いつもは第4火曜日の教室ですが、今月は28日で終り、投句に間に合わないと言うことで、今日代替えの教室を行いました。でも休みの人が多くて、出席者は6人でしたが、その分時間がゆっくりあるので、内容の濃い句会ができました。
前も書きましたが、一語でがらりと場面が変わるという句について今回も書きましょうか。
原句は〈蓋とれば眼鏡のくもる蕪蒸〉です。この句の季語は「蕪蒸」。器に魚介や百合根、銀杏などを入れ、すり下ろした蕪に卵白を泡立てて加えたものをかけて蒸し、とろみをつけた出し汁をかけて熱いうちに食べるもの。茶碗蒸しのようなものですが、一味違った通の人に好まれる京料理です。この句、確かに分かりやすい句ですが、この分かりやすいと言う感想で終ってしまうには勿体ない句ですね。そこで考えてみましょう。
この蓋は何の蓋でしょうか?普通蕪蒸は蓋付きの茶碗で作りますので、もちろん「蓋とれば」は茶碗の蓋ですよね。その蓋を取って食べるときに眼鏡がくもると…本当でしょうか。余程のことがなければ、そこまではくもらないでしょう。ちょっと大げさです。するとこんな意見が出ました。「それは作っているときの蒸し器の湯気でくもるのでは…」と。それなら分かります。でもこのように表現したのではそれは分からないでしょう。「鍋の蓋とれば」と言わなくては。または、〈蓋とればくもる眼鏡や蕪蒸〉とでもすれば、下五が切れますので、作っている景ともなりえますが…。
だからこの句の欠点は、蓋の曖昧さ、「とれば…くもる」という因果的なところ、さらに湯気でくもるというあたりまえの内容にあります。
さあ、これをどう添削したでしょうか。この作者は一人暮らし、自分のためだけに蕪蒸を作ったと考えてもいいのですが、勿体ない。年末からお正月にかけて、子どもたちの家族が総勢9人も集まって賑やかだったという話を以前聞いていましたので、次のように直しました。
〈集ふ子に眼鏡くもらせ蕪蒸〉こうすると、集まって来る子どもたちのために作っている蕪蒸で、その鍋の湯気で眼鏡がくもっていることになりますね。決して食べている景ではありません。
さらにこれを、〈集ふ子と眼鏡くもら…〉と「に」を「と」に変えると、それだけで、子どもたちと一緒に食べている和やかな景になるのです。しかし、そうすると、季語の「蕪蒸」がしっくり来なくなりますので、例えば「おでん食う」とか「〇〇鍋」とかの、みんなで食べる冬の季語を考えてみるとよいでしょう。いかがでしたか?面白くありませんでしたか。俳句というものは、本当に知的な言葉の文芸なのです。
ではまた面白いテーマがあれば、次の機会にでも書きましょう。