二週間ほど前の新聞記事だが、南さつま市金峰町の「中津野遺跡」で2008年度に出土したカヤの木製の板材が、準構造船の部材としては日本最古で、約2500年前の物であることが判明した。
板材は長さ2.7m、幅30センチ、厚さ5センチで、これまで他の地方で出土した準構造船の部材よりも100年から200年古いという。
この部材は準構造船の側板として使われ、これがあることで運搬船としての容量がぐっと増す。
この地はまさに阿多隼人の本貫地で、南海産のゴホウラなどの貝の加工品(仕掛り品も)が多量に出土した弥生時代の高橋貝塚にも近い。
また南九州と言えば日向神話の舞台であり、ニニギノミコトの皇子たちの中で「ホデリ}(古事記)、「ホスセリ」(日本書紀)は隼人の始祖であり、かつ「海幸彦」でもあった。
海幸彦は自分の愛用していた釣り針を弟の山幸彦(ホホデミ)に貸し、それを失くされたので弟を責め立て、ついに弟は海の中の「竜宮」に行き、そこでトヨタマヒメと出会った上で、兄の釣り針を取り戻す。最後は結局、無理難題を吹っ掛けた兄のホデリの方が、困難を乗り越えた弟(ホホデミ)に臣従する――という筋書きである。
神話学の分野では、のちの天皇家となるホホデミは「山幸彦」という名で「陸の王者」を表しているのだが、その上さらに「海幸彦」を従えることで、「陸と海の両方の王者」になった。そして、もともと「天孫」なので、「天」の支配も兼ね合わせており、ここに「天、陸、海」の三界にわたる支配権を確立したことを表明したと考えている。
そのような構造を示す神話は世界的にかなり普遍的であり、日本の神話も特別にユニークというものではない、というような結論を導くわけだが、あまり構造云々に囚われると神話時代が単に「神話の時代だから歴史とは無縁だ」という心理に陥ってしまう。やはり神話には事実の反映があるとした方が理解が進む。
そこでホデリ(ホスセリ)だが、このネーミングは南九州が火山島と言われる日本列島でも格別に多いカルデラ火山群を視野に入れたものと考えた方が良い。また、ホデリ・ホホデミ・ホアカリの三皇子を産む際に、母のカムアタツヒメが「産屋に火をつけた中で産んだ」という描写もそれと重なるのだ。
「神話の構造の共通性」だけで律してしまっては、その神話の背景に在るものが隠されてしまう。
例えば「海幸彦」(海の男)と「釣り針」は太平洋全域で見られる「神話の構造」だが、釣り針だけを取り上げると海幸彦の生業は漁業であるとしか見えない。しかし上で触れた「高橋貝塚」を形成した南九州人は、今度発見された部材を持つ準構造船で南の島々まで出かけ、そこで採取されたゴホウラ海などを「買い付けた」のかもしれない。
つまり準構造船を多量の物資を運ぶ「交易船」として使用していた可能性も考えないといけないのだ。
この2500年前よりもさらに1000年も古い時代に、南九州から九州北端の伊万里(腰岳)や大分の姫島に出かけ、そこの特産品である「黒曜石」を交易品として招来していた縄文後期の南九州人がいた事実もある。この時に果たして準構造船が使われていたかどうか、証拠は出ていないが、仮に丸木舟(刳り船)だったとしても、それはそれで当時立派な「交易船」であったことに変わりはない。
ましてや先日「秦氏と隼人」(正・続)で書いたように、弥生時代の後半になると西九州を介して南九州から半島を往来する航海民(鴨族)がおり、彼らが半島から列島へ渡来した秦氏(の基になる弓月君など)を運搬したのではないか。だから隼人が小子部連(ちいさこべのむらじ=太臣と同じカムヤイミミの子孫)の指揮のもと、畿内に散らばっていた秦氏一族を探し出すのに一役買った、いや買うことができたのだ。
神話で海幸彦が登場すると「浦島太郎」のような印象を懐いてしまうのだが、実は漁業ではなく交易に従事していた面をしっかり捉えておかないと見えるものも見えなくなるのである。
『隼人』~日本古代文化の探求~(大林太良編・社会思想社・1975年)の中の、「民俗に見る隼人像」(小野重朗)に書かれている次の内容はそのあたりのことと通底しているので、ここに掲げておきたい。 (※省略がある)
