ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

千代尼忌と百合

2017年09月08日 | 俳句

 今日9月8日は「千代尼忌」、勿論陰暦ですが。1703年生れの江戸時代の俳人で、加賀千代女として十代から俳名を知られ、美濃派の各務支考(かがみしこう)や伊勢派の中川乙由(なかがわおつゆう)、加舎白雄(かやしらお)らと接した逸話も残っているそうです。加賀国松任の表具師の娘で、52才で出家し、その後は素園と号します。〈朝顔に釣瓶とられてもらひ水〉の作者として有名ですが、その生涯は不明な点が多く、1775年73才で没。

   千代尼忌や屋根石灼くる街に佇ち   沢木欣一

 この句の季語はやはり「千代尼忌」なんでしょうね。歳時記では晩秋になっています。しかし、「屋根石灼くる」というのは、どういうことかしら?「灼く」というのも季語で、真夏の太陽の直射熱によって灼けるような熱さをもった万物の状態をいうのですが。まあ晩秋と言っても今の10月頃でしょうから、秋の日射しの強い日があってもおかしくはないででしょうし…。また、「屋根石」がある街というのも、今時は見かけません。だから何となく一昔前の時代を感じさせる景ですよね。その屋根石にぎらぎらと太陽があたり…ああ、今日はあの加賀千代尼の忌日だったなあ…と、そんなところでしょうか?今一つ分らない句ですね。もしかしたら旅に出ての句かも。そんな雰囲気がある句ですよね。

 そんな疑問が湧いてちょっと調べてみました。すると昔加賀藩では屋根石の家が中心で、それは貧しいからとかいうのではなく、武家も商家もそうだったというんです。作者の沢木欣一氏は富山市出身で北陸の人。若いときは金沢で過ごしていたとか、とすれば屋根石はよく見かけたでしょうし、また故郷の景に繋がるものだったんですね。

 ところでこの句は、1944年出版の句集『雪白』に収められた句。彼は、1939年金沢の旧制第四高等学校の時句作を始め、その後加藤楸邨や中村草田男に師事、1942年には東京帝国大学に入学します。ところが1943年には招集を受けて出征するんです。それで遺稿になるかもと考えて、句集の草稿を後に妻となる細見綾子に託し、その尽力で出版された句集だということです。と言うことは、この前掲の句はそのころの金沢で詠んだのか、それとも東京に行って故郷に帰る時、途中の松任に立ち寄って詠んだものかも知れませんね。

 昔私の先生から、忌日を詠むのは非常に難しいからなまじっかな気持ちでは詠まないように、と注意を受けたことがあります。だから余程の人の忌日で無い限りは詠みません。正直なところ、これは「千代尼忌」が効いている句なのかと聞かれてもホントよく分らないんですよね。千代尼の人生を考えても「灼くる」イメージはどこにも出てこない気がするんですが、どなたか教えて下さる方いらっしゃいませんか?じゃあ分らなければ書かなきゃいいのに…ハイ!自分でもそう思いました。でも、ここまで書いてしまったので…詠んで下さった方、どうもスミマセン!

 今日の写真は「百合」。でもこれは普通夏の季語としての百合ではないんです。白百合の代表格「テッポウユリ」は、5~6月頃咲くんですが、お盆頃から今頃咲いている、この花によく似た百合は違うんですよ。特に高速道路なんかを走っていると、斜面に沢山見かけるでしょう。あれは、台湾原産の「タカサゴユリ」で、庭植えや切花用として持ち込まれたものが野生化したもの。だから、テッポウユリと似ていても咲く時期が違いますし、よく見ると、タカサゴユリには花の外側に赤い筋が入っているので区別がつきます。

 ところが、この写真の花は真っ白で赤い筋はないでしょう?不思議に思って調べると、最近はテッポウユリとタカサゴユリの自然交雑種が繁殖して、どこにでも飛び散って花を咲かせているそうです。だから、我家にも雑草の中に種が飛んできて咲いたんですよ。

 なんと、その名を「シンテッポウユリ」と言うんですって!

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