今日は「中秋の名月」ですよ。すなわち陰暦8月15夜の月。 しかし、満月は10月6日なので少し欠けています。要するに月の満ち欠けがきっちりと1日単位でないので、そのずれが生じて、8月15日は名月であっても、満月になるとは限らないのですよ。今年は2日ずれていますが、次にぴったりと8月15日が満月になるのは2021年だそうです。ああ~ややこしい!
ところで、今日もテンちゃんを旦那が病院に連れて行ってくれました。昨日の黒くなっているところは皮膚が壊死しているんだそうです。「それでどうなるの?」「穴が開くかもしれんて…そしたら縫うのかも…」「そこはもう毛が生えてこないわよね~」人間の壊疽と同じなんです。コワイですね~。明日もまた病院ですって…可哀想なテンちゃん!早く良くなりますように。
またまた話変って、「名月」に戻りましょう。以前9月6日のブログ「一茶の〝月〟」で取り上げましたが、〈名月をとつてくれろと泣く子かな〉という一茶の句、後で分ったことですが、これは『おらが春』に収めるとき改作したもので、五年前には次のように詠んでいたというのです。
あの月をとつてくれろと泣く子かな
意味は全く同じなのですが、「名月」と「あの月」ではちょっと印象が違ってきますね。あの月を…という「あの」という連体詞が子供らしいそのままの口調を思わせて、実感がこもります。「名月」では何となく作り物っぽい感じがするように思いませんか?私が思うには、『おらが春』は、一茶57才の一年間の身辺雑記や回想を記したもの、五年前というと52才で最初の結婚をした年です。だとすると、子を3男1女設けたのだから、いくら幼くて次々と亡くなったとしても、この一年間にはわずかではあってもこれらの子供らと触れ合う時間はあったでしょうから。とすると、初案の句は無邪気な子供が実際に言った言葉をそのまま詠み込んだと考える方がよさそうですよね。では、なぜ五年後には「名月」と改作したんでしょうか?
私が思うには、そのままでは死んだ子のことがあまりにも生々しく思い出されて、とても辛かったんではないかと…。みなさんはどう思われますか?だからここはちょっとわざとらしく戯謔的に詠み替えたのではと思うのですが…。一茶にはそういうところがありますよね。
今日の月はとてもきれいでした。まるで次に来る〝後の月〟、すなわち十三夜の中秋版ですね。でも満月に見えるでしょう!