を聞くなら、多額の資金(賠償金)を支払うという契約(?)を交わしたはずだ。

IOCはその金に目が眩んだとしか思えない。真夏の東京がスポーツには向かないという点を完全に無視してしまった。

ことほど左様にオリンピックは本来の「アマチュスポーツの祭典」というテーマを逸脱してしまった。また、アマチュアスポーツであればこそ、その栄冠は個人に帰すべきなのに、ナショナリズムがこれを阻んでいる。

オリンピックは「国家の威信をかけたスポーツ競技」に成り下がってしまったのである。

今こそオリンピックの本義に還り、「金メダルだ、銀だ」のような「チンコ比べ」を離れ、国際的な親睦と融和のイベントに立ち返るべきだ。

今度の東京オリンピックから、そのような大会に立ち戻って欲しいと思う。高校野球やサッカー、駅伝、そして実業団のスポーツ競技など「金にならない多種多様なアマチュアスポーツの王国・日本」なればこそ世界に訴えかけられる「祭典」になって欲しいと思う。

しかし現実問題として、これだけ新型コロナが世界中でまん延していることを思うと、今度の東京オリンピックはさらに一年延期すべきだろう。中止は簡単だ。延期ということにして欲しい。その間に国産ワクチンが出来てるといいのだが・・・。




クマソ呼称の謎

2021-05-06 09:35:11 | 鹿児島古代史の謎
先日「隼人という呼称はいつからなのか?」というブログを書き、公式には天武天皇時代の西暦682年からだろうと結論を出したが、それでは同じ南九州の種族として登場する「クマソ」という呼称はどうなのか、今回はそれについて調べてみたい。

クマソは古事記では「熊曽」、日本書紀では「熊襲」、と「ソ」の当て漢字に違いがあり、前者の「曽」は通常当たり障りのない語感の字だが、後者は「襲う」というややおどろおどろしい語感であり、この語感が余計な先入観、すなわちクマソは恐ろしい種族だという先見を与えてしまうので、ここでは「クマソ」で話を進めていく。

クマソが日本書紀に現れるのは時代順で次の通り。(※古事記にももちろん登場するが、書紀の場合、年代が記されているのでこちらを採用する。)

1,景行天皇の12年・・・「背いて朝貢に来ないので、征伐に行く」という記事。景行天皇が自ら筑紫(九州島)に出陣した。(※これがクマソの初出である。)
2,同天皇の13年・・・18年に掛けて6年間滞在して平定した。平定されたクマソの名は「厚カヤ」「狭カヤ」「市カヤ」「市ヒカヤ」。
3,同天皇の18年・・・南九州から熊本、筑後を経て帰還する。途中、クマツヒコなるクマソらしき人物が帰順した。
4、同天皇の27年・・・再び背いたので、今度は第二皇子のヤマトオグナ(のちのヤマトタケル)が派遣され、鎮定する。鎮定されたクマソの名はトリシカヤ(別名が川上タケル)。この時、川上タケルからヤマトオグナに「タケル」名を献上された。
5,仲哀天皇の2年・・・「背いて朝貢しない」ので征伐しよう穴戸(長門国)豊浦宮に到る。帰順したクマソは「クマワニ」。
6,同天皇の8年・・・天皇および神功皇后、九州に渡り、橿日宮(香椎宮)を本営とする。神が神功皇后に「クマソより半島の新羅を討て」と託宣したが、天皇はそれを信じず、クマソを撃った。
7,同天皇の9年・・・天皇は52歳で薨去。神の言葉に逆らったから死んだ、又は注記にあるようにクマソと戦って敵の矢に当たって死んだともいう。
8,神功皇后摂政前紀元年(仲哀天皇9年)・・・神罰を信じた神功皇后が斎主となって様々な神々を呼び寄せる。そののち、クマソを吉備臣の祖「鴨別(かもわけ)」を派遣して討たせたところ、時を経ずして向こうから帰順して来た。また、「羽白熊鷲」というクマソの一派らしいものを討伐した。(※これがクマソ記事の最後である。)

以上が日本書紀に現れたクマソ記事のすべてで、景行天皇の時代から成務天皇、仲哀天皇、そして神功皇后まで、西暦にして300年代の初期から360年位までの約50年間にしか登場していない。

クマソももちろん隼人と同じく南九州ゆかりの「種族」であり、隼人と同じく時の王権からは「異族」あるいは「蛮族」視された書き方がなされているのは同じである。

しかし、隼人が同じ日本書紀でも、かなり正確に時代を伝えている天武天皇の時代に登場していることから、そこに書かれた隼人という呼称が当時確実に存在したことは疑い得ない。

その一方で、クマソをめぐる時代の諸天皇(景行・成務・仲哀・神功皇后)はそもそも実在性が疑われており、そこに書かれた「クマソなる蛮族」の存在も疑わしいということになる。

