今日5月3日は75回目の憲法施行の日(記念日としては74回目)。前年の11月3日に公布されて半年後の今日、正式に施行(運用)された。「団塊世代」がボンボンと呆れるほど生まれていたころである。
いうところの「平和憲法」だが、実はマッカーサー連合国軍総司令の下、日本側の草案を下敷きにしながら、「2度と日本が戦争をしないように」前文と天皇条項と第2章第9条(戦争放棄条項)を書き加えて仕上げた憲法なのである。
こういう観点からすれば、新しい日本国憲法は「マッカーサー憲法」とか「押しつけ憲法」とか呼ばれても仕方がない。敗戦とともに廃棄された明治憲法が、日本各地の啓蒙者による「私家版憲法」が数多出され知恵が絞られて形成されたのとはだいぶ違う。どっちが「民主的」だったか分からない態のものだ。
しかし、敗戦によって打ちひしがれ、焦土になって明日食うものも満足にない状況では、国民にとって「平和」が何よりのお題目だったのだ。当時としては「天皇が象徴だって? 何だそれ」という疑問はあったものの、とにかく天皇が存在し存続することが国民の希望であったから、反対も何もなく受け入れられた。
ところで今朝の新聞では憲法改正について「賛成が57パーセント」と出ていたが、この憲法改正の意見は「第9条の改正」のみならず今日的な「緊急事態」に対応した改正や、「性的少数者」及び「夫婦別姓」などに対応した改正を望む者も入っているだろうから、57パーセントとのすべてを「第9条の改正」と見るのは早計だ。
それでも「第9条の改正」はおそらく半数近くに上るわけで、焦点が9条改正であることは動かない。
その9条のどこを変えるのか、加えるのか? 大まかに言って次の2つだろう。
1、自衛隊の明記(を加える=加憲) 2、個別的自衛権による武力行使の明記(を加える=交戦権の容認)
このうち1番の「自衛隊の明記」は今日の自衛隊の災害復旧活動や人命救助活動を見ていれば、反対する人は少数だろう。
問題は2番だ。
第9条では第1項で「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久に放棄する」と書いてある。そして第2項では「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない」と書く。
この9条には「個別的自衛権」というおよそ主権国家ではどの国にも認められている「自国をよそからの攻撃から守る固有の権利」というものがない。これは全くの片手落ちである。戦勝直後のアメリカによる押しつけ以外の何物でもない。
だからここは次のように変えなければならない。
第1項「個別的自衛権による自衛隊を有し、その武力の行使は専守防衛に限り許される」
この第1項を大前提とする第2項は、
「自衛隊は陸海空にわたる防衛力を持ち、緊急事態下では総理大臣を最高司令として防衛及び災害復旧に当たる」
とするのが至当だろう。
とにかく独立国家には普遍的に認められている「個別的自衛権」(自主防衛権)を明記したうえで、第9条を変えていかなければ説得力がない。
この場合、実はアメリカとの二国間相互防衛条約である日米安保条約は排除される。二国間による相互防衛条約を国連憲章は本来認めず、国連による多国間相互防衛が基本だからである。
別の言い方をすればまさに安倍元首相がよく口にした「集団的自衛権」に他ならない。
しかしながら、第9条を上のように変えるとすれば、「個別的自衛権」による「専守防衛」だけを表明していることになるから、他国との「集団的自衛権」によるタッグは憲法違反となる。
もしどうしてもアメリカ始め他の「自由諸国」とタッグを組みたいのなら、第9条はいったん廃棄したうえで「自衛隊を有し、国防上、必要であれば集団的自衛権により、交戦権を行使する」と変えなければならない。
そこまでの改変を主張する日本人は稀だろう。
私は無論反対である。上記のように個別的自衛権と自衛隊の存在を明記した上で、永世中立国宣言をしてほしいものだ。
実は、日本はスイスのような永世中立国になるといい――と言ったのはあのマッカーサーである。
しかしその後の中国共産党政府の成立やソビエトとの冷戦確執が始まり、日本に極東における自由陣営の防波堤の役割を担わせる必要があったため、その提案は撤回されてしまった。
今また日本の極東における防波堤が、アメリカの対中国戦略練り直しの中で見直されている。だが日本はもう防波堤ではなく、米中二大国の狭間に存在するクイのような塩梅だ。経済的には対米・対中どっちもなくてはならない存在だからだ。