【 阿多隼人の住んでいた南さつまの西海沿いの地に、二つの船の祭りが見られる。一つは吹上町の船木神社の旧2月2日の「トントラオ祭」(舟こぎ祭)である。(省略)もう一つは羽島崎神社の旧2月4日の春祭り「舟持ち行事」である。
「舟持ち」は「田打ち」に続いて行われる。船はおおむね1メートルくらいの大きさで、浦浜の人たちの奉納である。帆掛け船、米積み船、ダンべ船など色々で、五歳になった男の子と父兄が持って境内に出、掛け声を掛けながら櫓を漕ぐ真似をして一回りする。
「田打ち」は全国的に多くの例があるが、船始めの「舟持ち」(舟こぎ)祭は他の地方にその類例があるのを知らない。この祭りが南九州の浦浜地帯に鮮明な形で見られることは、この地方が古い船の文化の中心地であったことを物語っていよう。
大切なことは、この舟こぎ祭が「舟の祭」であって、漁業始めの祭ではない点である。浦浜は陸上の交通が盛んになるに伴って、海運業が衰えたため、漁業が専業のようになったけれども、これらの祭に登場する模型の船の多くが漁船ではなくて海上運搬の交易船であることでもわかるように、浦浜は海の交通・交易の中心として栄えたということである。この南薩の浦浜の地が、遠い海の向こうの国々と、これらの船によって繋がっていたということである。
「トントラオ祭」の行われる船木神社に残る刳り舟の模型とよく似た刳り船が、今も種子島や十島村の島々には見られ、それに乗って島から島へ往来するのが見られる。これらの刳り舟を見て、私は遠い隼人の時代の生活を思わせられる。 】(p302~304)
小野氏の考察した「舟持ち祭」のあるいちき串木野市の羽島崎神社には、2月の末頃に「薩摩藩英国留学生記念館」を見学した折に参拝したのだが、その境内には、1720年頃に江戸まで米を運搬するため、いちき串木野市のどこかの港から船出しながら、途中で嵐に遭遇し、カムチャッカ半島にまで流されたゴンザを祭る神社が併設されていた。
ゴンザともう一人の青年だけが助かり、ロシアのエカテリーナ女王の知遇を得て「露日辞典」を編纂するまでになったゴンザの例示した日本語が、実は「薩摩語」であったということで、古い薩摩語(鹿児島弁)を珍重する人たちからは神のようにあがめられているのがゴンザである。
ゴンザも海上運搬船で交易に従事していた古代南九州人「隼人」の後裔に他なるまい。
板材は長さ2.7m、幅30センチ、厚さ5センチで、これまで他の地方で出土した準構造船の部材よりも100年から200年古いという。
この部材は準構造船の側板として使われ、これがあることで運搬船としての容量がぐっと増す。
この地はまさに阿多隼人の本貫地で、南海産のゴホウラなどの貝の加工品(仕掛り品も)が多量に出土した弥生時代の高橋貝塚にも近い。
また南九州と言えば日向神話の舞台であり、ニニギノミコトの皇子たちの中で「ホデリ}(古事記)、「ホスセリ」(日本書紀)は隼人の始祖であり、かつ「海幸彦」でもあった。
海幸彦は自分の愛用していた釣り針を弟の山幸彦(ホホデミ)に貸し、それを失くされたので弟を責め立て、ついに弟は海の中の「竜宮」に行き、そこでトヨタマヒメと出会った上で、兄の釣り針を取り戻す。最後は結局、無理難題を吹っ掛けた兄のホデリの方が、困難を乗り越えた弟(ホホデミ)に臣従する――という筋書きである。
神話学の分野では、のちの天皇家となるホホデミは「山幸彦」という名で「陸の王者」を表しているのだが、その上さらに「海幸彦」を従えることで、「陸と海の両方の王者」になった。そして、もともと「天孫」なので、「天」の支配も兼ね合わせており、ここに「天、陸、海」の三界にわたる支配権を確立したことを表明したと考えている。
そのような構造を示す神話は世界的にかなり普遍的であり、日本の神話も特別にユニークというものではない、というような結論を導くわけだが、あまり構造云々に囚われると神話時代が単に「神話の時代だから歴史とは無縁だ」という心理に陥ってしまう。やはり神話には事実の反映があるとした方が理解が進む。
そこでホデリ(ホスセリ)だが、このネーミングは南九州が火山島と言われる日本列島でも格別に多いカルデラ火山群を視野に入れたものと考えた方が良い。また、ホデリ・ホホデミ・ホアカリの三皇子を産む際に、母のカムアタツヒメが「産屋に火をつけた中で産んだ」という描写もそれと重なるのだ。