隼人研究の第一人者で鹿児島国際大学教授であった中村明蔵氏は、

「神功皇后は、7世紀に半島の百済を救援しようと大和から九州に渡り、筑後の朝倉宮で亡くなった斉明天皇を下敷きに時代をさかのぼらせて造作した人物である。また7世紀の当時、南九州に王化に属さない種族がいるということを確認し、それを景行天皇から神武皇后時代に遡及的させ、クマソと名付けたのだろう」(同氏『隼人の古代史』2001年刊より要旨)

と述べている。

つまり、南九州に景行天皇から神功皇后の時代にクマソという特別な種族がいたというのは創作に過ぎない、という。要するに歴史上その時代にクマソなどという種族はいなかったと結論付けている。

その一方で、創作にしても「クマソ」という語義は何なのかについてかなり詳しく論述している。

古くから言われているのが文化勲章の歴史学者・津田左右吉の「球磨+曽於」説である。しかしこれは熊本県の球磨地方と鹿児島県の曽於地方との地理的・文化的な隔絶から言って有り得ない、とする。

またもっと古い説があり、それは本居宣長などが唱えているのだが、クマソ(熊曽・熊襲)の「熊」を「暗愚で獰猛な」という属性で捉え、「暗愚で獰猛な(南九州の)ソビト」説である。中村氏の見解はおおむねこれに近いようである。

そしてもう一つ魏志倭人伝上の倭国の一つ「狗奴国=クマソ」説を取り上げてもいる。しかし、これだと、3世紀から4世紀に南九州に大和王権に叛逆するだけの勢力を有した種族があったろうかと疑問を呈している。

私は最後に挙げられた「狗奴国=クマソ」説を採る。正確に言えば「狗奴国」は今の熊本県域のクマソであり、そのさらに南の古日向(鹿児島と宮崎が薩摩国・大隅国・日向国に分立される前の古日向)には当時「投馬国」があり、こちらは古日向域のクマソである。

この二つのクマソをまとめたのが古事記の国生み神話に登場する「熊曽国」である。別名を「建日別」といった。

「熊曽国」とは「熊なる曽人の国」という意味で、「熊」を曽にかかる形容と捉えるのは本居説と同じだが、「熊」そのものの属性の捉え方に大きな違いがある。

「熊」とは「能+火(列火)」が本義であり、「火を能くする」つまり「火をうまく扱う」という意味なのである。これが曽人に冠せられたその意義は、火を火山と見做せばすぐに理解できよう。熊本から宮崎・鹿児島県域までは、巨大なカルデラ火山がひしめいており、それが地勢のまさにど真ん中を貫いているのである。

火山活動は人智を超えた現象であるが、そういう環境にありながら何とか生き抜いている曽人の姿は、中央の王権から見れば「王化に属さぬ者」であるが、また畏怖の対象でもあった。

宋時代の怪奇小説と言われる『封神演義』の中で、太公望(呂尚)が毎日、川で下手な釣りをしているのを見ていた商人が、太公望の号が「飛熊(ヒユウ)」だと聞いて、「何、飛熊だって! お前さんのような風采の上がらない人物が付けるような号じゃない。聖人君子が付ける号なんだよ」と呆れられるシーンがある。それほど「熊」には大きな価値があった。

したがって狗奴国自身が3世紀の当時、「熊国」と自ら名乗っていてもおかしくはないのである。

さらに面白いのは「熊」が「火をうまく扱う」という意義であれば、ニニギノミコトと一夜の契りをしただけで妊娠したのと咎められたカムアタツヒメ(コノハナサクヤヒメ)が、その嫌疑を晴らそうと「産屋に火を放ち、その中で子を無事に産んだ」という想像を絶するシーンに繋がることだ。

また生まれた三皇子(古事記ではホデリ・ホスセリ・ホオリ。書紀ではホスセリ・ホホデミ・ホアカリ)の内、隼人の祖と指摘されている「ホデリ」「ホスセリ」ともに「火が燃え盛る」という語義であることも、実は「熊」と同義と言ってよいことに気付かされる。

これを是とすれば、「熊曽」(熊なる曽人)と隼人は時代を違えてはいるが、全く同じ南九州人を指す呼称だったとしてよい。

クマソは3~4世紀に九州島内で自称的に使われた南九州人のことであり、そして隼人は天武天皇時代の中央集権志向の中で律令制度(刑法・租税法・戸籍法)に従おうとせず、また仏教を習おうとしない南九州人を他称したものだということである。≺/span>

陣ノ岡に登る

2021-05-04 19:02:10 | おおすみの風景
昨日は午前中にブログ「憲法記念日(2021)」を書き、庭(畑)仕事も特になかったので、午後になって我が家の南、約5キロほどに稜線を連ねる横尾山系の最高峰「陣ノ岡」に登ってみた。