「まるでコウモリのような日本」などと言われないうちに永世中立国宣言をするのが最良だ。世界がそれを待っている。
いうところの「平和憲法」だが、実はマッカーサー連合国軍総司令の下、日本側の草案を下敷きにしながら、「2度と日本が戦争をしないように」前文と天皇条項と第2章第9条(戦争放棄条項)を書き加えて仕上げた憲法なのである。
こういう観点からすれば、新しい日本国憲法は「マッカーサー憲法」とか「押しつけ憲法」とか呼ばれても仕方がない。敗戦とともに廃棄された明治憲法が、日本各地の啓蒙者による「私家版憲法」が数多出され知恵が絞られて形成されたのとはだいぶ違う。どっちが「民主的」だったか分からない態のものだ。
しかし、敗戦によって打ちひしがれ、焦土になって明日食うものも満足にない状況では、国民にとって「平和」が何よりのお題目だったのだ。当時としては「天皇が象徴だって? 何だそれ」という疑問はあったものの、とにかく天皇が存在し存続することが国民の希望であったから、反対も何もなく受け入れられた。
ところで今朝の新聞では憲法改正について「賛成が57パーセント」と出ていたが、この憲法改正の意見は「第9条の改正」のみならず今日的な「緊急事態」に対応した改正や、「性的少数者」及び「夫婦別姓」などに対応した改正を望む者も入っているだろうから、57パーセントとのすべてを「第9条の改正」と見るのは早計だ。
それでも「第9条の改正」はおそらく半数近くに上るわけで、焦点が9条改正であることは動かない。
その9条のどこを変えるのか、加えるのか? 大まかに言って次の2つだろう。
1、自衛隊の明記(を加える=加憲) 2、個別的自衛権による武力行使の明記(を加える=交戦権の容認)
このうち1番の「自衛隊の明記」は今日の自衛隊の災害復旧活動や人命救助活動を見ていれば、反対する人は少数だろう。
問題は2番だ。
第9条では第1項で「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久に放棄する」と書いてある。そして第2項では「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない」と書く。
この9条には「個別的自衛権」というおよそ主権国家ではどの国にも認められている「自国をよそからの攻撃から守る固有の権利」というものがない。これは全くの片手落ちである。戦勝直後のアメリカによる押しつけ以外の何物でもない。
だからここは次のように変えなければならない。
第1項「個別的自衛権による自衛隊を有し、その武力の行使は専守防衛に限り許される」
この第1項を大前提とする第2項は、
「自衛隊は陸海空にわたる防衛力を持ち、緊急事態下では総理大臣を最高司令として防衛及び災害復旧に当たる」
とするのが至当だろう。
とにかく独立国家には普遍的に認められている「個別的自衛権」(自主防衛権)を明記したうえで、第9条を変えていかなければ説得力がない。
この場合、実はアメリカとの二国間相互防衛条約である日米安保条約は排除される。二国間による相互防衛条約を国連憲章は本来認めず、国連による多国間相互防衛が基本だからである。
別の言い方をすればまさに安倍元首相がよく口にした「集団的自衛権」に他ならない。
しかしながら、第9条を上のように変えるとすれば、「個別的自衛権」による「専守防衛」だけを表明していることになるから、他国との「集団的自衛権」によるタッグは憲法違反となる。
もしどうしてもアメリカ始め他の「自由諸国」とタッグを組みたいのなら、第9条はいったん廃棄したうえで「自衛隊を有し、国防上、必要であれば集団的自衛権により、交戦権を行使する」と変えなければならない。
そこまでの改変を主張する日本人は稀だろう。
私は無論反対である。上記のように個別的自衛権と自衛隊の存在を明記した上で、永世中立国宣言をしてほしいものだ。
実は、日本はスイスのような永世中立国になるといい――と言ったのはあのマッカーサーである。
しかしその後の中国共産党政府の成立やソビエトとの冷戦確執が始まり、日本に極東における自由陣営の防波堤の役割を担わせる必要があったため、その提案は撤回されてしまった。
今また日本の極東における防波堤が、アメリカの対中国戦略練り直しの中で見直されている。だが日本はもう防波堤ではなく、米中二大国の狭間に存在するクイのような塩梅だ。経済的には対米・対中どっちもなくてはならない存在だからだ。
「まるでコウモリのような日本」などと言われないうちに永世中立国宣言をするのが最良だ。世界がそれを待っている。