「神話の構造の共通性」だけで律してしまっては、その神話の背景に在るものが隠されてしまう。
例えば「海幸彦」(海の男)と「釣り針」は太平洋全域で見られる「神話の構造」だが、釣り針だけを取り上げると海幸彦の生業は漁業であるとしか見えない。しかし上で触れた「高橋貝塚」を形成した南九州人は、今度発見された部材を持つ準構造船で南の島々まで出かけ、そこで採取されたゴホウラ海などを「買い付けた」のかもしれない。
つまり準構造船を多量の物資を運ぶ「交易船」として使用していた可能性も考えないといけないのだ。
この2500年前よりもさらに1000年も古い時代に、南九州から九州北端の伊万里(腰岳)や大分の姫島に出かけ、そこの特産品である「黒曜石」を交易品として招来していた縄文後期の南九州人がいた事実もある。この時に果たして準構造船が使われていたかどうか、証拠は出ていないが、仮に丸木舟(刳り船)だったとしても、それはそれで当時立派な「交易船」であったことに変わりはない。
ましてや先日「秦氏と隼人」(正・続)で書いたように、弥生時代の後半になると西九州を介して南九州から半島を往来する航海民(鴨族)がおり、彼らが半島から列島へ渡来した秦氏(の基になる弓月君など)を運搬したのではないか。だから隼人が小子部連(ちいさこべのむらじ=太臣と同じカムヤイミミの子孫)の指揮のもと、畿内に散らばっていた秦氏一族を探し出すのに一役買った、いや買うことができたのだ。
神話で海幸彦が登場すると「浦島太郎」のような印象を懐いてしまうのだが、実は漁業ではなく交易に従事していた面をしっかり捉えておかないと見えるものも見えなくなるのである。
『隼人』~日本古代文化の探求~(大林太良編・社会思想社・1975年)の中の、「民俗に見る隼人像」(小野重朗)に書かれている次の内容はそのあたりのことと通底しているので、ここに掲げておきたい。 (※省略がある)
【 阿多隼人の住んでいた南さつまの西海沿いの地に、二つの船の祭りが見られる。一つは吹上町の船木神社の旧2月2日の「トントラオ祭」(舟こぎ祭)である。(省略)もう一つは羽島崎神社の旧2月4日の春祭り「舟持ち行事」である。
「舟持ち」は「田打ち」に続いて行われる。船はおおむね1メートルくらいの大きさで、浦浜の人たちの奉納である。帆掛け船、米積み船、ダンべ船など色々で、五歳になった男の子と父兄が持って境内に出、掛け声を掛けながら櫓を漕ぐ真似をして一回りする。
「田打ち」は全国的に多くの例があるが、船始めの「舟持ち」(舟こぎ)祭は他の地方にその類例があるのを知らない。この祭りが南九州の浦浜地帯に鮮明な形で見られることは、この地方が古い船の文化の中心地であったことを物語っていよう。
大切なことは、この舟こぎ祭が「舟の祭」であって、漁業始めの祭ではない点である。浦浜は陸上の交通が盛んになるに伴って、海運業が衰えたため、漁業が専業のようになったけれども、これらの祭に登場する模型の船の多くが漁船ではなくて海上運搬の交易船であることでもわかるように、浦浜は海の交通・交易の中心として栄えたということである。この南薩の浦浜の地が、遠い海の向こうの国々と、これらの船によって繋がっていたということである。
「トントラオ祭」の行われる船木神社に残る刳り舟の模型とよく似た刳り船が、今も種子島や十島村の島々には見られ、それに乗って島から島へ往来するのが見られる。これらの刳り舟を見て、私は遠い隼人の時代の生活を思わせられる。 】(p302~304)
小野氏の考察した「舟持ち祭」のあるいちき串木野市の羽島崎神社には、2月の末頃に「薩摩藩英国留学生記念館」を見学した折に参拝したのだが、その境内には、1720年頃に江戸まで米を運搬するため、いちき串木野市のどこかの港から船出しながら、途中で嵐に遭遇し、カムチャッカ半島にまで流されたゴンザを祭る神社が併設されていた。
ゴンザともう一人の青年だけが助かり、ロシアのエカテリーナ女王の知遇を得て「露日辞典」を編纂するまでになったゴンザの例示した日本語が、実は「薩摩語」であったということで、古い薩摩語(鹿児島弁)を珍重する人たちからは神のようにあがめられているのがゴンザである。
ゴンザも海上運搬船で交易に従事していた古代南九州人「隼人」の後裔に他なるまい。