この山は以前同じコースで登り、また横尾岳から西に延びる稜線伝いに登ったことがあるが、この7~8年は登ったことがなかった。

午後2時過ぎに登山口まで車を走らせ、2時半にはもう山道に入っていた。登山口には「九州自然歩道」を示す木彫りの看板があり、また地元の地域興し的な団体の手作りの看板があったりして、登山道はよく手入れされている。

頂上までは約2キロ、標高差はちょうど400m、所要時間は100分とあった。

実は去年の10月、所属する「シルバーセンター」のボランティア活動で登山口から第一休憩所までの上り道の整備に参加していたのだが、その先は間違いなく7~8年ぶりだ

第1休憩所からは本格的な山道になる。といっても足元が危うくなるような箇所には階段がしつらえてあり、順調に進んだ。スギの人工林も第2休憩所になるとほぼなくなり、あとは原生林の中を歩く。

原生林のおもな樹種はタブとシイ(スダジイ)とクスである。これらは常緑樹で裸木になることはないから、直射日光をほど良く遮り、直射日光下の体温上昇を防いでくれる。

そうは言っても加齢現象は容赦なく襲ってくる。第3休憩所から一段と急になった登り道の中で、最後の第6休憩所までの間にいったい何度立ち止まって息をなだめたか分からない。

次第に足も上がらなくなってくる。それでも何人か行き会った登山者との触れ合いが、加齢という言い訳を引っ込ませてくれた。実際、高齢の夫婦連れが二組、孫を連れた三世代登山客が一組あり、同年配と思われる登山者は五指を下らなかったのである。

その他にやや高齢の女性の二人連れや犬を連れた中年女性などバラエティに富んでいた。

登り始めて1時間半、ついに山頂に到着。山頂には鎌倉時代の昔に大隅の雄族・肝付氏が築いたという砦があったそうで、なるほど径25メートルくらいの平らな頂上である。

山頂の南側の端から北方面を望む。高隈山系とその左側(西側)に桜島が見える。
手前にずらっと並んで立つ看板群は大根占側の宿利原小学校生徒の登山記念に建てたものが多い。

山頂に到着した時の時刻は3時45分だったから、75分で登ったことになる。相当に早い。

ただ早いといっても、もともと登山の標準タイムというのは、女性や子供そして高齢者を含む万人のための設定であるから、かなり多めに設定してあるわけで、しかも自分はほぼ荷物無しの「空身」であったから、身軽も身軽、タイムの大幅な短縮は当然といえば当然。

もしリュックを背負っていたらこんなに早くはならない。

さて、登山道はよく手入れされていて、実に明瞭である。第1休憩所を過ぎると本格的な登りになり、第3休憩所から第5休憩所までの上りは相当にきついが、岩場はごく少なく、要所要所には階段がしつらえてあるから滑ることもない。お勧めのハイキングコースだ。

山頂からの眺望は300度。360度でないのは、北東方面の眺めが高木の樹林によって遮られるから。この方向には霧島連山の東の外れにある高千穂の峰が見えるはずだが、この点だけはちょっぴり残念だ。

しかし他は遮るものなく見渡せる。北は高隈山地とそのすぐ左側(西側)に桜島。西は開聞岳。南に南大隅の辻岳と遥か遠く海上に浮かぶ硫黄島。そして南東に展開する肝属山地。役者は揃っている。

3時に下山を始めたら、下から若い夫婦と男の子二人の家族が登って来るのに出会った。

こんにちは! と元気のいい声。 やあ、元気だね、がんばれ、あともう少し!

最後尾のお母さんが苦しそうな笑顔で、「私が一番ダメかも」。

もうあと5分じゃないかと声援(エール)。でも、このお母さんが一番長生きしそうだな。

(※この山中で行き会った人の数は16人と犬一匹。)


【補遺』(鹿屋市史より)

『陣ノ岡古戦場』

南北朝の抗争時代から、禰寝(根占)氏と肝付氏とは敵対関係にあり、肝付氏はこの山頂に砦を設け、山麓の山下(やまげ)には茶臼城を築いて守りとした。

時代は下り、戦国時代の末期、天正2(1574)年には島津氏が南部から横尾峠を越えて来て、肝付氏と一戦を交えた。陣ノ岡の砦は攻略され、麓の山下で大規模な戦いとなった。

この前年には禰寝氏が島津氏に降伏し、また肝付氏も島津氏配下の都城北郷氏と末吉の国合原で戦って敗れていて、肝付氏の弱体化は誰の眼のも明らかであり、ついに肝付氏当主の兼亮は島津氏の軍門に下った。

この6年後の天正8年、最後の当主肝付兼道一行は薩摩半島の阿多(金峰町)に移封された。わずか12町(400石程度)の田地が与えられたに過ぎなかった。

島津氏よりはるかに古くから大隅に勢力を張っていた肝付氏の末路や哀れ!

憲法記念日(2021)

2021-05-03 10:41:25 | 専守防衛力を有する永世中立国
今日5月3日は75回目の憲法施行の日(記念日としては74回目)。前年の11月3日に公布されて半年後の今日、正式に施行(運用)された。「団塊世代」がボンボンと呆れるほど生まれていたころである。

いうところの「平和憲法」だが、実はマッカーサー連合国軍総司令の下、日本側の草案を下敷きにしながら、「2度と日本が戦争をしないように」前文と天皇条項と第2章第9条(戦争放棄条項)を書き加えて仕上げた憲法なのである。

こういう観点からすれば、新しい日本国憲法は「マッカーサー憲法」とか「押しつけ憲法」とか呼ばれても仕方がない。敗戦とともに廃棄された明治憲法が、日本各地の啓蒙者による「私家版憲法」が数多出され知恵が絞られて形成されたのとはだいぶ違う。どっちが「民主的」だったか分からない態のものだ。

しかし、敗戦によって打ちひしがれ、焦土になって明日食うものも満足にない状況では、国民にとって「平和」が何よりのお題目だったのだ。当時としては「天皇が象徴だって? 何だそれ」という疑問はあったものの、とにかく天皇が存在し存続することが国民の希望であったから、反対も何もなく受け入れられた。

ところで今朝の新聞では憲法改正について「賛成が57パーセント」と出ていたが、この憲法改正の意見は「第9条の改正」のみならず今日的な「緊急事態」に対応した改正や、「性的少数者」及び「夫婦別姓」などに対応した改正を望む者も入っているだろうから、57パーセントとのすべてを「第9条の改正」と見るのは早計だ。

それでも「第9条の改正」はおそらく半数近くに上るわけで、焦点が9条改正であることは動かない。

その9条のどこを変えるのか、加えるのか? 大まかに言って次の2つだろう。

1、自衛隊の明記(を加える=加憲)  2、個別的自衛権による武力行使の明記(を加える=交戦権の容認)

このうち1番の「自衛隊の明記」は今日の自衛隊の災害復旧活動や人命救助活動を見ていれば、反対する人は少数だろう。

問題は2番だ。

第9条では第1項で「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久に放棄する」と書いてある。そして第2項では「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない」と書く。

この9条には「個別的自衛権」というおよそ主権国家ではどの国にも認められている「自国をよそからの攻撃から守る固有の権利」というものがない。これは全くの片手落ちである。戦勝直後のアメリカによる押しつけ以外の何物でもない。

だからここは次のように変えなければならない。

第1項「個別的自衛権による自衛隊を有し、その武力の行使は専守防衛に限り許される」

この第1項を大前提とする第2項は、
「自衛隊は陸海空にわたる防衛力を持ち、緊急事態下では総理大臣を最高司令として防衛及び災害復旧に当たる」

とするのが至当だろう。

とにかく独立国家には普遍的に認められている「個別的自衛権」(自主防衛権)を明記したうえで、第9条を変えていかなければ説得力がない。

この場合、実はアメリカとの二国間相互防衛条約である日米安保条約は排除される。二国間による相互防衛条約を国連憲章は本来認めず、国連による多国間相互防衛が基本だからである。

別の言い方をすればまさに安倍元首相がよく口にした「集団的自衛権」に他ならない。

しかしながら、第9条を上のように変えるとすれば、「個別的自衛権」による「専守防衛」だけを表明していることになるから、他国との「集団的自衛権」によるタッグは憲法違反となる。

もしどうしてもアメリカ始め他の「自由諸国」とタッグを組みたいのなら、第9条はいったん廃棄したうえで「自衛隊を有し、国防上、必要であれば集団的自衛権により、交戦権を行使する」と変えなければならない。

そこまでの改変を主張する日本人は稀だろう。

私は無論反対である。上記のように個別的自衛権と自衛隊の存在を明記した上で、永世中立国宣言をしてほしいものだ。

実は、日本はスイスのような永世中立国になるといい――と言ったのはあのマッカーサーである。

しかしその後の中国共産党政府の成立やソビエトとの冷戦確執が始まり、日本に極東における自由陣営の防波堤の役割を担わせる必要があったため、その提案は撤回されてしまった。

今また日本の極東における防波堤が、アメリカの対中国戦略練り直しの中で見直されている。だが日本はもう防波堤ではなく、米中二大国の狭間に存在するクイのような塩梅だ。経済的には対米・対中どっちもなくてはならない存在だからだ。

「まるでコウモリのような日本」などと言われないうちに永世中立国宣言をするのが最良だ。世界がそれを待っている。